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生きたくない気持ちと生きる

「死にたい」「消えたい」「生きていたくない」

私は過去に何度も、そんな気持ちになったことがある。そして、今でも時折なることがある。


小学生の頃、不登校で両親は共働きしていて、家にひとりぼっちで長い時間を過ごしていた。

毎日に意味が感じられない。 
自分は出来損ない。
この世界に合わせて生きることができない。

みんなはできているのに。

この先私はどうなるんだろう。
楽しい未来なんてものは待ってるはずがない。


なんで生きてるんだろう。

もう、ここで終わりでいいじゃん。

その方が楽だし、いろんなことに思い悩んで辛くなって、泣いて、泣いて、怒って、叫んで。
しなくていいんだし。

そうやって考えて、ベランダの柵の上に座って足を外に放り出して、下を見て。

ここからだと低いかなあ。
土のところに落ちたら骨折だけで終わりそう。
コンクリートのところ狙わないとなあ。
痛そうだなあ。
痛くない死に方ないのかな。

なんて考えて、結局実行することなく部屋に戻って、親が帰ってくるのを出迎えた。

そして次の日もまた、同じことを繰り返す。

この頃、私には「生きている」感覚がないときが多くあって、自分の存在そのものが、自分にとってすごく曖昧だった。


すごく悩んでしんどいからと、
楽になりたくて「死にたい」と思った時期もあるし、

プツっとスイッチを切るみたいに、
この瞬間で自分を終わらせてしまえたらな、と思っていた時期もある。


大人になって、仕事のストレスが大きくかかって精神的に辛くなったとき、感じたのは前者のような想いで。

明日が来て欲しくないとか、考えたくないとか。

つまりは、何かから「逃げたい」けど「逃げられない」という感覚からくる、「消えたい」

本当は逃げられるはずなのに、中間の選択肢があるはずなのに。
追い詰められたとき人は、
「逃げない」か「消える」の2つの選択肢しか見えなくなる。
選べなくなる。


そして最近、時折頭によぎるのは後者の方で。

ある曲の歌詞で
「惰性で観てたテレビ消すみたいに、生きることを時々やめたくなる」
というのがあるのだけれど、まさにそんな感覚。


もういいかな。
ここでいいかな。

ちょっと生きるの、疲れたな。

って感じ。


でも、
こんなことを書いていると、
私が死にそうな人に見えるかもしれないのだけれど、

私は多分、きっと、おそらくはね、
自分で人生を終わらせる選択はしないのだと思う。

この先もずっと。
考える力の残る限り。

どうしてなのか、と考えてみると、
大きく3つの理由があるのだと思う。


1つは、

私がその選択肢をとると辛い気持ちになる人がいることを、いてくれることをわかっているから。

私自身、その辛さを知ってる。

私は、私の周りの人たちに、
私の存在を心に大きく置いてくれている人たちに、幸せでいて欲しい。

私がふと決断してしまったことで、その人たちの心を一時でもぐらぐらにしたくない。


それに、たとえば誰かがすごく辛くなった時、
私が生きていることが、

「でも〇〇もあんな感じやけど生きてるやん」
って、誰かの心の中でぽつんっと呟かれる瞬間があるかもしれない。

この理由は、孤独だった子どもの頃にはなかったもので、本当に最近思うようになった。

この世界に生きてる仲間のような存在が、
今はいる。


そして2つめの理由は、

「死ぬ」ことは「決断」で、
「生きる」ことは「保留」だから。


「死ぬ」ことはある意味、スタートさせなくちゃいけない。
終わらせることを。
そして「決断」は下したが最後、前の状態に戻すことができない。

「生きる」ことと「死ぬ」ことから、1つだけ後者を選ぶのが「死ぬ」ということだ。

それとは逆に「生きる」ということは、
「生きる」か「死ぬか」から1つを選ぶことじゃなく、選択を「保留」することだ。

まだ決めない。
でもいつでも後者を選ぶことはできる。

後者を選ぶかどうかを決めるために、そのための情報を集めて考える時間を過ごしているだけで、
私は既に生きている。

今「決断」しなくていい。いつでもいい。

こう考えているものだから、「生きる」と「死ぬ」を天秤にかけて傾いた方に決めようとはならない。
大きく「死ぬ」に傾いて、天秤が壊れてしまって、
もう2度と「生きる」に戻ることがないと感じない限りはきっと。

私は「生きる」という名の「保留」を選ぶ。


そして最後の理由が、

この世界に対してまだ好奇心があるから。

どうして天秤がまだ壊れていないと感じるのか。
その理由が私の場合は好奇心なのだと思う。


まだ自分の知らない世界がたくさんある。それを見てみたい。

まだやったことのない面白いことも、見たことのない綺麗な景色も、
出会ったことのない素敵な人も、聞いたことのない愉快な話も。

今私の目に見えているものがどんなに汚くても、
どこかに必ずそれらはあって、この先出会える可能性がある。


だから、たとえ今「死ぬ」に傾いていても、
いつか「生きる」に傾く瞬間がくるんじゃないかと、少しの期待がある。



私は決断を下すのが苦手だ。
すべての可能性を考えてからじゃないと、なかなか行動に移せない。
そんな自分に嫌気がさすことが多々ある。

でもそんな自分だから、今こうして生きている。

とりあえず、一旦、これからも生きてみようと思う。


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