真心でしか生きられない世界に突入した
Aloha!
コロナという浄化が始まって以降、世界はもう真心でしか生きられない世界にシフトした。
最近息苦しさや、息が詰まるように感じることはない?
とうとう自我では息ができなくなってきたようだ
自我で生きてきた私は息も絶え絶えで、藁をも掴む思いで夢を掴み、それも幻だったと気づいて何もわからなくなっていた。
そんな中で今日あったことをライブで整理していこうと思う
「娘と会話できない!」
真心を使わない世界で生きてきた私は、真心で話す娘とは会話が成立しない。
それどころか今日なんて内と外の区別ができなくなり、素敵なカフェに行ったのに私はお金の話(引き落としに間に合わないとか)を人目を憚らずにしてしまったり、店主の可愛がっている猫を執拗に気にかけたりして、せっかく落ち着いて会話ができると思ったら話をそらせ続ける母親に娘はイライラしていた。
挙句、距離を置くことにした人がいるという娘の話に対して、少し前に流行っていた「自己啓発書GIVE&TAKE、テイカーとギバー」に紐づけて話を始めると、「全く関連がない」と娘の怒りを買い、一方的で狭い視野の意味のない話だと呆れられた。
「親切」
なぜか私は娘と娘の知人との関係を「テイカーとギバー」と言う知識に当てはめてしまった。
それは娘にとってきっと「偏見の権化」のようなものだったのだと思う。
更に「そんな低レベルな返答をママにさせたのはなぜ?(あなたの鏡なのだからあなたが言わせたのでしょう?)」などと言ってしまい、「いきなり責任転嫁?」と返されてもう会話してくれなくなってしまった。
自分がかつてもらったアドバイスを娘にしようともしていたみたい。
「会話にならない」
「会話したかった」
と、娘にキレられて私は真心で娘と会話していなかったことに気づいた。
私は娘の怒りを買い、自分の至らなさに身を切られるような痛みと悲しみを感じた。
「自我で話さず真心で話すことが自然であり愛である」と知ってはいても、まだまだ真心で話す習慣が身についていない。
集合意識や知識を頼る慣習から抜け出せないでいるし、それに気づけない。
真心で生きている人の前では特にエゴが思いつき、口走り、真心を見失い、自我が暴走してしまう。
「間違っていたら指摘してくれる」と、自分を先ず疑うことを放棄した甘えもあったと、今感じた。
「殺されることで救われた」
私自身は全く自覚がないのだけれど、「ママはカフェの中でカッコつけようとして、店主に媚を売ったり知識を披露しようとしていた」らしい。
カフェと店主の異様な雰囲気に呑まれたところもあるけれど、集合意識とその知識に乗っかるところも真心に従わず自我に従う癖というか、そんなエネルギーで言動してしまっていた。
薄っぺらい知識と、小さ過ぎる視野で意味のない話を何故できるの?と娘は言い放った。
私は真心で会話していないと自覚し自信は木っ端微塵に砕け散った。
ようやく私は娘の話を正直に「わからない」と言ってもよかったと気づいた。
わからないことを「わからない」と言うことを自分に禁じていたから「わからない」と打ち明けられず自我で着飾ろうとしていたんだ。
自我に従う限り、無意識に着飾り続けていたんだ。
どおりで職場を変えても息苦しさが拭えなかったわけだ・・・今日は一悶着あって特にしんどくなっていたし。
でもこんなことに気づいて怒ってくれるのは娘しかいない。
そしていつも自信過剰で頑張ろうとする私には、今日の自信喪失は絶対に必要なものだった
アーユルベーダに、トリ・グナという心の健康を司るラジャス、タマス、サットヴァという三つの性質がある。
私はラジャスと言う戦闘体制になる性質に偏りがちで、偏ってしまうがゆえに私が「実」になり娘を「虚」という支えにして力を出していた。
ずっと娘に支える側を担ってもらっていたんだ。
そのバランスを変えるために私はタマスの性質をもっと持つ必要があった。
そのためには自信喪失がもってこいだったんだ。
チーン・・・
と、漫画で口から魂が抜ける感じになればタマスに入れる。
こうして今日、私は娘に殺された。
自我を殺してもらったんだ。
殺されて私は救われた。
「本来の生き方」
「自我(経験と知識)を使う不自然な生き方」に慣れてしまい、「真我を使う自然な生き方」を見失った私が本来の生き方に回帰する物語は続く・・・
真心を使うぞ!と思わなくても真心でしか生きられない世界に入っていたのでした。
今日死んで、今日目覚めました。
と言っても小さな一歩だと思う。
これを毎日毎日続けていたらきっと、数年後の私は毎日毎日神と対話しながら生きているに違いない。
これをずっと続ける地道な道が目覚めの道なんだ。
共に真心の世界で息をしよう!
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