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仏教も新たに読み解かれるのを待っている。~momoの『ほほっ~日記』~

最近、
自分の知らなかった分野のことを聞いて、
『ほほっ~!』とうなることが多いので、
不定期に『ほほっ~』と思ったポイントを
日記として記録していこうと思う。
2020年10月3日の日記。
観音経とは、
『個人の中で忘れられている愛の本質をめざめさせ 
限りない力を発現させる責任をまっすぐに歌う
愛の詩
』として
日蓮宗の大法院の草野妙敬さんと
神仏絵師の昌克さんのオンラインセミナーで
見事に読み解かれた。
無知がゆえに、
出会いそびれていた日本の精神性の奥深さに
であえた幸せを味わっている。


オンラインで今の時代に読み解かれる観音経

面白い時代を生きていると思う。
昨日は、
群馬県の舘林市で日蓮宗の大法院の女性住職をされている
草野妙敬(くさのみょうけい)さんと
神仏絵師の昌克(まさかつ)さんの対談を
オンラインのZoomの企画で聞かせていただいた。

実は、昨日のオンライン企画の少し前に参加させていただいた
草野ご住職の観音経の解釈が超核心的だったのが
この会への参加のきっかけとなった。
曰く、
すがる対象としての仏としての『観音様』から
祈りをささげる側の自分たち自身が
観音の光とおなじ境地となって生きることで
この世界の苦難が、
もはや問題としては存在しえない世界に通じるという
ズバリと本質をついたもの。 


群を超えて現代的で、
混乱やまやかしの多い今の時代に
まさに必要な核心を
ついているなと感じたことがきっかけだった。

カタカナの欧米から逆輸入の形で入ってきている
スピリチュアルブームの中でいうところの
ノンデュアリティ―。
『この世界を自分自身の内側の反映』として
とらえる非二元の世界観の核心でもあり
もとはといえば、
仏教が本家本元なのかもしれない。



観音経の説く七難とその超え方by神仏師昌克さん

法華経の観音経の中では、
この世界の代表的な苦しみを
七難として説いている。

火難(かなん)、
水難(すいなん)、
風難(ふうなん)、
刀杖難(とうじょうなん)、
悪鬼難(あくきなん)、
枷鎖難(かさなん)、
怨賊難(おんぞくなん)の七つ。


法華経の観音経の中で、七難については
前半の長い説明文に当たる部分と
後半の漢詩文の形で書かれた短い偈文の中に
ともに
ほぼ繰り返す形で登場し
観音菩薩が人を救済する場面が
具体的な場面として説明されている。


その七難について昌克さんは
火難(かなん)の本質を、怒り。
水難(すいなん)の本質を、飢えや渇望。
風難(ふうなん)の本質を、見えない力や無知、無学。
刀杖難(とうじょうなん)の本質を、力によるハラスメント。
悪鬼難(あくきなん)の本質を、争い。
枷鎖難(かさなん)の本質を、束縛や呪縛。
怨賊難(おんぞくなん)の本質を、妬みや嫉みと象徴的に
とらえて説明された。

観音経の前半に繰り返される七難を
被害者としての立場。
後半の偈文では、
人に苦難をもたらす存在としての立場に焦点を当て
加害者の立場として対比して説明しされた。
お互いに苦難をもたらす立ちであり
苦難をもたらされる立場としても
生きている人間の
『お互いさま』の循環の視点である。

この視点で見ることで
救済を願う都合のよい『弱者』としての人間ではなく
人間の七難を産んでいるのはだれか?と問うている。

この結果、
加害者足りうる人間への戒めと自覚を
同時に呼び起こす読み解きとなっていた。

また、
『念彼観音力(ねんぴかんのんりき)』という
繰り返されるフレーズの意味を
『あなたが、観音様の力を使えば』
『この世の七難(一切の苦労)は消えるのだ』と
より能動的に読み解いている。


これは、神仏の哀れみをこう
力なき人間としてではなく、
七難を消し去る力を持つ観音と
視点まで意識を広げよ。
そして、この世界の苦難を超越し
ひいては、消し去る側になれという
実にパワフルで本質的なメッセージだと
受け取った。


神仏師・克昌さんは、
観音経を読み解き、現代の私たちにも
すとんと優しい言葉と観音様の持つ女性性の
メッセージが伝わる絵本を作られている。
多くの人に読んでほしいと
なんとHPで無料で公開されている。
『この世で得たものは、
 この世で置いていく』とは、克昌さん。
私たちは、素晴らしい時代に生きている!
HPでその柔らかい言葉とメッセージが
日本語と英語で読むことができる。

改めて読み解かれる智慧としての仏教

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今回、大法院の草野妙敬さんとのご縁をいただき
昌克さんが柔らかい言葉と絵本に託された
『愛の詩』としての観音経に出会った思いだ。

仏教にしろ
キリスト教にしろ
宇宙の文明にしろ
人間に対して、
『無力で哀れみを乞うべき存在』として
定義されるものに対して、
私は、昔から無意識の中にあるセンサーが
「no!」というようにできている。
このため
人間の救済を説く『仏教』というものに
正直なところ
本質的な意味で興味を持つことができなかった。



オンラインでのこの会を聞いた昨日、
くしくも
めったに話す機会のない人と
人生の方向せいを探るアンテナのような話をした。
『受け取る気持ちになってサインを探せば
 これでもか!というほどに、サインは送られてくる。
 共時性をもって送られてくるサインは、
 疑いの余地なく、これでもか!これでもか!とやってくる』
と。
 
観音経とはかかわりのないこの会話が
翌日になってもなぜか頭をよぎり
『そうか!』と結びついた。

ちょうど、聖書の中にある文字を
一定の間隔で読み解くとあるメッセージが浮かぶとして
注目された『聖書の暗号』ではないが、
仏教の経典というものに託されたメッセージが
今という時代に合わせて
再度、アップデートして読み解かれ新しい意味をもって
登場する時代になったのではないかと。

光の暗い時代に
救済を求めて説かれた解釈から
今、あたらしい時代にはいり
一人ひとりの個人の中にある広大な意識を目覚めさせ
自立を促すサインとして
人類全体に送られてきている
『愛の詩として』読み解かれる時代
になったのではないかと。

改めて
今、明るい時代になったのだと
点と点が少しづづつながりあうような感覚を覚えている。



 


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