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余白

こんにちは!
動きの速いグレーの雲間から、陽が射してきました。
雨上がりのアスファルトがキラキラしています。

気圧の変動が緩やかになったのか、バタバタする体が今日は落ち着いています。
ほっとします。

以前に、「集団の輪っか」と「個人の0ポイント」という言葉を使って説明を試みた。

例えば学校や会社や地元地域や幼馴染みの集団や、人が集まる場所に「個人の0ポイント」が集まる時、ぼんやりとできる輪っかがあるんじゃないか?という仮説。

わたしの場合は、集団に居る時、粒とつながり線が活性化しやすいようで、星座になるのが追いつかないとちょっとアップアップする傾向にありそう、という仮説が出てきた。

星座になるのが追いつかないのに、粒とつながり線がさらに増えていくと、体がバタバタしてしんどくなるし、
無意識だけど星座になることを指向していたと言えそう(仮説)。

たぶん、集団の中に居ないときも、粒とつながり線の活性化で忙しいんだと思われる。

集団に居ない時も活性化で忙しい

「いそがしい」は「せわしない」と同じ漢字が当てられているんだ、ということに納得させられる。

例えば、
・気温差に応答している
・気圧の変化に応答している
・音の変化に応答している
・服と応答している
・食べ物と応答している
などなど

無数に粒とつながり線の活性化が起きていて、それはわたし以外の人もきっとそうだろうと思うけれど、他の人の体にはなれないから比べられないけれど、
ここまでの「わたしがわたしと話すための言葉」を使って説明を試みて、ああ、たしかにそういうことが起きているかもなあ、と自分で感じられるようになったことというのは、

粒とつながり線の活性化が過剰だ

ということ。

なぜ、粒とつながり線の活性化が過剰になりやすいのか

これが、今のわたしの問い。

ここまで考えてみたところから浮かんでくる仮説としては

・刺激の素と接する受容体が細かい
・その場合、粒が細かく多く発生しやすい
「受容体の細かさ」の違い


・星座未満=粒とつながり線の軌跡(記憶)が多い
・粒とつながり線の軌跡(記憶)が多いと、「思い出され」しやすさに通ずる
・その場合、「星座になりそう」の可能性が無限に増えていく
・「星座に成りそう」の可能性が無限に沸いてくると、星座は収れんされにくい
・その場合、確固たる形・星座という落ち着きかたより、星座に成ろうとする運動「粒とつながり線の運動の軌跡」が、わたしの中に残りやすい
→「思い出し」現象に通ずる
星座未満・粒とつながり線の軌跡=「思い出し」現象に通ずる


・「粒とつながり線の軌跡」が大量に残っているが故に、さらに、刺激の素に接した時に粒とつながり線の活性化が起きる

・というような循環が「わたし」という現象に現れているのではないか

・そして、一旦、活性化しだした運動は、下り坂で自転車のスピードが出ている時に容易に停止できないのと同じように、簡単には落ち着けないのではないか
増大し加速する運動

これらは、「わたしの経験」を説明する言葉を探して、記述してきたことから出てきている。
すべてわたしに当てはまるかどうかはわからない。仮説として今のところ上ってきている。

例えば、
わたしは幼少期からアトピー性皮膚炎があったのだが、あれは、刺激の素に自分の受容体が過剰に応答しすぎる、応答が止まらない、という現象なのだ。
剥き出しになった皮膚はさらに刺激の素に晒されることで、ますます粒とつながり線の活性化が加速する。

例えば、
中学生の頃、めずらしく体育祭でリレーの選手に選ばれ走った際、「大股で走ろう」と自分なりの工夫をしたところ、スピードに乗った時点で足が、自分のコントロールを外れてしまった。
スピードが出ていて、足が大股に開きすぎて、「あ、こわい」足と体がバラバラ!ってなったんだけど、その時にはもう止まれなくなっていた。
付け根から足が自分勝手に繰り出してくる、というような感じだった。こわかった…。
あ、またホラーになってる。

自分のコントロールを外れる「運動・エネルギー」

一旦、動きだした活性化のエネルギーは、刺激の素を取り込み増大していく。スピードに乗り、容易には停止しにくい運動になる。


容易には止まれない、自分のコントロール下にない、ということは、けっこう、こわい。

では、

粒とつながり線の活性化が落ち着く現象には、どのようなパターンがあるのだろう。


例えば、「余白」

こんなことがたまに起きる。
「活性化しだした運動、有機的自律運動」が、その場で星座に落ち着かない時、
ずっと後になって、「ああ、そういうことか」と、星座にまとまる現象。

ふっと「ああ、そうだったのか!」と、膝を打つよう時。
お風呂に入っていたり、散歩をしていたり、なんとなく映画を見ている時、などが多いかもしれない。
・直接関係のあることをしていない
・刺激の素が少ない
・変化が少ない
・体がほっとゆるんでいる
みたいな時と言えるかもしれない。

「時間」もまた、「余白」だ。
その場では粒とつながり線の活性化に溺れていても、時間が挟まることで星座に収れんしていくことがある。
あの時のあれは、こういうことだったのか。というような。


現代においては、有機的自律運動のはたらきのままに任せる、という機会は、驚くほど少ないのかもしれない。
わたしだけじゃなくて、多くの人が、刺激の素に接し続け粒とつながり線の活性化に追われている状況に居るのかもしれない。
なおかつ、集団の輪っかに沿っていくことを良しとする環境にあるかもしれない。


今回は有機的自律運動においての活性化のちょうど良さ、みたいなことを考えてみた。
ひとつは、「余白」があるかもしれない、という仮説。

では、余白とはなんだろう。
今回は「時間」も「余白」かもしれないという仮説が出てきた。
有機的自律運動において、他にはどんな状態が「余白」になり得るだろうか。


※ここまでに出てきた言葉をまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。

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