朋屋久島より来たる有り、また楽しからずや

明日、山羊島シーサイドホテルにて奄美大島JC主催の世界自然遺産シンポジウムがあり、登壇するために屋久島で25年ガイドしてる大野さんが久しぶりにご来島。

ガイド以外にもウミガメの生態調査にも携わってらっしゃるので、普段全然馴染みのない話をその道のプロから聞くのはかなり楽しい。
明日、お時間あるシマッチュの方はぜひ。
いい意味で期待を裏切られます。

さて遠くから友人が来るのはいつの時代も嬉しいものですが、奄美の歴史にも「この人が頑張って友達のとこに通ってなかったら日本の歴史が変わってたんでは」という史実があります。

それは江戸時代の終わり頃、奄美大島の南側、瀬戸内町は阿木名集落に遠島されてた重野くんのお友達訪問。
彼は島の北側、龍郷で暮らしていた同じ下級武士の菊池くん宅に何度も励ましに通っておりました。
重野くんは当時としては珍しく80過ぎまで長生きどころか80過ぎで初めてウィーンに遊学しにいく位に健康でしたので相当な健脚だったとは思いますが、何せ当時は険しい山道ばかりだったので、流石に龍郷までは名瀬経由で舟を使ってたと思われます。

菊池くんは元々明るい性格で陽キャだったのですが、尊敬する人が突然亡くなったりその影響で人生の大目標がリセットされたり、果ては自殺未遂したりで、龍郷で生活する頃にはすっかり人間嫌いのヒッキーに。

この時代に奄美に遠島その他でIターンお住まいになった薩摩の武士の皆様は、頭が良かった重野くんのように「どこに居ようと学問は可能」とポジティブに私塾を開いて物々交換で逞しく生きる人もいれば、「俺の人生は終わった」とやさぐれて野垂れ死にしていく人もいてピンキリ。

重野くんがほっといたら菊池くんもそんな道を辿りかねなかったのですが、重野くんは、元々菊池くんが人を引っ張っていけるタイプの資質の持ち主だとわかっていました。
そして菊池くんが尊敬していた人は、重野くんにとっても江戸でエリート教育を受ける機会を与えてくれた大恩人だったので、放っておけなかったのでしょう。

重野くんがどのように励ましたかの詳細は不明ですが、菊池くんはその後しばらくしてから少しずつ、近所の子供に字を教えるようになったり、普通に近所付き合いしたりしながら嫁を娶り、息子が産まれます。

気鬱がすっかりおさまった菊池くんが「このまま奄美で静かに暮らしていくのもいいかもなぁ」と思っていた矢先、薩摩藩から帰藩命令が届きました。

菊池くんは「西郷吉之助」にもどり、それからのち、大久保利通らと共に明治維新という大変化を起こしていくのです。

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