アーバカナと中世奄美の海上貿易⑤

前回からの続きです。

この辺りまで読んでいると「あれ?琉球が全然出て来ないな」と思われるでしょう。

奄美の「道の島」としての歴史は、ほぼほぼ琉球王国とワンセットにして話に上がりますが、私はこの平安時代から鎌倉時代の頃の日宋貿易、というより
硫黄島で採取出来る硫黄目的の海上貿易に関しては、琉球の貿易史と奄美の貿易史は分けて考えた方がいいのではないか?と考えています。

もしも琉球の方が奄美より進んだ造船技術を駆使していたとすると、琉球による奄美支配の時代が来るのがだいぶ遅いのではないか?と思うからです。

琉球王国による奄美大島の侵攻が開始され「那覇世」が始まるのは、中国大陸で宋の時代ではなく、その後の元(モンゴル)の時代でもなく、大型船や技術者を借りるようになった明の時代の1447年になってから。

もしも日宋貿易の時代に、既に琉球にそれなりの外洋往来が可能な大型船(マーラン船とか)の技術があるとすれば、この時期に奄美侵攻が行われていてもおかしくないのですが(琉球からしたら更に北上して硫黄島まで攻め、奄美の木材資源以外にも硫黄利権を得ようとしたんじゃないかと推測)

前回書いた通り、既に9世紀には唐の時代に黒色火薬の合成方法は発見されていますが、硫黄を日本から買い付けながらも「硫黄をどう使って何を作るか」、すなわち黒色火薬の製造方法を、日本人に教えることはありませんでした。
当時としては最先端の技術なので当然と言えば当然ですが。
実際に黒色火薬を兵器として使用するようになるのは、16世紀に入ったのちの戦国時代からです。

喜界島の城久遺跡では南宋産の青磁器に高麗青磁器、白磁、奄美大島の倉木崎海底遺跡では12世紀から13世紀の中国産陶磁器が発見されていることからも、日宋貿易時代に既に奄美への往来があったことは確認されているので、ここは本当にもっとしっかり解明されてほしいところです。

(続)

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