映画「スターウォーズ8 最後のジェダイ」感想

 よくスターウォーズってさ、「銀河を股にかけた親子喧嘩」って揶揄されるけど、ジェダイもシスもさ、どこまで行っても血筋の問題だってのが、作品にある種の深みを与えてたと思うんだよね。なぜって、ルーカス自身も明言してるように、スターウォーズは神話の文法に沿ってるからだよ。

 プリクエル、嫌いな人も多いみたいだけど、俺は大好きなの。ルーク・スカイウォーカーの物語が、ダース・ベイダーの物語に塗り替えられたという批判は正しくて、子は親になることで初めて、かつて暴君にしか見えなかった親の、裏側にあった悲哀を理解できるんだよね。指摘するとキリがないけど、右腕を切られたアナキンがルークの右腕を切り落としたり、親の知恵ではなく傷こそが子に継がれるというメタファーがすごく切実に迫ってくるの。

 ルーカスのインタビューにもあるけど、否定しようともがきつづけた父親・イコール・権威を、スターウォーズというファンダメンタルを築き上げたことによって自分が体現してしまっていたという悲しみを表現する「シスの復讐」は、彼のフィルモグラフィーを完結させる上で最後のマスター・ピースなわけ。カウンセリングの個室ではなく、文字通り全世界のスクリーン上で極めて私的なトラウマの表現をエンターテイメントに昇華できたという点で、ルーカスは人類史上唯一無二のクリエイターだと思うのよ。キリストでさえ、それはかなわなかったんだからさ。

 話を戻すけど、血筋まみれのヨーロッパから逃げ出した人々の作った「新世界」だからこそ、ブラッドラインの孕む何かに、おそらく後ろめたさから無意識の神秘性を与えてしまい、それがスターウォーズを超大なエスタブリッシュメントに押し上げる不可欠のエッセンスとして機能したと思うんだよね。カイロ・レンがレイに言う「おまえはこのストーリーに必要にない」という台詞は、スターウォーズが過去6作に渡って血統の物語であり続けたことを――前作のフォースの覚醒でさえそれは否定していない――観客へメタ的に読み取らせることを意識した制作側からのメッセージだ。

 一般人に過ぎない存在がスカイウォーカー家のフォースを凌駕したことは、スターウォーズ的世界観の明確な否定につながる。作品外からメタ的に読ませる小技の連続は、スターウォーズのような大作にふさわしいとは思えず、ファンの期待に逆張りするライアン・ジョンソンの小物ぶりばかりを際立たせる。そうなれば、亡くなったキャリー・フィッシャーが死亡フラグをことごとくへし折って、あまつさえフォースの使役にまで目覚めて2時間30分を生き延びたのすら、もはや現実を逆手にとったメタ的なギャグにしか見えなくなってしまう。

 作品舞台にしても両陣営の艦橋とカジノと島くらいで、スペオペ的な広がりは絶無であり、作品世界の狭さに息苦しさすら覚える。さらにエンディングでは馬屋の少年がジェダイの片鱗を見せ、8以降、フォースの使役は血筋に寄らないことを執拗に上書きしていく。これらは紛れもないディズニーの刻印であり、さんざん指摘されていると思うが、ヒューマノイド内の政治的正しさに腐心するあまりエイリアンたちへの目配りが絶無で、ほとんどそれはレイシズムの域にまで達している。チビの天童よしみや紫髪のライリー先生を描写することばかりに尺を割いて、アクバー提督をナレーションの一行で殺せば、ファンも署名活動に至ろうというもの。

 次回作において、旧来のファンが作品へ向けた歪んだ妄念を、同じく顔の造作の歪んだアダム・ドライバーが肩代わりして、ディズニー的絶対ヒロインのデイジー・リドリーにやすやすと斬り殺されることで、これまでのファンが愛したスターウォーズは血筋ごと、この世から完全に抹殺されるのだろう。デイジー・リドリーは作品中で血脈の特権を否定しながら、皮肉にもディズニーという巨大資本から特権を与えられてしまった。デイジーはディズニーがカメラを向けることを選んだシンデレラだから、修行も必要ないし、右腕を切り落とされることもない。なぜなら、ヒロインとして選ばれたからである。ディズニーがそれをやりたいと言うなら、やるがいい。

 しかし、最後のジェダイであるところのレイが、メイス・ウィンドウをはじめとした綺羅星の如き過去のジェダイたちと比べて絶望的に魅力的ではないことは、やはり大きな問題ではあろう。怒り眉を吊り上げる演技しかできない、寝屋ではサイレンの如き嬌声を上るばかりの何の面白みもないファックをしそうな、抱きたくない女優ぶっちぎりのナンバーワン――おっと、男性タレントには許されるこのランキング、女性様方にはご法度でござったかな? メンゴメンゴ! 酔っぱらいの戯言でござる!――スタローン級の大根役者であるデイジー・リドリーは、前作では感じなかったが、血筋の問題から解き放たれた今となっては、あまりに清潔に脱臭され過ぎ、あまりにもディズニー的正統派ヒロインであり過ぎる。その不平等な世界観は、キャリー・フィッシャーとマーク・ハミルが10キロを越える減量を強いられたのに対して、前作から明らかに増量してふくよかになったデイジー・リドリーが、何のダイエットも求められないまま撮影されていることからも、容易にうかがえるだろう。

 実際、ハン・ソロが死に、ルークが死に、レイア姫がリアルで死に、作品を牽引できる旧キャラクターはもはやチューバッカくらいしか残っていないのに、このていたらくである。さらに、血筋という旧来のスターウォーズ的レジームを否定するメッセージを発しながら、感動的な場面やクライマックスはすべて旧作からの借り物であるというところも、本作の問題点であろう。スターウォーズ級の大作ならば、当然公開された後にネットでの反響はすべてチェックした上で次回作へ反映しているだろうし、レイがダース・シディアスやらダース・プレイガスの血筋というプロットも当初はあったはずである。シリーズものゆえの予定調和をことごとく無視するならば、もはや作品の舞台がSW世界である意味はなくなるし、何の血筋でもないヒロインに対しては、エヴァQの時の如く「ポッと出の新キャラごときが、減量失敗してるくせに、俺たちのルークさんへ意見してんじゃねえよ!」という罵倒しか残らない。

 そんな人非人の俺様もスタッフロールの"In our memory of loving princess"の下りには、さすがに涙腺を刺激された。しかし、結局それは旧作までの、ルーカスとキャリーの手柄に帰するもので、一瞬でも感動したことで逆にライアン・ジョンソンへの怒りはいや増す結果となった。映像の快楽を指摘する向きには、ジャンクフードの皮をかぶった高級料理が、高級料理の皮をかぶったジャンクフードに変じたと伝えて、ダラダラとした、この犬のような話を終える。戌年だけにな!

  最後のジェダイ、2回目を視聴してきた。ツッタイーに廃棄した酔っぱらいの放言を反省し、肯定的意見と否定的意見を等分にリサーチした上でのニュートラルな視聴を心がけ、成人の日にあやかって赤青メガネで飛び出すヤツみたいなのに大枚をはたいた。結果として、「笑ってはいけないカジノ惑星24時 with 天童よしみ」がまったく不要なシークエンスであることだけは確定的に明らかとなった。

 しかし、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーの俳優人生に焦点を当てたメタ的な視聴法によって2回目の視聴を意義深く、感動的に終えることができたので、諸賢にそれを開陳しようと思う。与えられた低予算をさらに特撮へ割いたサイエンス・フィクションに、ギャラの安さだけが理由で呼ばれた新人俳優の二人が、予期せぬ形でシンデレラボーイ/ガールとして祭り上げられ、その後は肥大化してゆくスターウォーズのタイトルに人生を呪縛され、その重力から逃れようとずっともがき続けてきた。本シリーズを足がかりとしてスターダムを駆け上がったハリソン・フォードとは裏腹に、二人は好むと好まざるとに関わらず、そのアイデンティティをスターウォーズに規定され続けてきたのである。

 しかし最後のジェダイにおいて、マーク・ハミルとキャリー・フィッシャーは初めて、スターウォーズのタイトルに正面から拮抗し、ついには凌駕してのけた。二人の人生と俳優としての力が、40年の永きを経て、このビッグタイトルにまさったのである。前作から少しも話の進まない冗漫な、絵ヅラ優先の典型的イディオット・プロットであるところの本作は、マーク・ハミルと、奇しくも本作が遺作となってしまったキャリー・フィッシャーへ、最大にして最後の舞台を与えたという一点においてのみ、他のすべての欠点を度外視して肯定され得る。

 我ながら底意地の悪い興味ではあるが、果たしてカイロ・レンとレイの俳優がスターウォーズという巨大な重力に対して、今後どのように人生を規定されていくかという点を個人的に見守っていきたい。現段階の観測として、アダム・ドライバーはハリソン・フォードと同じく、軽々とスターウォーズを踏み台にしていけるだろう。しかし、デイジー・リドリーはどうだろうか。本人の発言からもすでにある種の不安が垣間見えるし、意地の悪いインタビュアーが40年後に本作のキャリー・フィッシャーと同じようなオファーを受けたらどうするかという質問をしていたが、そんな質問を許してしまうこと自体が周囲の見方を如実に表している。

 まあ、辺境の惑星へ捨てられていた割にお肌もツヤツヤしており、唇の血色もよく、身体の肉付きも健康的、ワキや鼠径部に至るまでのムダ毛処理も完璧だろうと思わせる眉毛の手入れなど、このファッキン・ディズニー・プリンセスには、同情の余地なんてないのである。最低のビロウ・トークをもって、最後のジェダイ2回目視聴後の感想を終える。 

 最後のジェダイ追記。本作を視聴して新シリーズへの熱がだいぶ冷めた理由としては、前作で提示された伏線と思しきものをすべて無視した上で、今回の作劇が成された点にあります。ふつう三部作なんだから、最後までプロットが組んであって、若干の軌道修正はあるにせよ、想定された結末に向けて物語を編んでいくんだろうと思うじゃないですか、ふつう。でも今回のやり方は、例の週間少年漫画誌と同じで、良く言えば読者人気とアンケートを見ながらのライブ方式、悪く言えば先を決めない行き当たりばったりで、伏線から今後の展開を想像する楽しみが受け手から全く奪われてしまっています。推理小説の解決編で、作中に全く登場しなかった人物が犯人だったと考えてみてください。能動的な物語の受け止めを禁ずるような、極めてコントローリングなディズニーの姿勢を感じざるを得ません。こうなってしまえば、次回作で今回の内容をまったく踏まえなかったとしても(レイがルークの娘だったとか!)何の不思議もありません。

 だからもう私は、ディズニーがお仕着せる受け身の観客にただ徹して、スターウォーズについては前もって何も考えないようにしたいと思います。いま気がつきましたけど、ハンターハンターの面白さって伏線をきっちり張った上で、読者のあらゆる予想の埒外からそれを回収するところにありますね。キャスリーン・ケネディ・パイセンにも、この誠実な創作姿勢をぜひ見習って欲しいですね!

 あとオマエ、ライリー先生って誰ですか、だと? バカヤロウ!  nWoオールタイムベストに必ず入るところの(忘れてた)良質ジュヴナイル、「遠い空の向こうに」へ登場する、ホジキン病に倒れたMissライリーのことに決まっておろうが! ジュラシックなんとかゆうパチモンに言及する、したり顔のニワカ映画ファンどもめ! オクトーバー・スカイは1999年の作品だが、おい、ローラ・ダーンてめえ、この頃から演技の進歩がまったくねえじゃねーか! このパープル・ブラッディ・ビッチが、てめえの役割をアクバー提督さんにゆずりやがれ!

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