映画「オッペンハイマー」感想

 大量虐殺を受けた側の部族の末裔として、もはや義務感から「見なきゃな……」と思いつつも、3時間にもおよぶ長丁場に二の足を踏みまくっていたのが、いよいよ近隣のハコではIMAXから上映を追いだされ、終映間近(マジか!)の気配がただよってきたため、イヤイヤ劇場へ向かうこととなった。この億劫さがどこから来ているのかと問われれば、小学生時分の夏休みに近所の生協の薄暗い2階会議室に集められ、なぜかあずきバーをわたされてから視聴した劇場アニメ「はだしのゲン」に由来するものであろう。腕の皮がベロベロになって垂れ下がる様子とか、とびでた眼球が視神経を引っぱりだす様子とか、インターネットの無い時代に行われる手加減なしのハードコア平和学習に、しばらくはソーメンが食えなくなったし、あずきの味はいまだに好きではない。公開初日にIMAXを利用する意識の高い客はもう軒並み履修を終えており、日曜の昼さがりにノーマルシアターへ足をはこぶような「民放で話題だったから」「原爆で戦争反対だから」ぐらいの感度しかないボンクラどもに囲まれながらの視聴は、最悪の4Dーー「ドアホ」「ダボ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーー体験だったと言えよう。この映画は、オッペンハイマーを公職追放へといたらせる聴聞会をストーリーの柱として、何度も過去と現在をザッピングで行き来する三幕構成になっており、ノーラン監督による編集の妙技で混乱なくスッキリと見れるのだが、「戦争は反対です。なぜって、戦争は反対だからです」a.k.a.ショウワ・エラ・レフトウイングスにはどうも難解すぎたらしく、隣のジイさんは眠気を覚ますためか何度も左右へ大きな身じろぎをくりかえし、斜め前方のバアさんはアナーキーなヘッドバンキングから盛大にイビキをかきだす始末で、客の民度だけはまさに弩級(ドキュン、のルビ)の4Dーー「ドアホ」「ダボ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーークラスになっていて、「話題作は”必ず”公開初週にIMAXで見ること」という個人的ないましめをあらたにした次第である。

 気をとりなおして、周囲の状況を遮断しながら映画の内容へふれていきますと、第1幕では若き日のオッペンハイマーの遍歴からロスアラモス建設までが描かれており、マンジット・クマールの「量子革命」が面白すぎて、たて続けに2周読んだだけの知識を持つ物理学の徒(笑)は、アインシュタインを筆頭に、ボーアとかフェルミとかハイゼンベルク(ブレイキングバッド!)とか、カメオ的な「ご冗談」のように何度もカメラに抜かれるヤング・ファインマンさんとか、綺羅星のごとき物理学界のスーパースターたちが次々と登場するのに、ペンラやウチワをかかげてのプッシー(推し、の意)活動にいそしむオタクもかくやという恍惚状態でおりました。第2幕はロスアラモスにおける研究の日々と、原爆投下地の選定からトリニティ実験の顛末までがスリリングに描かれ、「京都は新婚旅行で行ったことがあるけど、いい場所だったから候補から外そう」みたいな軽い感じで白人トップが土人の生殺与奪を決める内幕とか、新劇序のラミエル戦を彷彿とさせる暗闇に浮かびあがった幻想的な鉄塔や誘導灯とか、実験の成功に狂喜してボンゴを叩きまくるファインマンさんとか、星条旗をバックに歓呼を受けて微笑むオッペンハイマーとか、もし貴方が被ジェノサイド側に属する極東スー族の子孫でなければ、エヴァンゲリオン的に楽しく見れること受けあいでしょう。印象に残ったのは、「原爆の核融合が大気の分子と連鎖反応を起こして、星ごと破壊する(セフィロスみてえ)可能性」という最悪のシナリオを打ち消せないまま、ただただ実験の成否を見たいがために計画を強行する、科学者の持つ宿業です。もはや引きかえせない段階になってから、オッペンハイマーが軍の責任者に「ニア・ゼロ」と言うときの卑屈さと傲慢さの入り混じった表情だけは、くやしいですが主演男優賞の名に値するものでした。

 しかしながら、そこから始まる「いったい、だれがオッペンハイマーを陥れたのか?」を描く第3幕は、端的に言ってエデンの東に住むスー族の末裔にとって盛大な蛇足になっていて、まあクソ長いったらありゃしない! 原爆2発を積載したトラックが研究所から遠ざかっていく場面を目にした段階で、もう間接的な当事者の亡霊たちは、あますところなく「私たちは、いかにして殺害されたのか?」を追体験できたため、心情的には成仏レベルの満足を得てしまっているわけです。「原爆の父」がアメ公(アメリカの公共、の意)にどう評価されようと、それはすべて我々にとって後づけの言い訳であり、ほんのわずかさえも聞きたくありません。やがて来る本邦の地上波では、トラックのシーンから湖畔で交わされる2大物理学者の対話までスッとばしてつなげて2時間にした再編集版を放送すべきだと、強く進言しておきましょう。作中の現在にもどって語られる第3幕の存在は、テーマを複線化させるだけでとっちらかった印象をしか与えておらず、このパートさえなければ、卑しいアイアンマン芸人ーー職業差別はいけませんね!ーーは助演男優賞を得られないままで、ボクらのジャッキー・チェン(の、ソックリさん)もきらびやかな舞台の上で、世界が衆人環視するさなかに濃厚なアジア人差別を浴びるというトラウマ体験をしなくてすんだでしょうに! それもこれも、ムンバイとかトーキョーの田吾作賞に甘んじさせておけばよいものを、ポリコレなる一過性の風潮が閃光弾となって審査員の目をくらまし、スピルバーグのレイトワークをガン無視した上で、ディルドーを両手に構えた小太りアジア娘がラスボスのマトリックス・パロディなんかに権威あるアカデミー賞の、しかも7冠をウッカリ与えてしまったことは、ハリウッド史上最大級の屈辱として白人社会へ深く静かに潜航していたのでしょう。今回のオッペンハイマー7冠受賞は、舞台上におけるあの凄惨なできごとを含めて、「言語化することもはばかられる、アジアの黄色いサルどもから受けた恥辱」をウランの爆風で吹きとばすがごとき、まさにアトミック・ボム級に胸のすくリベンジだったというわけです!

 爆風で思いだしましたけど、近年におけるノーラン監督の「CGをいっさい使わず、すべて実在のヒトとモノを撮影する」という信念が、人類最初の核爆発を目撃するシーンではアダになっている気がしました。まさか本物の原爆を使うわけにはいかないでしょうが、多感な幼少期の十数年にわたって毎年毎年アニメやら実写やらでキノコ雲を見せ続けられてきた、言わば世界有数の「アトミック目利き」にとって、本作のそれは大量のTNT火薬(おそらく16キロトン)を使っただけのフェイクにしか感じられないのです。長々とスクリーンに映しだされる大爆発の様子をながめがら、この胸に去来したのは「ダメだよ、オッピー。こんなキノコ雲じゃ、22万人も殺せない」という冷笑にも似た気分でした。4Dーー「ドアホ」「ダボ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーー劇場を去るさい、もっとも大きかった感情は、ひとりの科学者の好奇心に先祖を殺された無念ではなく、白人の無意識にひそむ人種差別への怒りーー独露に住まう白人の同胞とちがう、黄色人種が相手だったから投下を決断できたーーではさらになく、理論物理学が文字通り世界の趨勢に影響を与えていた、もっとも輝かしい時間はとうの昔に去り、1970年代以降はスーパーストリングスやマルチバースなどの、数学にだけ依拠する一大フィクションと化していった現実に対する、熱狂のステージが終幕したあとに無人のライブハウスを訪れた者が感じるだろう、一抹の寂しさでした。あと、視聴前はオッペンハイマーの名前をオッパッピーとかオッペン化粧品とか、クソミソに茶化してやろうと身がまえていたのですが、じっさいに呼ばれていた愛称である「オッピー」がオタクの想像力をはるかに越えた面白さだったため、泣く泣く断念したことを最後に告白しておきます。


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