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『凛として灯る』について

今月のスズキナオさんの書評連載「読んでは忘れて」はことさら出版の都合で休載となる。更新日の9月20日には、スズキさんが同時連載している「世界を割る」のことさら出版移籍前のバックナンバーの追加掲載をしているのだが、つたない文章ながら「読んでは忘れて」番外編として、荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)の書評というか、感想を書いてみたい。

この本は、以下の文章から始まる。

その人は『モナ・リザ』にスプレーを噴射した。

理由を知るには人生を語る覚悟がいる。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.1より引用。強調はことさら出版(以下「筆者」)

まとまらない言葉

「その人」とは。その人生とは。という話の前に、「読んでは忘れて」にも取り上げられた氏の『まとまらない言葉を生きる』という本について触れたい。

同書で強く印象に残ったのは、下の評でスズキさんも紹介している、「要約すること」「一端を示すこと」という考え方だ。

深い教養と的確な編集を経た要約には、意味も意義も大いにある。しかし、そうではない要約もある。

荒井さんは、SNS上で飛び交うバズる文言の多くは「安易な要訳主義」による産物ではないか―と考える。スズキさんの書評にも含まれる部分があるが、同書の「あとがき」から引用する。

 最近、この社会は「安易な要訳主義」の道を突っ走っている気がしてならない。とにかく速く、短く、わかりやすく、白黒はっきりとして、敵と味方が区別しやすくって、感情の整理が付きやすい。そんな言葉ばかりが重宝され、世間に溢れている。
 この一因には、SNSが存在するのは間違いないだろう。確かにSNSの情報は速くて助かる。ぼく自身、普段からその便利さを享受している。
 でも、SNSのフレームに切り出された言葉は、物事の緻密で正確な「要約」になっているかというと、やっぱりそうでもないことが多い。かといって祈るような思いが込められているかというと、やっぱりそうでもないことが多い。ぼくらが毎日見ているあれらの言葉が、正確な「要約」でも世界の一端でもないとしたら、果たして正体は何なんだろう……。

荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)P.251より引用

一方の「一端を示すこと」は、とても深く大きい問題の一端を示すこと。

もしかしたら、一生考えても答えが出ないかもしれない問題の、入り口に立つ資格を得る。それを喜びと捉えられるか。あるいは、知った結果苦しみを抱え込むことになっても、その重しを携えて生きる人生を、知らないままに生きる人生よりも肯定できるか。

以前、とても要約しきれない問題の一端に触れることを、時間の無駄だと思わず、その経験に感謝させるものは「知性」である―といった内容の文章を書いた。

私には「安易な要訳主義」や「まとまらない言葉」といった質の高い表現はできなかったが、荒井さんが『まとまらない言葉を生きる』で書かれていることは、まさに私が「読んでは忘れて」という連載に託したい思いだと感じ、強く胸打たれる読書体験だった。

また、少し寄り道になってしまうが、私が微力ながら『凛として灯る』をご紹介したいと思ったのは、上のnoteを書いた3年半前どころか、それよりもずっと前から抱えていた、安易な要訳主義への不快感を皮肉にもSNS上で刺激されたこともある。

美術家の山川冬樹さんが、『凛として灯る』に言及するツイートを偶然拝見した際に、「現在の基準で見ればテロリスト」として嫌悪感を表明するリプライが同時に目に入った。

その方は、おそらく『凛として灯る』も未読で、そこで描かれる背景も詳しく知らず、(簡単な説明も添えていた)山川さんのツイートを見ただけでリプライを送ったように見えた。

テロリストは生まれたときからテロリストではない。社会が、環境が、乗り越えられない格差が人をテロルに駆り立てる。私は自分が犯罪者や殺人者になる可能性を想像したことがないだろう人の物言い全般がそもそも苦手なのだが、それに加えて、現在の基準ときた。「だから当時の基準―それも多くの人がその一端にも触れていない問題を背景にする―を説明する本だろうが!」と腹が立った。

それは、あまりに知性を欠く振る舞いではないか。そもそも、過去に起きたテロルと考えられる事件に対する「いまの基準で」という物言いそのものが、安易な要訳主義の影響を受けているように見える。

そこで実際に行われているのは、令和も昭和も関係ない、自らの好き嫌いによるジャッジだろう。

テロリストはどの時代から見ても、基本的にはテロリストであるはず。変わるのは、テロリストであるか否かではなく、時代を含む評価者の属性による、そのテロリストへの好悪の感情等の評価ではないか。米議会襲撃に参加したトランプ支持者や安重根や山上徹也を「テロ行為を働いていない」と評するのは事実の捻じ曲げだ。一方、彼ら彼女らに同情を寄せる人や英雄視する人がいるのは紛れもない事実である。

件のツイート主は、単純に自分が嫌いだと感じる人物に対する、ある種の蔑称として「テロリスト」というラベルを用いただけのように見えた。

障害者にしてウーマン・リブ活動家

話を戻そう。荒井裕樹さんは二松学舎大学の准教授で、日本近現代文学の研究者だが、漱石や芥川や鴎外といった文豪の人生やその作品の専門家ではない。その研究分野は「障害者文化論」だ。

そんな氏が、「ずっと書きたいと思って」いた人。また、いまを生きる別のある人物から見れば、テロリストとして嫌悪感を表明される人。それが、『凛として灯る』によって、その人生を語られる米津知子さんである。

米津さんは幼少期にポリオに感染し、右足に麻痺が残ってしまう。筋力や運動神経に個人差はあれど、両足がある程度自由に使える人なら、片足に障害があることで起こる様々な物事をある程度は想像できるだろう。

周囲の人たちは、麻痺した右足をもつ彼女を――麻痺した右足を使ってぎこちなく歩く彼女を――、まるで忌まわしいものであるかのように見た。でなければ、何か穏やかでない感情を含みつつ、よそよそしく目をそらした。相手が遠慮のない子どもであれば、露骨に嘲笑されることもあった。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.28より引用

もちろん、当事者の受ける苦しみは安易に共感を示せるようなものではないし、私より30年以上前に生まれた米津さんの幼少期は、私が子どもの頃の何倍も何十倍も、障害者に向けられる優しさや理解が少なかった時代だろう。

ただ、引用部のような経験は、辛うじて想像が及ぶ気はしている(たとえそうだとしても、触れているのは本当に一端の一端でしかないことは肝に銘じなければいけないが)。というか、少なくとも私には、それ以上に衝撃を受けた箇所があったのだ。

それが、引用部のような、健常者の悪意にさらされ続けた心が萎縮してしまう様子だ。

多摩美術大学に進学した米津さんは、期せずして学生運動の当事者となる。多摩美のそれは、東大などのように先鋭化したものではなく、学内に数名から十数名程度のグループがいくつもでき、その輪の中で様々な物事が話し合われていた。

そこで、米津さんは、ほとんど生まれて初めてと言ってよいほど、自分の足について語ることができた、と書かれている。

自分をずっと悩ませてきただろう障害について、大学生になるまで語ることができなかった。その苦しみはとても想像が及ぶものではない。本書によって、初めてその一端に触れられたように感じた地獄だった。

米津さんが「言わなかった」のではなく、「言えなかった」のは明らかだ。車いす利用者はおよそ200万人いるそうだが、大都市の雑踏など、6~70人以上の人を一斉に目にできる機会に、車いすの方が見当たらなかったとしても、私たちはそれを意外には思わないだろう。それは障害者が、健常者の主導する社会やその目線によって、萎縮させられ、物理的にも精神的にも隠れてしまう結果起こる現象であるはずだ。(仮に車椅子利用者の多くは施設などに入っているとして、数百人に一人と考えても、結果は変わらないように思う)

私自身もその萎縮に加担している。乙武洋匡さんであるとか、『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野靖明さんのような「物言う障害者」については、世の平均よりはやや多く考えたことがあるつもりだ。しかし、そうではない障害者が、なぜ物を言わないのかーという背景についてはほとんど考えたことがない。「物言う健常者」とか「女まさり」とか言わないくせに、何が「物言う障害者」だ…と思うことはあっても、「物言わない障害者」の心情には思いが至っていなかった。

そんな障害者の声が私の耳に届いていなかった理由が、「なんら不満を覚えていないから」であるわけがない。そのような方がゼロだとは思わないが、大多数は学生運動に出会うまでの米津さんのように、口や心に蓋をしている(されている)方なのではないか…?

『凛として灯る』は、そのような問いを次々に浮かび上がらせ、突きつけてくる。

私はアメリカ最高裁の中絶違憲の判決に絶望し、呆れている人間だが、日本も刑法上では「堕胎罪」が存在し、旧「優生保護法」(現「母体保護法」)の要件を満たせば、人工妊娠中絶も犯罪ではないーとされているだけ。アメリカに比べれば何百倍もマシだけれど、とても望まぬ妊娠に苦しむ女性に誇れるものではない。そのこと自体は何かで見た記憶があったが、妊娠の当事者になることのない私は、本書を読むまで完全に忘れてしまっていた。

荒井さんは、その他にも障害者や女性の直面する様々な問題を示してくれるが、米津さんの人生やその闘いは、とても本一冊で書き尽くせるものではない。強固な意志と高い技量の下に成された的確な要約の末に、たくさんの「まとまらない言葉」を折り重ねるようにして、広く深い問題の一端を示すことに成功したのが本書だ。

さらに、すでに少し触れているが、その「一端」は、障害者の抱える問題だけではない。見出しですでに書いているように、米津さんは障害者だが、障害者運動の活動家ではない。

学生運動の現場では、会合などで主に男が語り、女が聞く。話が終われば男がくつろぎ、女が茶碗を洗う。米津さんはそんな光景を目の当たりにすることで「性差」の壁を感じていく。いま現在、ジェンダーギャップが解消されているとはとても言えないが、1970年頃のその隔たりの大きさは、2022年とは比較にならないものであろうことは想像に難くない。

その後、様々な出会いにも導かれ、米津さんは女性による女性解放運動「ウーマン・リブ」の活動に身を捧げていくことになる。

『モナ・リザ』スプレー事件

そんな米津さんが当事者となったのが、1974年4月20日に起きた「『モナ・リザ』スプレー事件」だ。冒頭の引用を再掲する。

その人は『モナ・リザ』にスプレーを噴射した。

理由を知るには人生を語る覚悟がいる。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.1より引用

東京国立博物館で開催された「モナ・リザ展」の初日に、米津さんはレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』に向けてスプレーを噴射する。ちなみに作品そのものに塗料はかからず、展示もその後予定通り催され、50日の会期で150万人が訪れている(単館の絵画展としては日本最多記録)。

米津さんがこのような行為に及んだ理由を知るには、荒井さんが書いたように『凛として灯る』を読むなりして、その人生に触れるしかない。

また、そもそも本書という一端に触れても、健常者の男性である自分に安易に「分かった」と言えるようなものではないと思うのだけれど、これから私なりの解釈(荒井さんが本に書かれていることと個人的な想像を特に分けずに併記していくので、とても正鵠を射たものとは言えないことは断っておく)で、その「理由」を構成すると思う諸要素を挙げていく。

まず、「モナ・リザ展」は、障害者に自由に開かれたものではなかった。

事件自体が起きた原因としては、これが全てと言っていい。障害者も健常者も自由に出入りができる展示だったなら、この事件は起こっていない。

ただし、その制限そのものは、自らを犯罪行為に走らせるほど、米津さんにとって大きいものではなかった。

それよりも重要なのは、また、本書がより広く複雑な一端を示すのは、“「モナ・リザ展」をそうさせたもの”だ。スプレーの先端は、『モナ・リザ』や展覧会のルールではなく、その奥に隠されているものに向けられていた。

荒井さんは、その奥にあるもの、米津さんを駆り立てたものを、丹念に描いていく。

繰り返すが、米津知子はウーマン・リブ活動家だ。共闘することはあれど障害者運動の活動家ではない。源泉には女性として生まれたこと、ポリオに罹患して障害を持ったことが分かちがたくあるが、その湧出点はウーマン・リブだった。

多摩美全共闘の中で男に失望した米津さんや仲間たちは、「思想集団エス・イー・エックス」を結成する。その後「ぐるーぷ・闘うおんな」の田中美津さんらとの出会いや様々な活動を経て、1972年9月30日に「リブ新宿センター(リブセン)」を開所する。米津さんはリブセンに専従するメンバーとなった。

優生保護法改悪反対運動

当時、ウーマン・リブの女たちの主たる活動となっていたのが、優生保護法の改正に対する反対運動だった。米津さんたちは、リブセン開所後も全国から寄せられる女性たちの相談に応えながら、反対運動に取り組んでいく。

1948年に制定された優生保護法は、急激な人口増加の抑制と妊娠による困窮を防ぐためにつくられた。人工妊娠中絶が違法であるために、望まぬ妊娠を強いられた女性や、出産により困窮すると考えられる女性が危険な「闇中絶」に手を出してしまうことなども鑑みられていた。

そして翌年、この優生保護法に「経済条項」が追加され、妊娠の継続により困窮する女性にも妊娠が認められる。

私はその内容や経緯を詳しく知らないので、「子どもが生まれると生活が立ち行かなくなる人」と「妊娠の継続で生活が立ち行かなくなる人」という基準の違いで、どれだけの妊婦が「私も中絶手術を受けてよい」と思うに至ったのか、という変化の正確な把握はできない。ただ、本書によると、1950年代から中絶件数は急増し、年間100万件、対出生比(出生を100とした場合の中絶数)で70%を超える年もあったのだという。なんとなく「第一次ベビーブームを優生保護法が抑制した」という印象は持っていた。しかし、その背景でこれだけの中絶手術が行われていたこともまた、私の知らない世界の一端だった。

1960年代になると、この経済条項について疑義が呈されるようになっていく。保守派の政治家などは中絶があまりに増えると倫理観や道徳観の崩壊を招きかねないと警戒し、財界からも将来の労働人口減少を懸念する声が上がる。60年代末期には、経済条項を削除し、中絶の規制を強化するーという報道が出始めた。米津さんの「エス・イー・エックス」ではないが、1970年9月にこの問題に対して反応するビラを作成するなど、早くからアクションを起こすウーマン・リブのグループもあったそうだ。

そして1972年5月には、経済条項の削除を含む、優生保護法の一部改正案が国会で提出され、リブセンのメンバーもすぐにアクションを起こす。

この反対運動が、スプレー事件に繋がっていく。

胎児条項の新設

ウーマン・リブと障害者運動を近づけたのが、優生保護法の一部改正案に新たに含まれていた「胎児条項」だ。

当時、高度経済成長の負の影響たる公害や薬害による先天性障害児の存在がセンセーショナルに報じられていたという。そんな中で、羊水を採取・検査して先天性障害について調べる技術が実用化する。

胎児条項は、胎児に〈重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる〉場合にも中絶を認める、というものだ。「優生」保護法という名称からも分かるように、この法律は、生まれる子どもの数だけでなく、質の確保も視野に入れていたのかもしれない。戦後すぐに先天性障害を事前に発見できる技術が確立されていたら、最初からこのような条項が含まれた法律になっていたように思える。

ウーマン・リブの活動家たちは、反対運動の最初期から、胎児条項の追加が障害者差別に繋がることは意識していたようだが、その活動の焦点は経済条項の削除に当てられていた。先述の1970年9月のビラには「中絶禁止法」というワードがあり、この呼び方はその後の反対運動でも用いられていく。

米津さんも、その反対運動に全力でコミットし、賛同していたに違いない。ただ、胎児条項に対して思うところは、仲間たちの誰よりも強くあっただろうし、自身や仲間の活動方針に疑問を感じることもあったのかもしれない。

リブセン開所前の1972年5月2日、リブセンの開所に必要な資金や支援を集めるための「第1回リブ大会」を前に、米津さんは「生まれてこなきゃよかったのか・私は産めるか!」と題した胎児条項に真正面から向き合う内容のビラを書いている。

そこには〈二十三年前に生まれてきて、三才でビッコになってしまった私にとってこの条文は「お前は生きていてはいけないのだ」と言われるに等しい〉とある。後天的に障害者となった米津さんだが、下肢麻痺を負う以前の記憶はない。胎児条項は自分をこの世界から締め出さんとするものだった。

米津さんは、一見すると、目標に向けて強く熱く走り続けているように見える。しかし、その心中には、常に怒りだけでなく、戸惑いも抱えられていたのではないか。安っぽい表現で申し訳ないが、本当に優しい方なんだろうなと思う。

 知子はビラの中で、自身の人生を振り返りつつ、優生保護法の一部改正案とどう向き合うべきかを模索している。
 知子は書く。自分の中には、立派な二本の足をもつ者に負けてたまるかという対抗心と、自分自身が障害者であることに対する申し訳なさが葛藤している。
 〈健全者〉には負けたくない。だが、〈健全者〉と同じように扱ってもらうことには罪悪感を覚えてしまう。自分は障害者なのだから人一倍がんばらなければならない。障害者で申し訳ない。こうした感覚が自分の中には根付いている。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.132より引用。強調は筆者

この感覚は、米津さんが障害を負ったことに罪悪感を覚えていた母親から受け継いだものだという。

大学時代を描く三章には、右足の話を大学までできなかった理由の一つとして、ある日、母親に足の話をして困らせ、黙らせてしまった経験があると書かれている。「健常者の悪意が障害者を萎縮させる」旨を先述したけれど、善意であっても、その障害者を愛する人であっても、そのような心の動きが生じてしまう可能性があることがよく分かる。話は変わるが、善意による萎縮の場合、萎縮させた側の心も萎縮してしまうことが多く、おそらく米津さんのお母様もそうなのだと思う。それに抗する手段の一つが『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野さんのような振る舞いなのだろう。

また、性差に強い問題意識を覚えてからも、そのシステムから完全には抜け出せなかった時期もあった。多摩美デザイン科のクラスメイトで、ウーマン・リブ活動を共にすることになる森節子さんは、のちに、米津さんが考えるより先に身体が動き、「女として〈身についた習慣〉」で女の役回りを演じてしまった、大学時代のあるエピソードを回想している。

私は、このような、1つのタグではとても分けられない属性を持つ米津さんの揺らぎと、それが時に引き起こしてしまう失敗に―男性優位社会と対峙して強く闘う姿と同等、あるいはそれ以上に―、人間の美しさと知性を見出して感動する。(そう感じるのは、自分が異性愛者の男性で、米津さんが女性であるからかもしれない…とも思うものの、私自身が、人間の本質はそのような揺らぎの中にあると考える者であることは断っておく)

米津さんはまとまらない言葉を無理にまとめようとしない。まとまらないまま走り続ける。引き裂かれるごとに複雑になる問題から逃げずに、その複雑さに惑いながらも、そのまま抱きしめようとする。荒井さんはその姿勢を活写する。

 障害児でも産めるのかという問いには、二つの問題が含まれている。一つは、自分は障害児を受け入れられるのかという道義的あるいは感情的な問い。もう一つは、この社会は今、生まれた障害児と障害児を産んだ女の双方が安心して生きていける状態にあるのかという社会的な問い。
 知子には、ここにもう一つの問いが加わった。障害者である自分は、自分自身の人生を本当に行き切っているのかという内省的な問いだった。
 障害のある自分が、自分の人生を全身全霊で行き切っていない中で、障害児にも安心して生まれてこいと言えるだろうか。知子の問いは深く複雑だった。だからこそ、知子は女と障害者の連帯を叫び、共通の敵へと立ち向かう道を模索する。このビラは次のように結ばれる。

〈生む時を自分で決めたい女、身心障害者、不合理なりに生きたい私達に対する攻撃、中絶禁止体制をゆるさない。〉

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.135より引用。強調は筆者

女性問題だけに目を向けていられない。でも、障害者運動の活動家ではない。障害者としても、車椅子に乗るほど重篤ではなく、精神障害もない。また、同じ立場で声を上げているつもりでも、先天的障害者からは見え方が違うかもしれない。

米津さんのあまりにオリジナルな人生は、簡単なラベリングをさせてくれない。本書には記されていないが、当時の日本で大学に進学できる環境に生まれたことの希少性も深く理解されていたように思う。非常に失礼な推測だが、「『米津家に生まれた障害者の自分』と、『貧困家庭に生まれた健常者の自分』と、果たしてどちらが幸せか?」という問いを自らに突きつけたり、「米津家が貧しかったら」といった想像をされた経験もあるのではないか…と感じた。

「青い芝の会」との衝突

米津さんのビラは、ウーマン・リブの仲間たちに新たな一端を示すものであったに違いない。しかし、だからといってリブと障害者運動の共闘は、簡単には実現しなかった。

「産むか産まないかを選ぶのは女の権利だ」と主張したリブの女たちに対し、障害者団体から「胎児が障害児だった場合、その子を中絶(=子殺し)する権利も女が握るのか」という批判が寄せられたのだった。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.136より引用。強調は筆者

このように言われて、「そうだ」「女が握る」と強弁できる人がいるだろうか。仮にいたとしても、障害者の人権を軽視した発言だと感じる。

ただ、直接答えるのは非常に難しい問題ながら、少なくともリブ側は、「障害者運動に歩み寄ろうとするアクションを起こす」という形で、別のまとまらない答えを出そうともがいている。

その動きは、「女の権利」という言葉の用い方から読み取れる。米津さんのビラから一月後の6月2日、「中絶禁止法反対 百家争鳴大集会」が開催された。

取材に入った朝日新聞は、話し合いの内容を〈①こんご現行の優生保護法そのものを問いつめていく②中絶などしなくてすむ避妊の方法を要求していく③最後の方法としての中絶は女の権利であるとし、具体的な行動を起す〉と要約し報道する。

③の裏付けとなるのは、吉原遊理と名乗る方が書いたビラで、そこには(避妊の手段を尽くした上で)〈産むか産まぬかの選択は女の権利である〉とある。新聞報道では重要なニュアンスが切り落とされてしまっているが、「産むか産まぬかは女の権利」と、(回避する手段を最大限にとった上で妊娠してしまったなら)「産むか産まぬか“の選択”は女の権利」とでは大きく異なる。

両者を比べれば、彼女たちが、障害者団体からの厳しい問いかけから逃げるでもなく、安易な結論に走るでもなく、深く悩み、考え続けようとする姿勢が感じられる。

また、リブセンの中心人物と目されていた田中美津さんは、女とした生まれただけで子殺しをさせられる怒りを正しく受け止めるには、「女の権利」という表現自体に問題があるのでは―と考えるようになっていく。

ちなみに、ウーマン・リブ陣営にも、障害者運動の当事者たちが男性ばかりであることなど、少なからず思うところはあったようだ。ただ、それ以上に、優生保護法への強い問題意識が、両者を完全に分断させることはしなかった。

 現代社会は生産性や合理性を追い求める。そうでない者は価値なき者として切り捨てられる。現に重度の心身障害者たちは隔離施設へと排除されている。その排除が出生の段階にまで及んできた。
 社会から合理的でない存在として切り捨てられるのは、なにも障害者だけではない。女もそうだ。男中心に作られた社会で、女たちも、ずっと不合理な者、価値の劣る者として扱われてきた。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.134より引用

このような意識は、明確な言葉にはされずとも、両者に共通していたように思う。敵の敵は味方。石田三成が好きではない島津義弘だが関ヶ原の戦いの西軍側ではある、という程度の話かもしれないが、足並みは揃わずとも「同じ反対運動の陣営」とは言えるはずだ。

そうして障害者団体との接点が生まれていく中、存在感を増していったのが、「青い芝の会」神奈川県連合会である。同会は全国に地方組織を持つ脳性麻痺者による当事者団体だが、以降は「青い芝の会」神奈川県連合会を「青い芝の会」とのみ記す。

『モナ・リザ』スプレー事件よりも後の話だが、「川崎バス闘争」をご存知の方は少なからずおられるだろう。このバスジャックを敢行したのが「青い芝の会」だ。

川崎バス闘争よりも以前から、安保闘争にも関わっていた「青い芝の会」。優生保護法の反対運動に参加する障害者団体は他にもあったようだが、「青い芝の会」が強い存在感を放っていただろうことは想像に難くない。

その影響はウーマン・リブにも及ぶ。田中美津さんが1972年10月15日に全国各地で開催された集会に合わせて作成したビラ(先述した「女の権利」に対する違和感の表明も含むもの)にも、同会のビラの文言が引用されている。

この「青い芝の会」を代表し、1970年代の障害者運動を強く牽引していたのが、同会の行動綱領を起草した横田弘さんだ。詩人でもある横田さんは、川崎バス闘争もかくや、というラジカルな綱領を物している。

われらかく行動する
一、われらは自らがCP者である事を自覚する。
一、われらは強烈な自己主張を行う。
一、われらは愛と正義を否定する。
一、われらは問題解決の路を選ばない。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.154より引用

「CP」はcerebral palsy=脳性麻痺の略称だ。この文章は、横田弘・立岩真也・臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(生活書院)によると、〈過去の殺され続けてきた脳性マヒ者の悪霊〉が横田さんに憑依して書かせたものだという。

ウーマン・リブのグループに対しても、このような姿勢は変わらない。同じ西軍で、東軍には敵対しても、それは馴れ合うことを意味するわけではない。

1973年3月29日に開催された「優生保護法改悪阻止第一回東京集会」にやって来た「青い芝の会」の面々は、参加する女性たちに〈障害者を堕ろすのは女のエゴ。我々は健全者と安易に連帯しない〉と投げかけたという。男性の身でも「自分がそう言われたら」と想像するだにぞっとしないものがある。

その後もリブ陣営と「青い芝の会」はたびたび衝突する。脳性麻痺者は膝の上にノートを置けず、机がなければメモが取れないのに、会場に机が用意されていなかった―といった、女たちの想像力の欠如、無意識の差別が指弾される出来事もあった。

ただ、個人的にはこのような衝突が起こること自体に、「青い芝の会」の思いが透けて見えるような気もする。上記のトラブルは5月20日の「優生保護法改悪阻止第2回東京集会」でのこと。「われらは問題解決の路を選ばない」を是とし、第一回集会で女たちに冷水を浴びせかけた同会が、再び神奈川県からバスをチャーターして参加している。

その事実を思うと、荒井さんは〈優生保護法の前では、女も障害者も等しく被害者のはずだった。彼女たちは最後まで共闘の路線を模索した〉と書いているが、「青い芝の会」にとっても、何度衝突しても自分たちと向き合うことを止めない彼女らが、少しずつ特別な存在になっていったように感じないこともない。〈障害者を堕ろすのは女のエゴ。我々は健全者と安易に連帯しない〉の中にある「安易に」の見え方も違ってくる気がするのは私だけだろうか。

ともあれ、リブ陣営の女たちが、次第に優生保護法反対運動を単なる「女の闘い」とは考えなくなっていったことは間違いない。

 「青い芝の会」からの批判を受け、リブ新宿センターの女たちは悩んでいた。自分たちが掲げるべきスローガンは、本当に「産む産まないは女が決める」や「中絶は女の権利」でよいのか。こうしたスローガンは女と障害者の分断を招いてしまうのではないか。
 だが、この国が今もなお堕胎罪によって中絶を罪としているからこそ、あえて中絶を「女の権利」として訴えなければならないのではないか。妊娠・出産・避妊・中絶が主に男の都合で決められてきたからこそ、明確な「権利」として女たちの手に取り戻さなければならないのではないか。
 障害児であるか否かにかかわらず、安心して子どもを産めない社会状況がある以上、まずはそうした社会を問い返さねばならない。
 
自分たちがやってきた運動の歩みと、「青い芝の会」から寄せられた批判と、両者を突き合わせて、リブは一つのスローガンにたどり着いた。
 「産める社会を! 産みたい社会を!」
 
この時の彼女たちによって、このスローガンは、迷いながら、傷つきながら、ようやくたどり着いたぎりぎりの着地点だった。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.167-168より引用。強調は筆者

女と障害者の狭間

田中美津さんの思索を引いていることなどもあり、前項の後半にはまるで米津知子さんが存在しないかのようだが、翌1974年にスプレー事件を起こす米津さんは、当然ながら変わらずウーマン・リブの当事者である。

対立する女と障害者。米津さんの引き裂かれるような苦しみはいかばかりであったろう。男性性を振りかざすような「青い芝の会」の物言い。しかし内容には共鳴できる部分もある。

米津さんは両陣営を結び付けるべく尽力する。「青い芝の会」が主催した、1973年4月22日開催の「優生保護法改悪反対集会」では、女と障害者の共闘を呼びかけている。荒井さんはその後も度重なる衝突があったことから、米津さんの働きかけに対する正確な評価は難しいと評しながらも、(しつこい喩えで恐縮だが)ぎりぎりのところで両者が同じ西軍でいられたのは、彼女の努力あってのものかもしれない、との考えも示す。もしかしたら、米津さんのスピーチがなければ、翌月の「優生保護法改悪阻止第2回東京集会」に「青い芝の会」は参加していなかったのかもしれない。

とにかく、その働きの評価はさて置いても、米津知子という人が1973年頃から74年にかけて、およそ尋常ではない状況にあったことは間違いない。

個人的には、ただただ複雑怪奇な機能を持つ人間であったがためにその形を維持できていただけで、風船なら破裂、電気製品なら故障していた状態であったように感じてしまう。

1973年の第71回国会では優生保護法の一部改正案が審議凍結となり、同年に第72回国会がすぐ始まった(第71回国会が戦後最長の280日間続いたため)。しばらくは同国会で優生保護法が俎上に載せられることはなかったが、1974年5月16日に審議が再開される。

その少し前の同年3月頃、米津さんらには審議再開が近いという情報が伝わっていた。そんな状況下で、リブセンは3月24日に「優生保護法の改悪を阻止する1000人集会」を開催する。リブ陣営だけでなく、「青い芝の会」などの障害者団体も参加したこの集会後、参加者はデモ行進を行った。

その届出を担当したのが、米津さんとリブセンの仲間の一人だった。そして、米津さんが申請したデモ行進のコースには、甲州街道の横断に歩道橋を使うしかない、横断歩道のない場所があった。

担当した係官は、歩道橋を使うことを提案したと本書にある。私は経験がないので分からないのだが、そのような申請をする際に、担当者が「ここは歩道橋しかないけど、ルートをこうすれば横断歩道で渡れます」といった助言をしてくれることもあるのだろうか?

もしも、そんな協力的な係官が存在し、当日の担当者であったなら、スプレー事件は起こらなかった。また、米津さん自身と係官以外の要素で、何かが違っていたらそれを避けられた世界線もあったのかもしれない。しかし、とにかく現実に起きたのは、「提出したコースが、そのまま通る」という出来事だった。

リブセンに戻り、事の次第を報告した二人に、田中美津さんは激昂する。本書には、その出来事を振り返った米津さん自身による「モナ・リザにスプレーをかけた私の真情」という文章が引用されており、ここでも一部引かせていただく。

 「車イスをどうするのよ! ベビーカーは! どうしてそんなこと妥協できたの!」報告する私たちに田中美津さんの罵声が浴びせかけられた。当然のことだ。「車イスは……歩道橋に一番近い横断歩道を……」言い訳にもならぬ私の繰り言が、自分のしでかした裏切りをいっそう明らかにして、私は惨めさの極みでうなだれた。
 (中略)
 どなられなければ自分のしたことに気づかぬほどに私は鈍化していた。
 思えばこれまで私のまわりにいた大方の健全者たちは、障害者を踏んづけても気づかずに、ただ優しいことばを掛ければいいと思っている連中ばかりだった。その鈍感さに囲まれて、怒れば怒るほど孤立していく恐怖に私は怒りにカサブタ張りつけて、自らを鈍化させてきたのだ。(後略)

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.185-186より一部引用

障害はあるものの自立歩行できる米津さんは、係官とのやり取りの最中に、「装具をつけた右足で歩道橋を渡るのは大変だな…」などと考えたのだろうか?

その答えは文中に示されていない。ただ、そんなことすら思う間もなく、申請を済ませてしまったのでは…と私は想像する。判官贔屓かもしれないが、氏を鈍化させたのは、心身の疲労が大きかったのだろうし、怒りにカサブタをしたのは、恐怖よりも、ご自身の優しさだったように思えてならない。

「私がやる」

集会後の米津さんの精神状態は、大変なものであっただろう。方向性なら少しは想像できる気もするが、その絶望の大きさはとても慮れない。

 自分は何かをしたい。何かをしなければならない。そうでなければ、いっそのこと消え去ってしまいたい。そうした悩みのどん底にいた知子に、『モナ・リザ展』のニュースが流れてきた。
 世間を賑わす世紀の大美術展が、車椅子の障害者や乳幼児など、付き添いを必要とする者の入場を拒否しているという知らせだった。

荒井裕樹『凛として灯る』(現代書館)P.188より引用

どん底に沈む米津さんの前に、まるで天啓のように「モナ・リザ展」が現れる。

リブセンと障害者団体は、いよいよ剣が峰を迎えんとする優生保護法改悪反対運動を共に闘う仲間だ。加えて、公共の場からのベビーカー締め出しは、元よりウーマン・リブの領域である。リブセンは70年代初期から「東京こむうぬ」というグループと共闘し、抗議活動によって大きな成果を上げていた。特に1970年代の当事者はほぼ女性のみであったに違いない。(男性がベビーカーを押していると悪意に遭遇しにくい、というまた別の問題もあると思うがここでは触れない)

そのため、「モナ・リザ展」への抗議活動自体は、何かしらの形で行われていたと予想できる。

ただし、1974年4月19日、リブ新宿センターの定例ミーティングで同展について話し合うメンバーの脳内に、警察に逮捕されるような抗議活動は浮かんでいなかったのではないだろうか。ただ一人、「私がやる」と言った米津知子を除いて。

こうして、ウーマン・リブ活動家は、障害者運動のためにスプレーという剣を手に取った。


本の内容について書くのは以上となる。優生保護法のその後が気になる方は、ぜひ(できれば『凛として灯る』を読んで)調べていただきたい。ここからは冒頭の話題に戻る。

このnoteだけではとても足りず、『凛として灯る』を読んでいただきたいというのが大前提だが、ここまで知ってもなお、スプレー事件に嫌悪感を覚えるなら是非もない。また、テロリストと言われれば、極めて政治的な動機による行動であり、そうではあると私も思う。

ただ、先に述べたように、「いまの基準で考えて」「誰かに嫌悪感を示す」という姿勢については、慎重に考えるべきだ。

件のツイート主は、プロフィールにウクライナ戦争反対の意志を示していた。

現代の戦争に憤りを覚えるのであれば、きっと彼の人は、三国志や日本の戦国時代、幕末の志士などに胸を高鳴らせたことが一度もないのだろう。また、そうでなければ、「戦争」が物語として消化できる「歴史」になる線引きはどんな基準でなされるのか―という点や、その興奮の罪深さについて思い悩み、答えを出せずにまとまらない言葉ばかりが頭に浮かんだことや、それに似た体験をしたことがあるはずだ。

もしも、そのどちらにも当てはまらないようであれば、あのリプライは「安易な要訳主義」の悪しき産物であると判断せざるを得ない。

もちろん、胡乱なツイートなど誰もがするものだし、それを責めたいわけではない。しかしながら、荒井さんが6年もの間考え続け、取材を重ね、サバティカルリーブ(大学教員に与えられる、講義等の業務を免除される長期有給休暇)を利用して書き上げた成果物に相対するには、あまりにも貫目が足りず、礼を失していると思う。

本当に、本当に一人でも、多くの人に読まれてほしい宝物のような本だ。下記ページで通販リンクを参照できます。


あと、これだけでは、(特に男性の健常者が)読むと苦しい思いばかりする本に見えるかもしれないので、そんなことはないと断っておきます。

楽しく読める箇所もあるし、そうではないところも受け取るのは「良質の苦しみ」と言えるもの。読者の心を曇らせる問題に立ち向かう米津さんたちの姿は、美しく、心を奪われます。「そのように感じられるのは、この問題を過去の他人事だと思ってしまっているからかもしれない」とも思いましたが、そうだとしても、それは一端でしかないと考えます。

何より、社会問題に関心がある方であれば、性別を問わず、強く勇気づけられる本です。

取材に答える米津さんの語り口に、荒井さんは〈凛として灯るような情念〉を感じ、執筆前から本の末尾は「凛として灯る」という表現で結ばれると予感したそうです。そして、実際にそうなっている。

荒井さんが感じ取った灯りは、少しも損なわれずに本書の中にある。米津さんが亡くなっても、荒井さんが亡くなっても、その灯は読む人の心を照らし、温め続けることを私は確信しています。この本に携わった全ての方に、心より感謝と御礼を申し上げます。

※「女と障害者の狭間」と「「私がやる」」は、『凛として灯る』の中で見出しとして使われている言葉です。他に当てはめられる良い言葉が思い浮かばず、そのまま本noteでも見出しとして使用させていただきました。

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