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ブルノ滞在日記① うつ病患者、コロナ禍のチェコへ行く

2022年3月2日から4月1日まで、チェコ共和国にあるブルノに研究滞在することになった。同国にあるチェコ文学センター České literární centrum が半年ごとに募集している滞在助成金 rezidenční pobyt に応募したところ、運良く採択されたのだ。

ただし、コロナ禍ゆえに、渡航が実現するか否かは直前まで定かではなかった。採択通知が届いた11月は、日本を含む第三国からの入国は原則禁止となっていた。念のため日本からチェコへの入国方法についてチェコ内務省にメールで問い合わせたところ、数日後に返信があった。チェコの役所にしては珍しく丁寧な対応だ。長大な条文の引用からなるお役所的なメールだったが、かいつまんでいうと、「受入機関を管轄している文化省からの招待状があれば、ワンチャンあるかも。でも、入国審査官の判断に委ねられるので、100%入国できるとは断言できない」ということだった。ダメ元で文学センターにこのメールを転送して事情を説明したところ、「センター長に、文化省に掛け合ってくれるよう頼んでみます。できるところまでやってみましょう!」という心強い返事をいただいた。ありがたい。「文化省から招待状がもらえるなら、わたしも腹を括ってそちらへ行きます」と返事した。

数週間後、無事文化省からの招待状が届いた。ただし、ここでわたしは重大なミスを犯していた。わたしは昨年5月末に入籍し、苗字が変わっていたのだが、旧姓のまま申請してしまったのだ。やばい。とはいえ、既に文化省からサインをもらって原本も郵送していただいている。ここにきて招待状を修正してくださいとはとても言えない…。やはり選択的夫婦別姓の導入は喫緊の課題だ。とにかく入国条件が緩和されることを切に願いつつ、現地で事情を説明できるよう、旧姓時代のパスポートも併せて持っていくことに決めた。

幸運なことに、渡航前には入国規制がかなり緩和された。2月14日の段階で、第三国からの入国者は、入国フォームに記入し、海外用のワクチン接種証明書を携帯すれば入国が許可されることになった。2月14日以前の入国条件では、これに加えてPCR検査の陰性証明書の提示も必要だった。海外渡航用証明書つきPCR検査の費用は少なく見積もって22000円。これが浮いたのは、所得水準の低いわたしにとってはかなりありがたかった。

海外渡航のリスクに加えて、もうひとつ、わたしは大きな問題を抱えていた。1月末にうつ病の診断を受けたのである。原因は過労だと思う。わたしは今年度2つの大学でドイツ語の授業を4コマ、ある国際友好団体のチェコ語講座を1コマ、個別で行っているチェコ語・ドイツ語講座を1コマ受け持ちながら、翻訳や出版事業を手掛けていた。勤務校のうち1校は遠方にあり、泊まりがけでの授業だったため、身体的な疲労も大きかったと思う。非常勤講師という賃金労働に時間とエネルギーを取られるあまり、自分が本当にやりたい翻訳や出版、創作に打ち込むことができないことにもフラストレーションが溜まっていた。それが、大学での講義が落ち着いた1月末に爆発したのだと思う。

2月いっぱいほとんど寝て過ごしたおかげで少しは快復傾向にあったものの、依然メンタルの調子には波があった。この状態で長旅をして、慣れ親しんだ家から遠く離れた場所で1ヶ月も過ごすなど、果たして可能なのか。不安はなかなかおさまらない。けれども、チェコでしかアクセスできない資料は山ほどあって、これが今手に入るかどうかで、現在訳している作品のクオリティも、出版時期も大きく変わってしまう。できることなら早く資料を手に入れたい。コロナ禍とうつ病という問題を抱えたなかでも、わたしは渡航することを選んだ。

結果として、リスクを犯してチェコに渡航したことはよかったと思う。ちょうどロシア軍によるウクライナ侵攻の最中での移動だったため、ヨーロッパの航空会社は運航が難しかったように思われるが、わたしはエミレーツ航空を選んでいたので、幸運にも渡航に大きな障害は起こらなかった。関西空港からドバイまで11時間。3時間の乗り継ぎの後に5時間かけてチェコ共和国の首都プラハに向かう。ドバイ空港のプラハ行きのゲートで、既にわたしのなかのチェコは始まっている。そこここから聞こえてくるチェコ語の話し声。わたしは20代という多感な時期のうち4年間をプラハで過ごした。ちょうど多くのシリア難民がヨーロッパに助けを求めていた時期で、ひどい人種差別も多く目撃していた。それに、当時はなかなか研究がうまく進まなかった時期でもあった。帰国の際は、チェコにはもうしばらく行きたくないな、という気持ちもあった。にもかかわらず、空港のゲートでチェコ語が耳に流れ込んできたときには、言いようのないノスタルジーで胸がいっぱいになった。わたしはやはりこの言語が好きなのだ。

入国審査はびっくりするほどスムーズに進んだ。空港からプラハ中央駅行きの直行バスに乗りこむ。車窓から見えるプラハの街角には、そこここにウクライナ国旗が掲げられている。留学時代には苦々しい経験をいくつも味わった国だけれど、チェコの人々のこういう感受性には心から共感する。ウクライナのことだけではない。2021年にチェコの上院議員ヴィストゥルチル氏が「わたしは台湾人だ Jsem Tchajwanec」と述べ、台湾への支援を表明したことも話題になった。また、公共施設などでは以前から、チベットの国旗が飾られていることもある。

プラハ中央駅からブルノ行きの電車に乗り込んだ。ブルノまでは3時間。飛行機ではソーシャルディスタンスが保たれていたため、空席を利用して横になったりしながら出来る限り睡眠をとったが、24時間以上の長旅でわたしは流石に疲れ切っていた。ブルノでは、駅に迎えにきてくれたアテンドの女性がわたしを滞在先のアパートまで案内してくれた。「ご両親にはもう連絡したの?」と尋ねる彼女は、わたしをまだ20代前半くらいに思っているのかも知れないが、おそらく彼女の方がわたしよりも年下だろう。わたしには事情があって連絡すべき両親はいない。夫とその家族はいるけれど。

彼女に案内してもらいながら、わたしはふと「毎日図書館に通うとしたら…」と口にした。すると彼女は驚いたような顔をして言った。「毎日なんて通う必要ないわよ。長旅の後だし明日はゆっくり休んで、来週から動き出すというのでいいんじゃないの?」

虚を突かれた。そうだ、ここはそれが当たり前の世界だったんだ。疲れた時にはゆっくり休養をとることが、疲れるほど仕事をしないことが、仕事以外の人生を味わうことを大切にすることを最優先することが許される世界だったのだ。自分を縛り付けていた鎖が一挙に砕かれたような気がした。わたしたちを縛る真面目さという鎖。子どもの頃から知らぬ間にわたしたちに絡まりつき、気づいた頃にはわたしたちをがんじがらめにしているこの鎖。真面目に働いてちゃんとお金を稼がなければ、食べていけなくなるんじゃないかという不安。日本では、あくせく働く以外の道が見えなかった。うつ病になって無理やり休養をとっても、働かないことへの罪悪感に更なるストレスが生じて、それをなんとか薬で抑える日々だった。

真面目にあくせく働く必要なんてない。彼女が何気なく言った一言は、わたしの心を驚くほど軽くした。まるで魔法のように。彼女が去った後、彼女の言葉を噛み締めながら、涙が出そうになった。わたしが過ごしてきた世界は、やはりなにか異常な環境だったのだと改めて思う。

到着から一夜明けた今日は、朝の4時に目が覚めた。朝食をとり、夫とその家族とテレビ通話をして、ヨガをして、もう一度ベッドに入る。ブルノ近郊に住む日本人の女友達のために持ってきたイ・ランの『話し足りなかった日』を読みながら二度寝をして、昼前に近所のカフェで昼食をとり、近所の公園で読んでいた本の続きを読んだ。おこがましいかも知れないけれど、わたしはイ・ランに似ていると思う。

「私のたくさんの昨日は怒りと一緒だった」
           ーーイ・ラン『話し足りなかった日』75ページ

芸術表現に十分な支払いがなされないという東アジア圏のアーティストの多くが抱える問題。それに対する憤り。それをなんとかして変えたいという願望。彼女は傷だらけの自分をさらけ出し、憤りを原動力に表現する。

わたしも書くときは常に何かに憤っていたり、傷ついていたり、怒っていたりする。でも、そんな時に書く自分の文章を、わたしは嫌いではない。そこには本質的な何かがあると思うからだ。他人がそれをどう評価するかはわからないけれど。

チェコでの時間は、日本よりもゆっくりと流れる気がする。そろそろ夕飯を作る時間だ。

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