見出し画像

吉田博と丸山晩霞と「飛騨の旅」

この旅を吉田博の山岳画の原点とするには、まだ議論の余地があります。美術史の誤謬の一事例でもあり、近代史の別の視点からも読み解いていくことが重要であることが分かります。まことに恐縮ですが、資料探索のための経費補填のため、この記事は有料とさせてください。続編はこちらです。


(1)飛騨の旅は明治29年か31年か

上田市立美術館で開かれた「生誕140年 吉田博展」で少々物足りなく感じたのは「飛騨の旅」に関する展示である。

「飛騨の旅」は、21歳の吉田博と30歳の丸山晩霞が一緒に明治31年(1898年)の6月から7月にかけて行った写生旅行だ。吉田博の山岳画志向の原点とみられている。

丸山晩霞が、雑誌『みづゑ』第14・第16(明治39年8月・10月)に上下2回計約37000字の回顧エッセイを書き残している。これをもとに「飛騨の旅」は論じられてきた。書き出しで「過ぎし年數ふれば十年前」とあることから、長らく明治29年の出来事とされていたが、最近は水彩画家丸山晩霞に関する研究が進み、スケッチ帖との照合から明治31年と見られている。

上田市の隣、東御市。そこに丸山晩霞記念館がある。2010年「吉田博と丸山晩霞展」2013年「水彩画家丸山晩霞展」の成果として、飛騨の旅の行程が地図で紹介されている。

今回「生誕140年吉田博展」の図録では、飛騨の旅がどう扱われているのだろうか。吉田博研究の第一人者である安永幸一氏は自著『山と水の画家吉田博』(2009年)での明治29年誤記を認めて、図録本文では明治31年と書いている。一方、上田市立美術館の館長滝澤正幸氏が解説「山と近代美学と吉田博」で、志賀重昂『日本風景論』(明治27年)の影響に言及したのはよかったものの、「飛騨の旅」を明治29年夏と旧来の記述を踏襲している。それどころか「信州・上田から三才山峠を越え、松本・上高地、そして安房峠を経て飛騨に至るルート」と書いた。飛騨の旅では上高地を経由していないから結構大きな間違いである。滝澤氏が単純なミスで書いたのか、それとも、原資料である丸山晩霞「飛騨の旅」をきちんと読まずに書いたのか。

図録の末尾の年譜では、飛騨の旅は明治31年6~7月と記述されている。

気になるのは、図録の前書きにある協力者への謝辞だ。他の美術館十数館の名があるのに、丸山晩霞記念館が含まれていない。丸山晩霞の研究成果は、この吉田博展にしっかり反映されているのだろうか。

記録性の高い図録での齟齬は痛い。やはり編集者は、瀧澤氏に対して飛騨の旅を明治29年と記述することについて是非を問うて、この齟齬を正しておいてほしかった。(2017-06-03)

(2)「飛騨の旅」登山史を視野に

図録の謝辞に丸山晩霞記念館が含まれない。隣の丸山晩霞記念館が協力をしなかったのか。先に図録を読んだとき勘繰ってしまったが、それは思いすごしだった。

上田市立美術館の生誕140年吉田博展では、本展を出たあとに特別展示として丸山晩霞の6作品が並べてあった。

本展では写生帖No.17の鹿教湯の部分を開いて飛騨の旅について展示していた。この写生帖のメモ書きを詳しく見る余裕がなかったのだが、後で見た上田市立美術館WEBページ(コラム週刊YOSHIDA)によると、メモ書きに次の記述があるという。

「6月14日、丸山君に会い、山の上の彼の家に行った。(中略)6月17日、飛騨に行こうと思って小雨をおして出かけたが、盆をひっくり返したような大雨になった。」

鹿教湯、19日出立の文字もあるそうだから、飛騨の旅の出発日は明治31年6月17日なのかそれとも雨で1日遅れの6月18日なのか。

なぜここまで飛騨の旅にこだわるのか。それは、飛騨の旅が吉田博が高山美のとりこになる原点と見られながらも、あまり専門的な考察が行われていないからである。隣町の丸山晩霞記念館で旅の行程が地図で示されているのに、隣の上田市立美術館ではそれがない。図録には上高地まで行ったという誤情報まで書かれている。当時上高地へ行くには島々から徳本峠(2135m)越えだから途中から方向がぜんぜん違うのだ。

今回の吉田博展にかかわっている専門家の中に、登山史まで視野に入れている人が残念ながらいないのでは、と思う。以前にも記したが、吉田博の画業と登山史をリンクさせてみることがいま求められているのだ。アウトドア用品メーカーが協力し、山岳専門誌も取り上げるくらいなら、当然そういう展示があってもいいのではないか。(2017-06-04)

[追記]2015年3月に専門的な論文が発表されていることが、この記事を書いた後に分かった。詳細は(5)「飛騨の旅」上田・東御は連携を、を参照。

(3)「飛騨の旅」注目は平湯嶺越え

飛騨の旅で最も注目すべきは信州飛騨の峠越えと平湯滞在である。明治31年時点で2人がどこを越えたのは大きな関心事である。おそらく安房峠の可能性が高い。服部英雄氏の考察によれば、それは旧安房峠(1790m)ではなく古安房峠(2060m)であるらしい。というのも明治27年、ウエストンが安房峠を越えたときは古安房峠だったとみられるからだ。飛騨の旅は、ウエストンの安房峠越えからわずか5年後のことである。

丸山晩霞の「飛騨の旅」の記述に従うと、2人は白骨温泉で2泊したのち「平湯嶺」に向かっている。「平湯嶺」への登りの途中、次の記述がある。

忽ち人語は森の蔭に起る、一老農が若き數人の山娘を引き連れて下り來たるのである、この人々は今朝平湯を發し、信州の製糸場に向ふ工女との事である。頂巓一帶は殘雪の上を踏むので、そこは滑りて危險なり、一度誤りて足踏み滑らすと、身は千尋の谷底に落つるとの事である、これなる杖にたより、注意して通過せよとて、太き自然木の杖を與へられた。

(丸山晩霞「飛騨の旅(上)」『みづゑ』第14、明治39年)

まるで「あゝ野麦峠」女工哀史ではないか。おそらく標高2060メートルの峠の手前に雪渓があり「命がけの進行」だったらしい。そしてちょうどその場所で後ろから来た14、15歳の少年に追い越され、雪渓を過ぎて「平湯嶺の頂に達した」という。さらにしばらく進んだところで休んでいると「小笹に音たてゝこゝに現はれしは、平湯に越す旅人の群であつた」というから、この平湯嶺つまりおそらく古安房峠は、意外にも人の往来がそれなりにあったことになる。

峠を越えた吉田博と丸山晩霞は平湯に10数日間滞在してスケッチを書いた。1か月余りの飛騨の旅で、最も長く滞在したのは平湯である。

飛騨の旅といえば、ともすれば船津町(現在の飛騨市神岡町)で起きた警察官との騒動に注目がいく。しかし冷めた言い方をすれば、あれは丸山晩霞が書き留めた漫談である。吉田博の気の強さを示す逸話であるが、それは核心ではない。登山史的な視点に立つなら、平湯嶺越えと平湯滞在のほうがはるかに重要である。深く考えてみると、2人の目的は高山の登頂にあったのではない。明治31年時点ではそもそも雪渓を行く準備がない。隨行するガイドもいない。ただ漠然と日本アルプスに向かって進み、峠を越えて見知らぬ飛騨に入り、その間に山の眺望や山村風景を描くことを目的にしていたのだ。

吉田博は明治39年ヨーロッパを旅して、同年8月スイスで山岳風景を描いている。そして明治40年に帰国し、42年5月に開かれた山岳会第2回大会に水彩画18点を出品した。18点のうち13点がスイスアルプスで、まだ国内の山岳画はない。さらに明治41年か42年に立山白山に登り、国内で本格的に登山を始める。

吉田博が本当の意味で高山美に目覚めたのは明治39年欧州だったのではないかと推論する。この推論がどこまで正しいかは、「飛騨の旅」で書かれたスケッチなどをさらに詳細に調べないと分からない。

上田市立美術館の学芸員は《雲叡深秋》を解説するとき、「きのう烏帽子岳に登ってきました、山の自然に心を洗われました」と話していた。烏帽子岳(2066m)登山&山岳スケッチという関連企画ワークショップの下見だったのだろう。美術館が2000メートルを超える高所でスケッチ会を開くというのは簡単にできることではない。意欲的な取り組みだ。美術と山岳が結びつこうとしている。

僭越ながら提案がある。信州の美術館・博物館ネットワークによって、近代山岳画・山岳写真アーカイブスを作ってはどうか。いつどこでどのような風景が記録されたか。GPS情報も絡めると、歴史ファンだけでなく登山ファン、絵画ファンを引き付けるアーカイブスになると思う。その蓄積作業の中で「飛騨の旅」がもっと深く考察できるのではないか。(2017-06-05)

(4)「飛騨の旅」誇張表現を冷静に読む

丸山晩霞が雑誌『みづゑ』に書き残した「飛騨の旅」の文章は、誇張や情緒的な表現が少なくない。困ったことに、図録『生誕140年 吉田博展』では、それをそのまま事実であるかのように解説している文がみられる。

「雨の降る夜は立ち明かし、『仙食』と称して木の実や草の根を食べ、熊や狼の襲撃におびえながらの九死にー生の2ケ月にわたる決死行」(図録『生誕140年 吉田博展』p8)

いくらなんでも大げさだ。そう思わないのだろうか。

晩霞の「飛騨の旅」を読み解いていくと、旅の日数は30-35日、長く見積もっても40日で、2か月には遠く及ばない。その旅で吉田博と丸山晩霞はほぼ宿舎や旅館で寝泊まりしている。野宿の記録はない。梓川近辺では日が暮れてしまいさすがに野宿はできないと先へ進み、夜半になって大野川の宿舎にたどり着いた、と書いている。

原文では「露宿どころか雨の降る夜、山中で立ちあかし、一日位の絶食は平氣のもので、仙食と稱して木の實や草の芽を食した事もある」と書かれているが、それは飛騨の旅よりもさらに前の出来事のようである。

吉田博と丸山晩霞は、道なき道に分け入ったわけでない。禅定道のような登拝道を進んだわけでもない。樹海をさ迷ったこともない。ただ、信州から飛騨に向けて、人の往来がある街道を進んでいるのだ。むろん、風景を求めて少し本道を外れたところへ足を運んでいるだろうが。とにかく今日の尺度で言うなら探検という言葉は当てはまらない。

そもそも白骨温泉は明治30年ごろ年間3000人の客がいたというから、そもそもこのあたりを人跡未踏の秘境かのようにとらえるのはおかしい。

「熊や狼の襲撃におびえながらの九死にー生」というのも「飛騨の旅」には書かれていない。「平湯嶺」手前の雪渓を進んでいるとき、後ろからがさがさ音がして、獣かと思ったら少年だったというだけの話である。これを九死に一生と解釈するのは無理がある。

この話は、上田市立美術館のWEBコラム週刊YOSHIDA第3話「『仙人』の神頼み」でも紹介されている。はっきり言って下らない漫談である。興味を抱いてもらおうという努力は分かるが、これは「黒田清輝を殴った男」と同じように、バラエティ番組的な行き過ぎである。美術館がこのような逸話を紹介するのは好ましくない。「二人が絶体絶命」と書いているけれど、もう少し冷静に丸山晩霞の文章を読んでみてほしい。単に、後ろから来た少年を獣と勘違いして驚いただけのことである。

事実を記した部分に目を向け、まず2人がどのルートから信州飛騨の境を越えたのかをみるべきである。参考になるのは、5年前の明治26年、ウエストンが通ったルートになるだろう。(2017-06-08)

(5)「飛騨の旅」上田・東御は連携を

ある人からその所在を教えてもらい、「飛騨の旅」に関連する研究論文を読んだ。久々に中身の濃い論文でうれしくなった。

林誠氏の「丸山晩霞の初期素描について―『日本アルプス写生旅行』のスケッチを中心に」である。※『長野県立歴史館研究紀要』第21号(2015年3月)林氏は同館学芸員。

なんだ、やっぱり「飛騨の旅」はしっかり学術的に研究されていたのだ。当時の気象データを突き合わせて明治31年を特定し、旅行日数は約1か月とみている。(おそらく6月18日出発7月20日着か)むろん「決死的」という情緒的な表現は使わず、「晩霞が語るほど冒険的な旅行ではなかったように思える」と書いている。

こうなると、図録『生誕140年 吉田博展』の記述はあまりにひどい。「熊や狼の襲撃におびえながらの九死にー生の2ケ月にわたる決死行」というのは作文だ。少々厳しく言うが、ドラマを求めるファン心理におもねるようなもので、執筆された方は大いに反省してほしい。「決死的」という表現はこういう時に使うものではない。上田市立美術館の「『仙人』の神頼み」というWEBの記事も取り下げたほうがいい。

要するに、図録『生誕140年 吉田博展』(2016-2017)は、2015年春に発表された林誠氏の論文をちゃんと読まずに編集されたのだろう。本当に困った話である。いくら新聞社と他の美術館が先導したとはいえ、せめて山岳関係については隣町の美術館同士もっと連携してもらいたかった。林氏や晩霞記念館の学芸員の目で吉田博のスケッチを見るとまた新しい事実が見つかるかもしれない。上田市立美術館の館長が書いた「明治29年」「上高地」については明らかな誤記なので、訂正をWEBで公表してはどうか。

さて、林論文の緻密さには敬服するが、いくつか論点はある。最も重要なのは、大野川~白骨~平湯嶺~平湯のルート推定である。林氏が作成した行程略図では、大野川から白骨へ向かう際、檜峠(1340m)を越えたという想定をしていない。檜峠は街道筋にある有名な峠なので、ここを通らなかったとは考えにくい。丸山晩霞の素描No.0769「平湯嶺森林」には、修正跡「檜峠森林」があるという。

林氏は、「平湯嶺=平湯峠」と見ているが、これはどうみても変である。白骨から平湯に向かうのに、わざわざ遠回りをしているようなものだ。それに2300-2500mの鞍部を行かなければならず、1日の行程でたどり着くことがたぶんできない。平湯嶺=古安房峠と推定して、さらに調べてみるべきだと思う。

ヒントは「飛騨の旅」の次の記述にある。

平湯村を前景として、中景に平湯嶺の裾を現はし、遠景に蝶ゲ岳の殘雪を配したる位置にて、吉田氏も余も同じ位置にて油繪を始む。

もし平湯嶺=平湯峠であるならば、蝶ゲ岳は反対方向になってしまう。遠景に蝶ゲ岳を見て、平湯嶺の裾を入れた構図を考えると、平湯嶺=古安房峠、または平湯嶺=安房峠としか考えられないのだ。

先に「飛騨の旅」では野宿したという記述がない、と記した。しかし林論文によると、丸山晩霞の素描No.0436には「日本アルプス写生の途上露宿せし夜/降雨ありて数葉のスケッチ画を失ひし内の一部」と記されている。「露宿どころか雨の降る夜、山中で立ちあかし、一日位の絶食は平氣のもので、仙食と稱して木の實や草の芽を食した事もある」という大袈裟な記述を、林氏は平湯滞在中に実際にあった出来事だとみている。なるほど、素描の記述に従えば、やはり実際に野宿したということになるのか。しかし、それでもすこし信じがたい。

旅行の時期を特定するため、林氏は降雨データと月の満ち欠けに注目している。これはまったく妥当な方法で、ここまで調べられるというのはすごいの一言だ。ただ、もう1点、船津町で「野津將軍」と接近遭遇している日時を糸口にできないか。野津道貫がどれほどの人物かは分からないが、著名であれば地元紙に記録が残っているはずだ。(2017-06-10)

(6)「飛騨の旅」明治31年の安房峠はどこか

明治31年6月24日、吉田博と丸山晩霞は白骨温泉を出発し、長野岐阜県境を越えて平湯に着いた。晩霞が書き残した『飛騨の旅』には「平湯嶺」を越えたとしか書いていない。そのルートは不明である。しかし注意深く読み、他の情報と付き合わせていくとおぼろげながら見えてくることがある。

場所を特定していくための情報だけをみてみよう。

寂寥たる森林の急坂を攀ぢ上り……略……谷川の音……略……を聞く……略……午前九時頃とも思ふ頃、小嶺の頂に達すると、霧は漸く霽れて、吾等は乘鞍岳の中腹に立つて居つた

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

2人は白骨温泉(標高1389m)を出てすぐ坂を登った。そのあと谷に近い所を通り、午前9時に尾根筋に出た。しかし霧は晴れない。たぶん、2人は白骨温泉の裏山の道を上り、標高1537mの鞍部に出た。標高差約150mの急登である。このあとゆっくり下り、標高1350mあたりで池尻から来る道と出合った。

密に繁る草間の細徑を辿り、急斜に流れた山腹の傾坂を上り行くと、幾つかの澤あり、澤には淸泉の流れあり、木立の叢をなす邊りには、小笹密に茂りて、林の中森の中には、未だ聞きなれぬ蝉が鳴て居る

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

いくつかの沢を渡ったようである。最初の大きな沢は「狭谷」(セバ谷)である。側谷(そばだにか)と書く紀行文もあるがおそらく聞き間違いであろう。セバ谷を標高1290m付近で渡って少し上ったところが「夏小屋」と呼ばれる場所だった。霧のためよく見えなかったのか、丸山晩霞は書き留めていない。そこからすこしずつ高度を上げ、小さな沢をひとつ渡って、小さな尾根をひとつ越えたところが「障子ヶ瀬」だった。おそらく「雲間ノ滝」の上部、標高1530mあたりと推定される。そこからわずかに上った場所はなだらかで、「障子ヶ瀬」支流の小さい沢を渡って緩斜面を進んだ。しばらく行くと右側が崖で、左側は「倉洞沢」(くらほらさわ)という深い谷だった。標高1610m付近でその倉洞沢を渡ったものとみられる。

明治42年8月30日の『朝日新聞』に「槍ヶ岳登山記」という連載記事がある。それによると、白骨温泉から、この倉洞沢と同じ場所と思われる「トラブラ谷」まで所要時間は3時間となっている。

忽ち人語は森の蔭に起る、一老農が若き數人の山娘を引き連れて下り來たるのである、この人々は今朝平湯を發し、信州の製糸場に向ふ工女との事である。頂巓一帶は殘雪の上を踏むので、そこは滑りて危險なり、一度誤りて足踏み滑らすと、身は千尋の谷底に落つるとの事である、これなる杖にたより、注意して通過せよとて、太き自然木の杖を與へられた。

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

森で出会った人は平湯を朝出発した人たちだった。そして峠付近には雪があり、滑って危険だから杖を使いなさいと言われた。この文章から一体どこの場所で出会ったのかは分からない。倉洞沢の手前なのか、それとももっと峠に近いあたりなのか。

森に入りて森を出づる幾回にして、こゝは嶺の頂に近く右方に展けた所に出でた……略……それは皚々たる白雪に蔽はれた、信飛の境に巍然として聳立せる連岳である……略……吾は之れを讃する語を知らず、只崇高の感を充して寫生したのである。

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

「嶺の頂に近く右方に展けた所に出でた」の部分は特に重要な記述である。これは尾根に出て、右手前方に穂高連峰が見えたのであろう。とすれば、それは安房山(標高2219m)の東山稜であるに違いない。写生した絵が残っていればこの場所は特定できるであろう。いちおう標高1750mと推定する。

右に雪岳を望みつゝ、落葉樹の大森林裡に入る、巨木高樹は皆秀でゝ其の時代を知らず、大陽の光りは、八重十重に繁茂せるものを透し來たるため、森林の中は淡暗なり、こゝに入れば小笹も絶し下草も見ず年々歳々落葉して積み重りたる朽葉なれば、之れを踏むと柔軟毛氈の如し。がさがさと朽ち葉を踏み、急坂を攀ぢて上れば、頂は平坦にて、先に會した旅人に注意されしはこの所である。一方は平坦にして一方は急坂なり、急坂の頂を渉りて進むのである。積雪はこゝ急坂より平坦にかけて皚々たり、……略……積雪帶も無事に過ぎて平湯嶺の頂に達した

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

落葉樹の大森林に入ったあたりの推定が難しい。植生図上では1800m付近より上は落葉樹が少なくなる。そこから急坂を登って、頂すなわち峠は比較的なだらかだったようである。6月下旬の時点で雪があったのであるからやはり標高2000mぐらいか。とすれば古安房峠(標高2060m)は矛盾しない。

積雪帯を出でゝ、熊笹の中なる平坦の細徑を辿り行けば、山は愈々深く、右方脚下に奇しく美しき山を見る。この邊は岩石多く、雪かと思ひしは山櫻の滿開にて、岩根岩角扨ては木立の間より、色鮮明なる紅の躑躅が咲て居る。

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

「右方脚下に奇しく美しき山」は山容からするとアカンダナ山(標高2109m)あたりか。ただ右方ではあるが脚下という表現が気になる。

嶺を下りて飛騨の境に入るのである。嶺の頂上が信飛の境にて、そこを下るとこれよりは常綠樹の大森林である。檜、樅、栂の巨樹は直上し、これが繁り合ふて空を隱して舍る。その間より微かにもれて來る光りは、晝も尚月夜の感が起る、地面は落葉樹の森林に引替へて、綠苔は隙もなく地を纒ふて、瀟灑を極盡して居る

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

峠からどのように下ったのかは読み解くのが難しい。西方向に崖を降りたものか、それとも南東の方角へ迂回するように下ったものか。標高差約450mの下りのはずだが、記述が情緒的で、有力な情報があまり含まれていない。

漸く下ると、そこは廣濶なる坦平の地にして、更に大なる樹の直上しで居る、濛々、寂寞、沈靜にして微少の物音もせぬのである、これのみならず、森林の中に池沼がある、水は深黒に見へ、近視すれば凄い程澄明して、直上した巨樹は影を倒映して居る、吾はあまりに凄き爲め死水と叫んだ、沼畔に近づきてこの邊を注視すると、水域は狹き處あり廣き處ありて、それが迂曲して長く、更に注視すると、水は溜水にあらず、無聲に流れ居るのである

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

沼のある平坦地といえば、標高1597mの安房平か。

平坦の極る所に急坂あり、之れを下れば眼界宏壯、高平川の上流は前に展けて、平湯山村の遙かに散點するを見る、更に下れば濃霧起り、小雨さい降り來たり、濡て平湯の旅舎に到着

(丸山晩霞「飛騨の旅」)

ウォルター・ウェストンは明治27年7月31日、安房峠らしいところを通っている。午前10時に夏村を出発し、頂上に午後零時55分に到著、残り2里(約8キロ)で平湯と記している。夏村は夏小屋のことであろう。「安房」という記述はない。

前述した明治42年8月の朝日新聞記事では、白骨温泉~倉洞沢が3時間である。

明治44年6月、大阪朝日新聞の長谷川如是閑が白骨から平湯を旅して紀行文を残している。

信飛境上の両雄峰乗鞍岳と鑓岳とが、膝突き合して談合の致して居る其の膝頭に攀ぢ登つて横腹の辺を向ふに越すのが平湯峠だ……(中略)……東に白骨、西に平湯と申す温泉があるで、信飛両国の境を横切る山路のうちでは割合に人通りの多い道ぢゃ

(「道又道」『大阪朝日新聞』明治44年、『長谷川如是閑選集』4)

如是閑は国境の峠を「平湯峠」と書いている。以下は、そのルートにかかわる記述である

降りみ降らずみの雨を冒して白骨温泉の裏山から登って、半里ほどの山道を参り、トある山岫やまそばに一軒家のあるに休む、此處を何と申すと尋ねると、夏の小舎と申すといふ。人里離れた孤家の、冬は雪に埋もれて有りとしも無く、夏となって漸々世に出るで夏の小舎とは好う名付けた。

(「道又道」『大阪朝日新聞』明治44年、『長谷川如是閑選集』4)

如是閑の記述はこのあと具体的ではなくなる。

山深う参るに従って、所謂斧の入らぬ森の、峰から谷、谷から峰と打ち続き、蒼々鬱々として、天地に外のない間を、真白の雲の、千仞の谷から湧いては山岫やまそばを千切れ飛ぶ景色の目覺ましさ。折々沛然と降り来る雨に山も谷も見る間に消えて身はたゞ夢のやうに、煙霧のの底に彷徨ふ、其の時の心地、此のまゝ永々帰らぬ人とならまほしうも覺えましたぢゃ

軈て辿りて道の全く崩れた所に参る、昨日からの雨に崩れたのぢゃで、足溜りもない。山の頂から谷底まで屏風を少し斜めに立てた如くぢゃ。

(「道又道」『大阪朝日新聞』明治44年、『長谷川如是閑選集』4)

結局、如是閑の文章には峠を越えた時の記述が見当たらない。

吉田博と丸山晩霞が明治31年に越えた長野岐阜県境は、古安房峠(標高2060m・大峠)か、それとも安房峠(標高1790m)か。安房峠ルートは、倉洞沢~長助沢~細池~小船~安房峠~安房平のルートは、安房山の裾を大回りするが、標高差は小さく、可能性がないことはない。ただ時間がかなりかかるのではないか。

大正元年測図の5万分の1地形図には、「安房峠」が記されている。なぜか標高は1683m。古安房峠は記されていないし、それらしい道も記されていない。明治31年(1898年)から14年後、古安房峠があまり利用されていなかったということか。(2017-06-29)

【参考文献】服部英雄「佐々成政のザラ越えと旧信濃国人・村上義長の動向 : 鈴木景二氏らの試案によせて、および安房峠追補」『比較社会文化』(2010年)
服部祐雄『探訪記 アルプス越えの鎌倉街道』(2009年)
岡村利平『飛騨山川』飛騨叢書2(1911年))

(7)写真誤謬の連鎖を憂う

若い頃の吉田博(手前、撮影年不明)
「飛騨の旅」とは直接関係ないとみられる

丸山晩霞の写真?

「飛騨の旅」といえば、吉田博が山好きとなる原点の一つとみられる写生旅行だ。明治31年6月から1か月余りをかけて丸山晩霞とともに信州と飛騨を往復した。晩霞の回想録からこれまで明治29年と誤認されてきたことは既に記したが、「飛騨の旅」を象徴すると見られていた一枚の写真も、実は誤まった推定だったことが明らかになりつつある。

その一枚は、安永幸一著『山と水の画家 吉田博』(2009年)に掲載されている。吉田博に関心をいだく人がまず手に取る一般書である。「丸山晩霞との奥飛騨のへの蛮行」という見出しの一文に添えられていて、写真説明には「『飛騨の旅』の頃と思われる吉田博(左)と丸山晩霞(右)」とある。

一方、図録『吉田博・吉田ふじを展 世界を旅した夫婦画家』(2015年)の81ページにも同じ写真が掲載され、説明は「博(手前)と吉田嘉三郎」とある。

たぶん後で発行された方がより新しい研究成果なのだろう。ただ、安永氏の著書がなぜ誤りなのかという説明はないし、吉田嘉三郎が正しいとする根拠も示されていない。

ここから先は

2,940字 / 5画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?