kotoyo_sakiyama

明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。…

kotoyo_sakiyama

明治大正の児童文化運動・唱歌童謡・美術・立山黒部・測量史・地形図などに関心があります。見過ごされてきた歴史に光を当て、他の人とは違う角度からものを見て、なるべく辛口で書いていきます。精神年齢が現代より20歳ほど上の明治大正の人ならどう考えるのかと自問自答しています。

マガジン

  • 琴月と冷光の時代

    大正7年、童謡運動の先駆けとなる「少女」音楽会を帝劇で開いた児童雑誌編集者と音楽家。同郷の2人は新しい子供の歌で意気投合し、時代の先端を切り開きます。忘れ去られた2人の足跡を追い、その周辺の唱歌史や登山史や美術史にも触れていきます。順不同で順次公開します。2013年スタート。

  • 【資料】琴月と冷光の時代

    本編「琴月と冷光の時代」の資料集です。

  • もっと深く!吉田博と山旅

    洋画家で木版画家の吉田博に関する展覧会コラムと資料集です。公式の解説とは一線を画し、吉田博自身の視点を大切に、そして山岳を中心に、吉田博の画家魂を掘り下げています。図録に見られないレアな作品も掲載解説。『高山の美を語る』デジタル復刻増補版も。2014年開始2023年移転。

  • 気になる記事

  • 立山近代史関係資料

    越中立山はかつて富士山や白山とともに信仰登山が盛んでした。明治時代後半、博物学者や文筆家、画家、俳人、新聞記者、音楽家などさまざまなジャンルの人が入りました。その多彩さは富士山と比べてもおそらくそん色はなく、いかに注目を集める山であったかが分かります。

最近の記事

第8章第5節 時事新報の『少年』

人生の苦しい時期を抜け出す道は人それぞれである。トンネルの先に一筋の光が見えて次第に明るくなるような場合があれば、雲間から強い光が差し込むように一気に好転する場合もある。『お伽倶楽部』休刊後の冷光は後者だった。 大正元年9月、大井冷光は時事新報社(東京府京橋区南鍋町2-12、福澤捨次郎社長)に入社した。以後、大正10年3月に亡くなるまで約8年半にわたって雑誌『少年』『少女』を編集し、主幹の安倍季雄と同僚の松美佐雄とともに『少年』『少女』の黄金時代を築くことになる。それは大衆

    • 【資料】大井冷光「追悼・永島永洲」『少年』170号(大正6年)

      秋立つ日    冷光むかしから『心、肺は不治の病』といふ、 十七の春、学校通ひのみちで初めて 心臓病が起り卒倒された悲しき思い出、 爾來五十有一歳の秋立つ日まで、 先生はその不治の病と闘はれたのだ。 姓は永島、号は永洲、 身長五尺に足らぬ先生に於て、 永洲の号は皮肉であった、 それも心臓のためだ、不治の病と、 持久戦中の悲しき皮肉であったのだ。 三月、雪もよひの夕、麹町の書斎に、 先生を訪ねて明治文芸談に花が咲き、 長座したのが、おもへば永別であったが、 八月十日インマヌ

      • 【追悼】大井冷光 ― 巌谷小波・久留島武彦・安倍季雄

        3月5日は、大正時代の児童雑誌編集者、大井冷光の命日である。 1921年、大正10年のその日、神奈川県の逗子小学校で大勢の児童を前に講演中、心臓麻痺で倒れ、帰らぬ人となった。その突然の死について、児童文化運動の巨人ともいえる巌谷小波と久留島武彦が書いた文章を再掲して、冷光への追悼としたい。 児童文学や読み聞かせという分野で現在仕事をされている方々に、ぜひ一読していただきたい内容である。3月5日の「冷光忌」をきっかけに、今いちど大井冷光という人物を偲びたいものである。 最初

        • 【追悼】大井冷光―井上江花のルポ5編『高岡新報』1921年

          大井冷光の恩師である井上江花は、形式的な文章をことのほか嫌う記者だった。かつて競合紙北陸タイムスの新社屋完成記念紙面に名士たちが祝辞を寄稿したのに、ひとり「我がタイムス観」という文章を寄せたことがあった。冷光の死に直面して、江花は翌日の紙面に短い追悼記事を書いた以外に追悼スタイルの文章は書いていない。その代わりにルポを書いた。「喪に之く旅」「死に暗示有り」「之れ戦死也」「友人を葬る」「紅海を渡る」という標題の5編である。「オホ井ノブカツキウシス」の電報を受けてから、上京して葬

        第8章第5節 時事新報の『少年』

        マガジン

        • 琴月と冷光の時代
          51本
        • 【資料】琴月と冷光の時代
          23本
        • もっと深く!吉田博と山旅
          23本
        • 気になる記事
          1本
        • 立山近代史関係資料
          4本
        • 剱岳初登頂の史実 小説『点の記』とどう違うか
          4本

        記事

          【資料】大井冷光 主な編著作

          (書籍のみ) 1908 明治41年7月 『立山案内』清明堂。自序5月15日筆。序に藤原(窪美)昌保、井上江花、舟木香洲。6月28日印刷。7月10日発行。附録「絶頂の日出」は『高岡新報』明治40年9月掲載の探検記「御来迎様」を再録。『江花叢書』第13巻(「蝸牛随筆」1935)p22-25「立山の書籍」に出版の経緯が記されている。国会図書館デジタルコレクションで公開。 1909 明治42年6月 越中お伽噺第一編『走影の池・更々越』清明堂。5月20日印刷。5月23日発行。7銭。

          【資料】大井冷光 主な編著作

          吉田博論2022

          吉田博を見る3つのポイント木版画を中心にした没後70年記念展のあと、木版画展が相次いだ。 興行としてはその方がいいからなのか、それともキュレーターの趣味の偏りなのか。 木版画ばかりに注目が集まるという状況に、私はいささかげんなりする。 吉田博の画業には3つのターニングポイントがある。 1つ目は「デトロイトの奇跡1899年」、2つ目は「立山・剱の奇縁1909年」、3つ目は「木版画驚異の1926年」である。 3つめは年間40作を超える木版画を作り出した年で、いまそればか

          【資料】大井冷光「横から見た立山」「立山と画伯」1910年

          山水帳「横から見た立山」◎今日は立山のお祭日、海抜九千九百尺の霧の上から神楽の洩れる日である去年の今頃は室堂の隅で綿入を着込んで眼をパチクって居たが、今年は編輯局裏九十度以上の汗を絞って恁んなものを書かされる。どれ寝轉んで失敬しやうか。 ◎芦峅寺村から約二里の山坂、黄金坂、草生坂、材木坂など云ふ岩梯子を攀ぢると山毛欅坂と云ふ處に来る、高さ二十間餘の老幹がシットリと梢間から苔の香を送って、浅緑の葉に陽光を透して居る、その木陰に茣蓙を敷いて憩ふ時頬白の聲鶯の声、それから一層深

          【資料】大井冷光「横から見た立山」「立山と画伯」1910年

          【資料】吉田博「越中立山御来光の美観」1914年

          越中立山御来光の美観 文部省展覧会審査員 吉田博

          有料
          100

          【資料】吉田博「越中立山御来光の美観」1914年

          【資料】中條辰夫「おもちゃの舞台から」『少女』(1920年・冷光童話会)

          玩具の舞台から 中條辰夫 おゝ可愛いかはいゝ子供さんたち! たとへばダーリヤのやうな 雛菊のやうな、 また あゝ食べてしまひたいやうな頬ぺたの それは 貴い紙の手触りのやうな 地上の花のあなた方、 おぢゃうさん。 ぼっちゃん。 あなた方の うるんだ黒耀石のまっ黒い 瞳に見まもられ、 私。 この「一粒の豆」の若者は 軽いヰイオロンの音におくられて、 まっ赤な土耳古(トルコ)帽をひょいとかぶり 黄色い繻子のピカピカの ルーバシュカを着て 「あゝ何んといふいゝお天気だらう!」と

          【資料】中條辰夫「おもちゃの舞台から」『少女』(1920年・冷光童話会)

          【資料】追悼「萬代恒志」安倍季雄(大正4年)

          恒志君が死んだ季雄 恒志君が死んだ、恒志君が死んだ、まるで夢のやうだ。 萬代君が故高濱長江君の紹介状を以って始めて僕の処に来られたのは確か明治四十二年の暮であった。『少年』に恒志君の絵が載り初めたのは翌四十三年の一月号からで、それ以来恒さんの絵は『少年』になくてはならぬ呼物となった。 恒志君は『少年』で仕立てた唯一の画家で、萬代君を画家として世間に紹介したのも我『少年』であった。「安倍さん私が死ぬ迄『少年』に描かして下さいな」と萬代君は口癖のやうに言った。その通り、血を喀

          【資料】追悼「萬代恒志」安倍季雄(大正4年)

          琴月と冷光の時代 目次

          第1章 帝劇『少女』音楽大会 [1918年]1 「赤い鳥」前の音楽ブーム 2_大衆児童雑誌が先導 第2章 作曲家への道 [琴月0-28歳 1891-1917年]1_ハンディを力に代えて 2_東京音楽学校選科とは 3_分教場と教員たち 4_明治時代末の私立音楽学校 5_作曲研究会と山本正夫 第3章 青雲の志 [冷光0-20歳 1885-1905年]1_3つの送別会 2_両親との死別と孤独 3_農学校時代、雑誌編集に関心 4_有難き親友たち 5_家庭問題と上京決断 6_東京

          琴月と冷光の時代 目次

          【資料】大井冷光「お伽旅行」(1910年)

          (上) 五月二十九日の日曜日は僕の二週間目に得らるる尊い安息日でした。 処が此日曜日は恰度金沢へお伽話の久留島先生がお出でになると云ふ事が同地の新聞に見えましたので、僕はこの日金沢へ行かうかと思って居ました。 すると土曜日の午後七時過ぎ、社から疲れ切って帰りますと、机の上には『日曜のお相手になりませう』と云ひ顔に来月号の少女世界が来て居ます。其上亜米利加に居る友人から贈った『リツルフォークス』と云ふ可愛い同地の少年雑誌迄が僕を待ち受けて居るではありませんか。 『さうだ

          【資料】大井冷光「お伽旅行」(1910年)

          【資料】大井冷光「お伽多根萬記」『富山日報』(1910年)

          「お伽多根萬記」(一)   冷光◎久留島氏今回の本縣下のお伽講演は十五日間前後四十回で、聴いた少年少女の数は實に二万二千人有餘名、教師や家庭の人々も亦千名以上に達した。 ◎其大部分は富山市内及縣下東半部各地で新川三郡のの主なる町は殆んど亘り尽して最後に婦負郡の四方町と東砺波郡の福野町に迄及んだ。 ◎福野町丈は校舎が狭く恵比寿座と云ふ芝居小屋で講演會を開かれたが其他は悉く學校舎であった、されば始終久留島氏の此行に同行した僕は、行く先々の學校で見學した處も多かったから、其間に

          【資料】大井冷光「お伽多根萬記」『富山日報』(1910年)

          【資料】連載「お伽ノート」『富山日報』(1910年)

          『富山日報』明治43年6月23日~26日、30日1面連載 お伽ノート(一)▲飯でも薬でもない 児童の娯楽に供する為めに作らるる一種の小説をお伽噺と云ふのだ、児童が小学校で教はる教科書が三度の米の飯であるならばお伽噺は少なくともお菜か食後の菓子であらねばならぬ、但お菜や菓子である以上は必ずしも滋養分があるとは限らぬ、直接米の代用は出来ぬが、それでも喰って消化の助けとなれば血液を肥やす為めにもなき如くお伽噺も教育の補益となる許りでなく一種の精神教育を施こす事にもなるのだが、さ

          【資料】連載「お伽ノート」『富山日報』(1910年)

          【資料】評論記事「理想の花売児」『富山日報』(1910年)

          理想の花賣児         冷光◎子供に商賣気を躾け様とて朝の街を花賣りに出す富山に習慣は飽迄保存して置き度い、勿論僅かな弊害は有らうとも其年齢や、家庭に行き届いた取締りさへあれば毫も気遣ふに足らないのだ ◎而し現今の如く、賣る花の種類の甚だ単純で、仏壇に立てるお花しか持たないのは此習慣の今後衰微し行く原因だ、毎朝仏壇のお花を取り換へる様な家は幾程あるものか ◎そこで僕は思ふ、この美風を今後改善発達させるには第一賣品の花をモッツと豊富清新にする事、第二年齢十歳以上十五六

          【資料】評論記事「理想の花売児」『富山日報』(1910年)

          【資料】新派俳句結社「墨汁吟社」の歩み

          新派俳句結社「墨汁吟社」の歩み(明治38年~明治43年)明治38年3月 富山市で新派俳句の俳人が集まり、墨汁吟社を結成。舟木香洲・高木卯月・気賀蘇水・吉崎空水・五艘霞翠・亀坂占雷・笹川雷女・折橋霜葉など。会名は正岡子規『墨汁一滴』にちなむ。毎月1・3土曜の例会開催を決定。 明治39年1月21日 二番町の旧石川屋支店楼上で例会。兼題は「梅五句」。雑誌『墨汁』2巻1号を一両日中に発行。 明治39年7月29日 神江千歳舘で例会。兼題「夏休み」10句。 明治39年8月25日 南田町の

          【資料】新派俳句結社「墨汁吟社」の歩み