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吉田博展を見た〔2017年〕

2017年、上田市立美術館で吉田博展を見た時の感想文をまとめました。この時のオフィシャル記事「コラム 週刊YOSHIDA」は比較的よくまとまっていておすすめです。合わせて読むと、2017年の盛り上がりを振り返る事ができます。《精華》については別にまとめてあります。


(1)テンポがいい講談師の紹介ビデオ

念願だった「生誕140年 吉田博展」を上田市立美術館で見てきた。すばらしい環境で見ることができ、美術館のかたがたには心から感謝したい。

もともと千葉での開催を見逃してしまったのが過ちだった。その後、郡山にも行けず、さすがに久留米にまで行く余裕がない。このままいけば7月の東京巡回展(興亜美術館)を待つしかないなあと思っていたが、東京展は最後だし、夏休みにもかかり、込み合うことは間違いない。それなら、信州上田まで足を運んでみるのもいいのでは、と思いたって日曜日に出かけた。

入り口でチケット売り場が分かりにくく係員に訪ねた。向かいのグッズ売り場だという。ここでチケット購入。そして会場へ。係員はいずれも接遇が洗練されている感じで好印象だ。地方の美術館という偏見は一気になくなった。建物が新しいだけでない、上田の文化的な風土がそうさせているのか。

入るといきなり約13分のビデオ上映『痛快! 吉田博伝』である。これがなかなかよく出来ている。テンポがいい。講談師が九州弁を交えて語る。吉田博が九州出身だからこんな調子なのか。いやしかしホントに白馬会とやりあうとき九州弁だったのか? そんなことを考えながら楽しまさせてもらった。

NHK日曜美術館のような硬派なテイストではなく、こういう柔らかい映像作品を最初に置いたのは正解だ。

しかし、気になる点をひとつ。ビデオでは「黒田清輝を殴っちゃった」と断定調で紹介していた。これはいただけない。殴ったかどうか、怪しいのだ。この日の学芸員の解説によれば「胸ぐらまではつかんだらしい」とのことだった。伝聞情報は独り歩きする。興味をひくために面白おかしく、わかりやすく、というのは分からないではないが、バラエティ番組路線も度を越すとよくない。(2017-05-21)

(2)印象に残る細密なスケッチ

「黒田清輝を殴った男」とか「絵の鬼」とかいうキャッチコピーがどうも好きになれない。品がない。「対峙した男」あるいは「対立した男」じゃだめなのか。

「絵の鬼」は、不同舎の5歳下の後輩、小杉未醒が書き残しているそうだけれども、現代の感覚では前時代的な言い回しではないか。「鬼」といえば鬼監督・鬼コーチ。吉田博は他人に厳しく指導する熱血タイプだったのだろうか。絵に対する鬼気迫る姿勢というけれども、どうも微妙に違うような気がする。「反骨の画家」「執念の画家」でいいのではないか。

本論に戻ろう。会場入り口は肖像写真だ。2度目の渡米のとき撮ったものだという。近くで「イケメンね」と囁く声がしたが本当にそうか。こりゃよそ行きの写真だなあ、私ならこれを選ばない、もっと人間味がある一枚をまず見せたい。

通常ならはじめのあたりに年譜展示があるところだが、この吉田博展では最後に回してある。年譜を出してしまうと難しくなる、という配慮か。これはこれでいい。

最初の作品展示は、10代前半の圖畫集。ガラスケースに入っているのは止むをえないが、照明が抑えてあって暗い。それに表紙だけの展示で、肝心の中身が見られない。まあ仕方がない。後で図録を開いて見たが、やっぱり本物を見てみたかった。

驚かされたのは写生帖No.159。特に富士山はすごい。雪と山肌の描き分けの細かさに圧倒されてしまった。明治30-31年というから21-22歳か。こういう積み重ねがあって、あの版画シリーズ富士拾景の名作朝日があるのか。

明治27年、17歳の時の《京極》というスケッチも印象に残った。細密さはもうただものじゃない。生の写生帖から感じられる息遣い。完成した作品を鑑賞するのとは違う楽しみがある。(2017-05-22)

(3)幻の大作《高山流水》を想像する

《雲叡深秋》は以前から見てみたい作品の一つだった。吉田博の関心が山岳に向かった最初期の作品だからだ。明治31年春の明治美術会創立10周年記念展に出品された。明治31年と言えば、丸山晩霞とともに飛騨の旅(日本アルプス写生旅行)を敢行した年である。

《雲叡深秋》明治31年 油彩 111.0×68.2 福岡市美術館蔵

日本アルプス写生旅行は明治31年初夏なので、《雲叡深秋》はこのとき描いたものではなく、日光で描いたものらしい。

黒い岩を両側に配して画面を引き締め、右上の霞がかかった山の景色が奥行きを感じさせる。紅葉は控えめに描かれている。

手前の水の流れは描き方にまだ硬さがあると、学芸員も解説していたが、そういえばそうみえる。たしかに白が強い。しかし吉田博の目にはそのように映ったのかもしれない。気になったのはむしろ川原の石だ。気が遠くなるような雑然とした配置を描き切ったのは見事だけれども、なぜか平板な感じがした。それにしても、岩肌の苔むしたような感じまで写し取っているあたりはすばらしい。これがあの《精華》の岩窟の描写につながっていくのだ。

後で詳述するが、明治31年の段階では、吉田博の関心は漠然とした深山幽谷だったと思う。『日本風景論』に触発された程度で、まだ本格的なアルピニズムには目覚めていない。森林限界を超えた雲上の世界にのめり込むのは明治41年か42年からである。

《雲叡深秋》を見ていて、同じころに描かれた《高山流水》という作品を想像した。明治33年のパリ万博に出品した水彩画だが、現在は所在不明で幻の絵画だ。むろん今回の生誕140年展に《高山流水》はないし解説もない。

当時の雑誌『美術新報』の坂井犀水によると、横9尺、縱4尺5寸ないし5尺というから、あの《精華》と同じくらいの大作である。当時吉田博が住まいしていた6畳間では離れてみることができないため天井に張って、仰向けになった見たという。広い眺めを一望に収める横長の構図だったらしい。とすれば、縦構図の《雲叡深秋》とはまったく違うのか。パリ万博では黒田清輝が《智感情》で銀賞をとっていて、吉田博はそれよりも下位の褒状にとどまった。《智感情》と《高山流水》、本当にどちらが上手かったのか。

明治41年の『読売新聞』によれば、吉田博の「名は『高山流水』と題する大風景畫によって疾く世に顕はれた」「高山流水の畫は大きなカンバスを其場に持出したので不意に風起り雨來る時の騒ぎは非常なものであつたと云ふ」と、書き留めている。記者に強い印象を残し、8年後も話題にするくらいの絵だったのだろう。

《雲叡深秋》と見ながら吉田博がどのように山岳画にのめりこんでいったのか、興味は尽きなかった。(2017-05-23)

(4)《宮島》の決定的瞬間

上田市立美術館の学芸員は明治36年頃の作品《霧の農家》を推していた。解説しながら、なんだかうれしそうな話しぶりだった。パンフレットでも使用されているから、この人の好みなのだろう。

朝の靄がかかったような空気感。朝日が昇ってやや橙色に染まりつつある。その瞬間を逃さずとらえた作品だという。たしかに素晴らしい。素晴らしいが、私の好みではない。こういう絵は誰かの作品に似たようなものがあったような気がする。ただあくまでの好みの話で、学芸員の解説そのものは的を得ていてとても分かりやすかった。

吉田博は20代から30代のとき、靄とか雲とか水面とか、輪郭があいまいで、一般の人が描くのが苦手なものに果敢に挑戦していた。同じような題材を、輪郭だけで描いたり輪郭なしで描いたり、自在に描くのが吉田博のすごいところだ。

《宮島》水彩、49.8×33.4

「生誕140年 吉田博展」が始まってからだったと思うが、WEB上で《宮島》という水彩画を絶賛している人がいた。私はノーマークだった。そんなにいい作品なのか。随分マニアックだなあ、どこがいいんだろう。図録の小さな写真をみてそう思っていたが、会場で実物を見てなるほどと思った。

これは写真家ブレッソンの決定的瞬間、あるいは土門拳の筑豊の子どもたちか。

たぶん厳島神社の反り橋だろう。反り橋ならもう少し横に回って、アーチ形を構図に取り入れたいと思うが、それは普通の発想である。吉田博は反り橋を正面からとらえている。それが決定的瞬間だからだ。

反り橋は勾配がきつくてなかなか渡れないようだ。手前の橋上に、後姿の子どもが2人。向こうの側の橋上にも子どもが3人にいて、上半身だけが見えている状態だ。つまり、反り橋の手前と向こう側で、子どもが登るのを競って遊んでいるのだ。

光は夕方か朝方の逆光で、擬宝珠の欄干の影が橋の床板の曲面に長く伸びている。

よく見ると橋の手前には、子供たちが脱いだ草履が6足。左右揃えられているものもあるが、脱ぎ捨てたのもある。手間の溝に隠れているのもある。

これはスナップ写真の撮影術に通じる絵だ。絵の中にドラマがあり、今にも声が聞こえてきそうである。

橋の美しい形を描きたかったわけではない。差し込む夕日の美しさを狙ったわけでもない。子どもが思わぬところで遊んでいた場面に遭遇し、その瞬間を描き止めたのである。吉田の眼の確かさには敬服してしまう。(2017-05-24)

(5)《精華》裸婦に違和感はない

吉田博といえば、やっぱり大作《精華》である。上田市立美術館の会場でもひときわ異彩を放っていた。展覧順路のほぼ中間、それまで風景画がほとんどだったのに、いきなり裸婦とライオンだ。しかもその大きさに圧倒される。

吉田博 《精華》明治42年 油彩 157.6×270  東京国立博物館蔵

解説の学芸員は、この絵の説明だけで10分余りを費やして最後に「すこし長くなりすぎました」と自嘲していた。話そのものは難しすぎず砕けすぎず、とても上手だった。

《精華》は進行方向の正面でなく左側のやや窪んだ位置にある。近づいてから不意にこの絵と対面することになる。周りを見回してもこの絵だけが格別大きい。惜しいことに、ガラスの内側で、ガラスの縦の継ぎ目が鑑賞の妨げとなっている。

《精華》(部分)モデルは芸妓・玉太郎(八木とめ子)

八清楼の芸妓玉太郎の顔をモデルにした女神。美しかった。吉田博が「実に立派です」と語った額から鼻にかけての曲線に目がいく。

《精華》は1995年か1996年に本格的な修復が行われている。きれいな画面は予期できていた。それでも予想以上に美しい。岩窟の上部から降りそそぐ柔らかな光に照らされた女神が自然に浮かび上がっている。

「技巧的に破綻はないが、全体として眺めると、どこかちぐはぐ。特に全裸の女性が浮いている」。毎日新聞の記者はそう評したけれども、違和感があるとは私には思えない。

吉田博は光を読むのがうまい。ライオンへの光の当り方と、女神への光の当たり方がよく計算されていて、女神の指先から胸にかけたあたりに光量が最も強くなるように描かれている。手前のライオンはやや暗く描かれ、寝ている奥のライオンにはやや強い光が差しこんでいる。

女神とライオンに見とれたあと、左上部に描かれた岩窟の黒い部分に目をやった。闇のなかに阿彌陀像でも描いているのではと思ったからだ。それは思い過ごしだった。

左下に署名「Hiroshi Yoshida」。その下にも文字があるが読めなかった。4文字か。漢字ではなさそうだし、平仮名でもカタカナでもない。いまはやりの暗号か。

気になって家に帰って、修復報告書のコピーを読み返したら、やはり「意味不明の文字」と書いてあった。もしこの文字に、吉田博の意図が込められているとしたら……。そう思うとまた《精華》の深みにはまっていくような気がした。(2017-05-25)

(6)眠っているライオンとは

《精華》の前で、上田市立美術館の学芸員はさらりと「裸体画論争」に言及した。吉田博の孫のかたの話と前置きして、3頭のライオンは警察と文部省と白馬会を暗示している、という見方を紹介した。

眠っているほうのライオンが黒田清輝の白馬会、と聞いて笑ってしまった。そうか、そうだったのか。これまでそこまで考えはめぐらなかったが、その通りだ。

以前に、「美の威厳」という見方について図録『生誕140年 吉田博展』の解説に異議を申し上げたが、威厳はどうみても女神のほうにある。ライオンに威厳はない。この絵の主題は明らかに「美と威厳」でなく「美の威厳」なのだ。

学芸員は最後に、吉田博はこの絵を書いたあと同じような絵を描かなかった、と話して、当時は不評だったという「定説」を紹介していた。

この絵を不評だったなどと誰が言い出したのだろう。当時不評だったのではなく、批評が憚れれるほど抑圧された状況にあっただけなのではないか。3頭のライオンは警察・文部省・白馬会です、と笑って話せる状況になかったのだ。《精華》については、当時の雑誌『スバル』の合評にこんな記述が残っている。「絵の内容に至っては僕のいふ限りでない。よくは知らないが美の威厳とか云ふのださうだ。困ったもんだネ、論外だ」。なんとも投げやりな言い方の裏に隠された心情を読むことはできないか。

「それ美術は国の精華なり」。明治22年の雑誌「国華」の創刊にあたって岡倉天心はそう述べた。《精華》はこのフレーズを抜きに語れない。この絵は、吉田が当時の美術界に対して発した自己主張ではないか。(2017-05-26)

(7)さまざまな裸婦画

吉田博はさまざまな裸婦画を残している。上田市立美術館の生誕140年展では、《精華》以外に2点の裸婦画が展示してあった。大正11年の油彩《裸婦》と昭和2年の木版《鏡之前》である。

左 《裸婦》1922年 油彩 80.3×60.6  右 《鏡之前》1927年 木版 51.3×35.5

《裸婦》は、毛皮の敷物に座り、視線を落とす半身の女性像である。これを見ていると、吉田博という人が分からなくなってくる。《精華》の理想像とあまりに落差が大きいからだ。残念ながらここには美の威厳は感じられない。《精華》から13年後になぜこの《裸婦》を描いたのか。

さらに落胆させられるのが《鏡之前》だ。これが本当に吉田博の作品なのか、と疑ってしまう。よく似た版画に《熱海温泉》というのもあるのだが、それは展示されていなかった。

左《熱海温泉》1927年 木版     右《こども》1927年 木版 51.4×36.5

そりゃ鑑賞者の好みです、そんなに落胆することはないですよ。これが風景画から人物画まで描く吉田博の画業の広さなんですよ。もし学芸員に尋ねたらきっとそういう答えが返ってくるだろうが、たぶん私は納得しない。

《鏡之前》の隣に《こども》があった。瞳の中心のぼかしを見ていると、確かにすごいなあと感心はするが、なぜか好きになれない。子どもなのにすこし緊張しているような顔つき。自分の子どもがモデルだというのに。

《こども》1927年 木版 (部分)

吉田博はよく分からない画家だ。(2017-05-27)

(8)《月見草と浴衣の女》と《湖畔》

上田市立美術館では、吉田博展の前期展と後期展で約50点の入れ替え展示をした。なんで一度に展示しないのか、もったいぶらないでほしい。スペースはあったのではないか。興行主が算段して決めることだからやむをえないけれども、わざわざ遠くから見に行く人は困ってしまう。

《月見草と浴衣の女》1907年頃 水彩 98.5×49.5

見たかった作品のひとつに《月見草と浴衣の女》がある。1週間遅らせれば後期展で見られたのだけれども、それだと《宮島》が見られない。図録で見直すしかなかった。

《月見草と浴衣の女》は、黒田清輝の《湖畔》とつい比べてしまう。浴衣姿で右手に団扇を持っている点は共通している。吉田博は明治40年ごろ(31歳ごろ)の作、98.5×48.5。黒田清輝は明治30年(31歳)の作、69.0×84.7。水彩と油彩、夜と昼、縦構図と横構図、根本的な違いはある。《湖畔》は翌年のパリ万博にも出品された。しかし、もしかしたら吉田博は意識していたのではないか。《湖畔》を10年間、覚えていて、浴衣の女性なら私はこう描くという意識があったのでないか。

美人画としてどちらが優っているか。黒田清輝ファンには申し訳ないけれども、吉田博が上だ。吉田博は光線の使い方がうまい。光線をつかって横顔を浮かび上がらせる。目線の方向や、肩の張り具合。特に左手に、力量の差が見られると思う。黒田清輝の《湖畔》は教科書に載って有名にはなったけれども、水面や山肌の描き方はそれほどうまいとは思えない。風景も人物も吉田博が上だ。(2017-05-28)

[追記]大下藤次郎「太平洋畫會の水彩畫」『みづゑ』第三十九(明治41年9月3日)には、「三〇二『月見艸』は大なる人物畫で、形に批難はないが月の光としては影の色が如何のものにや」という記述がある。《月見艸》と《月見草と浴衣の女》が同一だとすれば、明治41年の第6回太平洋画会展覧会(5月17日~6月14日・上野公園竹ノ臺陳列舘)に出品されたことになる。

(9)幻の絵画《千古の雪》を想像する

吉田博展の後半の見どころは版画である。版画ファンにはたまらない作品が並んでいる。ダイアナ妃に愛された《光る海》、ポスターに使用された《劔山の朝》あたりが有名だ。NHK日曜美術館で紹介していた大作の《朝日 富士拾景》と《溪流》は立ち止まってよくよく見た。《溪流》はこれに近い油彩《溪流》がある。印象に残ったのは木版《雲井櫻》だ。《雲井櫻》は明治32年頃の水彩とほぼ同じ構図。版画だからなあ、とタカをくくってのぞきこんだら、驚いた。その枝の線の細さ。手で書くよりも細いんじゃないか。

私の注目の版画は《立山別山》である。「日本アルプス十二題」の一つだが、一見して最も地味な構図だ。

明治42年の第3回文展で洋画部門2等賞(最高賞)となった《千古の雪》という油彩画がある。おそらく吉田博の作品で、国内の高山を初めて本格的にとらえた作品だ。吉田博が初めてアルピニズムに出会った記念碑的絵画であるかもしれない。しかし《千古の雪》は現在、所在不明の幻の絵画だ。

同じ幻の絵画でも《高山流水》とは違って、雑誌『美術画報』の写真でみることができるが、残念ながら白黒で精細ではない。浄土沢の雪渓が主題であり、立山室堂から煙が立ち昇っているところまではわかるのだが、あとはおぼろげである。なぜ2等賞と高評価を受けたのか、今一つ分からないのだ。

《千古の雪》明治42年 表題英訳《The Pristine Snow》
第3回文展 洋画2等賞(最高賞)、文部省買い上げ『美術画報』26号(巻12:臨時增刊)

《立山別山》は、この《千古の雪》とほぼ同じ構図で作られている。《立山別山》を見れば《千古の雪》がなぜ2等賞に選ばれたのかが分かるのではないか。そう思って《立山別山》を見た。

《立山別山》 日本アルプス十二題 大正15年 木版24.9×37.2

左上方、別山(2874m)の山腹が細密に表現されている。左上隅には積乱雲らしき雲が見えるが、これは《千古の雪》にはない。付け加えたものか。右側の真砂岳の尾根は比較的簡略に仕上げられている。《千古の雪》はもっと描き込まれている印象だ。さらに、手前のガレ場や偃松も、版画の場合はかなり省略されている。版画は24.9×37.1。おそらく《千古の雪》はこの倍以上の大きさの作品なのだろう。

《千古の雪》はおそらく、霧がかかった山腹を細かく描き、その濃淡によって奥行きを表現していたに違いない。図録『生誕140年 吉田博展』の年譜によると、大正11年4月パリで開かれたサロンに《千古の雪》を出品、とある。(2017-05-29)

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