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明治36年立山奉幣使同行取材記事

『富山日報』藤田久信記者(のちに県議・憲政本党幹事・西砺波郡五位、1866-1922)による立山奉幣使同行取材記事。知事は李家隆介(1866-1933)。当時の立山参拝をうかがうことができる重要記事。当時は室堂を室所といい、玉殿岩屋あたりで風呂を沸かしていた。帰路、立山温泉や真川の視察について記されており、これが立山砂防工事(県営)の端緒をなった旅であることが分かる。

登嶽前記(一) 矢乾

時は七月の廿三日、農家の大厄日といふべき土用三郎の當日、予は李家知事の一行に加はり立山行きの途に上る事となった

其翌々廿五日は越中ばかりでは無い日本中でも富士山に次での高山、海抜九千九百尺の立嶽絶頂に神止まります雄神々社の祭神多力雄尊及諸冊二尊の例祭といふのであるが此例祭に知事自ら奉幣使として登嶽したのは國重正文氏以来今回の李家知事が始めてゞある流石は青年知事の名あるだけに元気盛んなものである

立山と云へばいみじくも越中の地に臍の緒を切りし男子の必ず一度は踏むべき霊地であるのに機会が無かったとは言ふものゝ四十面下げて初の立山詣、果して其の任務を完ふする事が出来るや否や疑問の中の疑問であるしかし兎に角主筆の命令、是非果さなければならぬ次第であるから実は廿一日の午前に予が愈々此の任に当るべく定まってよりは多少の準備をもしたかったのである、然るに社の方は例の六十傑の投票募集而も締切期日になって居たので非常の繁忙、廿二日の如き全く筆を執る事も出来なんだやうな事である、こんな工合だから、同行すべき諸君とも何一ツ打ち合わせする事も出来ず困って居た、處へ高岡新報の清水古城君が来て井上紅花に代ったと云ふ咄し、夫れ幸ひどうか県庁で萬端の手筈を打合せて聞かせて呉れ玉へと云ったのが廿二日の午前中であった、處が清水君は打合わせをして午後から社を訪ひ下宿を訪ひ予の出先をも訪はれたさうだが行違って逢ふことが出来ぬ其の内廿二日の午後十時になった、マゝよ此方の思ふ通り遣付けベイと決心し不十分乍ら一と通り準備を整へたといふやうな始末である尤準備品及行程は予め県庁から知らして呉れたから大マゴツキも無かったのである

其の儘寝に就いたと思ふと例の寝坊、目を醒して見るとハヤ午前六時、コはしなしたりと直ちに旅装を整へ朝餉も早々に車夫を促し知事邸に駈附けたのが午前七時五分、知事邸に至て見れば既に田中参事官、松本五課長、荒井一課長を始め佐藤政論等一行の大体は揃って居る暫くして清水高岡新報が来たので全く揃った、が天候は余り宜く無い、前夜来の雨が尚降り続いて居る小山官房主事は今伏木測候所に向け天候を問合せたからと云ふ八時に至□□返電が無い、モウ出懸けやうと云ふ時李家知事は応接所に出て来て一行を呼んだ入って見ると鈴木書記官並川前警部長が来て居た、卓子の上にはビールが盛られてある、知事自ら各自に一杯宛を配り、先警部長の出立を送る事が出来ぬから告別の挨拶を為しお互の健議を祈るとて互に杯を傾け、一行は団体行動を執る事にせやうと発議し夫れに極めて出立したのは午前八時である一行は左の十二名であった。

李家隆介(知事)田中正太郎(参事官)荒井克一(一課長)松本於菟(五課長)小山綱太郎(官房主事)佐伯有胤(属)浅村榮(技手)石井謙治(以上県庁側) 佐藤青衿(政論)清水古城(高岡)藤田矢乾(日報)中林写真師(以上民間)

(廿三日午前十一時十分岩峅認)

※『富山日報』明治36年7月26日3面

登嶽前記(二) 矢乾

斯くて一行は腕車を急がせて出立したが、知事等は千石町の並川警部長宅に至り別離の情を述べ、一同が同行した、此の時から雨は愈降り頻り富山市を離れた頃は篠突く計りの大雨迚も立山に登る事は覚束なからうと思はれた、此の時予の大に感じたのは車夫である、予の車夫は幸に合羽を着て来たが他の多くは法被一枚ズブ濡れで尚ほ勢宜く車を挽く車上のものも人間、アゝ無惨是非とも人力車廃止を主張せねばならぬと思った、其の内上瀧を通り過ぎて彼の常願寺川の縁に出ると雨中に佇んで居る洋服に脚絆草鞋懸けの人々何人かと見れば石坂上新川郡長の一行である、今朝よりの出水に常西用水取入口に出張し必死と防禦して居るとの話実にお役目御苦労と云はざるを得ん、更に車を駈る事数分岩峅村佐伯有久氏方即ち一行の昼飯所に充てられてある家に着いた、此時午前十一時五分、茲處に先着して待合わせて居たのが

松山顧武(中新川郡長)西田友次郎(中新川郡書記)早見治清(五百石分署長)巡査一名

の四名で是れで一行十六人の大勢、夫れに芦峅村からの出迎等一行二十人となった、此處で昼飯を済し、扨是れからが愈よ徒歩と云ふのだから笠の用意茣蓙の準備各身軽の装束をした、所へ芦峅村からの迎の為乗馬五頭を寄越したといふので奉幣使の李家知事と田中参事官は先づ乗馬と決した、が、先づ乗馬と決した、跡は誰の望みものがと云ふので予にも勧められたが、先づ明日の足試めしに三里位ゐは徒歩した方が宜いと云ふので笠と茣蓙で辿る事にした、乗馬の連中も笠着て茣蓙着ての乗馬余り誉めた姿でもない、岩峅を出発したのが午後一時で半道斗り行くと雨も小降になり遂には全く晴上った是からは全く常願寺川の右岸に沿ふて川一つ彼方の右には上新川郡大山村を望みつゝ進むのである、處が夜来の降雨で水量を増したる常願寺の本湍激流、恰で泥土を流したらん如く滔々と音して押流さるゝ大石の打合ふ響物凄く幾度か歩を止めて富山県の名物を嘆ぜしめた、前面を見渡せば空に聳ゆる山々各所に布を晒したらん如き瀑布、壮観言はん方なく併も絶壁より落下する水は皆一滴の濁りも無い皆こんな工合なら決して砂石を流して川床を高くする憂が無いと行くこと数丁、川向ふの行手には一面の禿山、聞けば大山村大字小見村の石灰製造地である、蓋しこんな處に砂防工事が無いから甚しき土石を流し些との水にもドス黒い水を流し川床を高め県債を増す原因となるのだと語り乍ら行く中千垣村と云ふに着して馬隊の一行が同村青山チヨ方に小憩して居るに出逢った予等も同じく一休すると渋茶に葛団子の御馳走甘露々々と舌鼓を打ちつゝ午後二時三十分、モウ芦峅へは二十丁余と聞いて勇ましく行進を始めた三途川橋を通って是れから冥途の旅抔と悪洒落を云って午後三時十分と云ふに芦峅村に着した、李家知事以下は奉幣使御旅館と云ふ看板を出した佐伯有胤氏方に入り予と佐藤、清水の両氏とは佐伯十百作(立山村助役)氏方に松山中新川郡長は佐伯榮丸氏方、早見五百石署長は佐伯某方に旅装を解き一泊することゝなった。(午後八時十分芦峅村にて認む)

※『富山日報』明治36年7月27日3面

登嶽前記(三) 矢乾

旅宿と定められた佐伯十百作氏方に着して暫らく駄法螺を吹いて一喫して居ると、知事からの回章あり、伏木測候所から県庁に来た電報で『尚ほ降り続く模様十時に再報する』とあり困ったと云って居ると天候は段々快晴の模様マゝ日光を〓すやうになったので電報一向當てにならぬと云て居ると今度は『明朝四時に出発する雨天ならば更に衆議に謀る』と云ふ意味宜し出発々々と云ふ時松山郡長、松本、荒井、小山の諸氏来訪明日の天候を気支って分れたが暫くすると李家氏等は芦峅村の祈願處(岩峅村の前立社壇と並び称す)に参詣すると云ふので同行した拝殿に入ると金色燦爛たる立派の輿二台剱梅鉢の紋所あるので前田候の寄進と云ふ事が分る聞けば、嘉永年中の作で廿五の例祭には一輿には祭神の主神多力雄神、一輿には諾冊二尊を安置して村内百三十余戸を渡御するのであるさうな、其れから雄神神社の摂社と云ふが三社ある、一は立山開山佐伯有頼公自作の像と云ふを祠り一は諾冊二尊を佐伯有若左衛門公を祠り、一は多力雄神と佐伯家の祖先を祠ったとのことで奥の二社は維新後加賀藩と云ふ金庫が無い為め拝殿は朽腐して今は礎のみ跡を止めて居る、只驚くのは此の境内の廣きと其の立木の杉の立派な事で一丈以上の立山杉が数限り無く一大林を為して居て昼尚ほ暗く只何となく寂びて思はれる、佐伯有頼公の自作の像と云ふ祭神になって居るのは其の寛容にして堅忍不抜の気風自ら備はれるを畏く拝した、此の時幾種かの宝物を拝観した中有頼公□持った矢の根と云ふものもあった、此より先電報を見たかとの間未だしと云へば今更に電報が到達して『朝鮮近海より低気圧襲来降続く見込確かなり』との事一行各落胆したものゝ頭上は益快晴の色見えたので今は測候所の予報の誤らんことを願ふは是れ亦情ならん斯くて御宿晩餐を喫□此の稿をなぐりつけて寝就いたは午後九時廿分であった、今此の前記を終るに當り一寸書添えねばならぬのは此の芦峅村と云ふのは富山より七里の山奥モウ立山の麓の一番奥の村落でありながら戸数は百三十余家建立派にして人品野卑ならず実に以前の社僧時代を想像せしめる事である、今後尚ほ能く此の状態を保持する事を得るか否やは疑問である、地方活眼の士果たして能く前途に處する見込あるのであらうか、オッと夫處ではない果して明日登山し得るのであらうかどうか心もと無い次第である、此時雨の降る音を耳にす(廿三日午後九時芦峅にて認む)

※『富山日報』明治36年7月28日3面

登嶽の記(一) 矢乾

▲廿四日 芦峅より藤橋

〓紀抔と廻らぬ筆にツマらぬ事をのたくり廻す事は大概にして芦峅から送ったので止めて置くが茲に一寸補遺でも有るまいが岩峅から芦峅まで膝毛を遣った時の雨中馬隊の光景を想像すると今も噴飯に堪えぬのである、中にも李家君の洋服に茣蓙、中折帽に蝙蝠傘といふ出立、又田中君が頭起止めに大の真鍮鋲を打った陣笠やうの檜木笠に陣羽織とも見るべき茣蓙を着流がしたる處小山官房主事が例の駅夫抔の着て居る様な護謨引の合羽に檜木笠で馬に跨り意気揚々たる處など実に無い図であった、此日は奉幣使の参拝と云ふので此の奇異なる威容を見んと村民の来り集ふもの随分多かったが馬隊の跡から或は檜笠或は菅笠を冠ぶり茣蓙に洋服若くはシャツ一枚に股引脚絆などいふ予等の一隊がゾロゾロと歩いて行くのであるから見物に来た村民は何と感じたか定めて堂々たる威容に驚いたであらうと思ふ、斯くて芦峅に就いて泊ったが、予と佐藤政論、清水高岡の三名同宿し十百作氏夫人の御酌で思はず一杯を過ごし寝に就いたが天候が気支はれるのでどうもオチオチ寝られない、佐藤青衿子が宵の口から腹痛を催して暴潟すること二三回オマケに吐まで遣って、ウンウンを初めたといふ一件である医者と云っても此の村には居らぬと云ふ噺し、準備の清心丹や宝丹で気安めを遣って見たがどうも止まぬ、其の内十百作氏が種々信切に介抱して呉れて、熊丹が宜からうと夫れを飲ませると腹痛も吐潟も止んで睡に就いた様子予等二人も先づ安心して夢を結んだが気が立って居たのでか有名な睡坊も午前三時に目が醒めて終ったそこで古城子と予は蚊帳をすべり辷り出で旅装を整へ佐藤君は実に気の毒だが茲處まで来て登山出来ぬといふのは残念だらうと云って居ると蚊帳の中からナニ己れも行くのだ、モウスッカリ癒ったといひつゝ佐藤君は刎ね起きて来た、夫れは結構と云ふ内予も便通を催したので厠に上って見ると矢張腹が鳴って暴潟するされど茲處でグズグズは出来ぬ辛抱の出来る丈け辛抱すべしと決心した尤も跡から聞いて見ると一行十六人中下痢模様のないものは僅か二三人のみであった、是れは定めて何か食物が障ったのだらうと云ふ事であった、□□□□□云ふから洋燈□□□□□を平□佐藤青衿子は此の時も僅か半椀しか食はなんだ、主人の好意で贈られた一位の杖を貰ひ其の数に依って草鞋の履替とすべきもの一足を乳と乳を結合せて尻皮を當てたやうに何處でも腰懸ける時の敷物代とするやうに腰に結ひ付け三時五十分といふに宿所を出た奉幣使の宿所に行って見ると正四時の出発といふのに此處はまだ朝飯最中であった、此の時岩峅村の神職佐伯有久氏は一行と同行すべく既に来合せて居る、旅装は一行と同様の身軽なり、其の内玄関に腰懸けた儘で薄茶一杯馳走になり、中宮(案内兼荷物を担ぐものにて多く合力と称するもの)七名にて一行の荷物を取り揃ひ分担せしめた、予等の宿主十百作氏等が送って此處に来り種々の注意と便宜を與へられたのは特に茲處に謝意を表して置く。

「李家知事と田中参事官乗馬〓官先導の図」

午前五時一行の準備終り佐伯信忠氏を先導として班に残る星を戴いて登山の途に着いた、此日よりは李家知事も愈よ菅笠に茣蓙の扮装緬縮の洋服に脚胖草鞋は前日の如く、曾て富士登山の紀念なる富士山と烙印のある六角に削った檜の金剛杖県官連中は一同に青竹の杖一際目立つは図躰の大きい田中参事官と同業の清水高岡此の中に独り流石にお商売柄と思はせたのは早見五百石等の警官が官帽を戴くことゝ洋傘で台湾帽の浅村森林とであった斯くて行くこと里余此の間溪間山腹等に大豆、粟等の植付けられるを見たが水田は至極僅で聞けば芦峅百三十余戸の食料は其の三分一を支ふるに足らず他は皆他に仰ぐとのことである、行くと一里半(立山の里程は無論実測したものにあらず、ホンの予測であるから銘々に違ふので特に五十丁一里といふ奴があるから一向當てにならぬ、だから今後は一日の終りに彼地で称する所謂戦国時代其兵何万と号する的の行程を書きそ添ゆる丈けにして多くの場合は時間 書くことにするから其の時間で其の里数を想像して貰ふことにする)

「一行の膝栗毛と小山官房乗馬の図」

常願寺川の水源たる称名川に架しある藤橋と云ふに着いたのは午後六時四十分、此の藤橋と云ふのは例の吊り橋である、初めて出逢った先生の内には随分渡り悪くかった連中もあったやうだ、渡り終って向岸の河原で先づ一喫した、此の間に中林写真師は折角器械を取り出いて藤橋の景を撮影した、一行は悉く此の図中の人となれる積りで目を据へ息を呑み大に済まし込んで威儀を繕ったが跡から聞けば藤橋の景は人が多くては面白味が無いから人物は余り写らぬやうにしたとの事マンマと中林写真師に一抔喫はされたものは誰か写真が出来上ったら一行の笑種ができるだらう、小憩十五分にして『出発用意』の号令(前記に書いた通り十六名の一行は総て団体行動□取るのだから此の号令は李家君に依って号令されるのであるから以下はさう思って読んで貰ひたい)で一同は是れからが愈よ峻阪を攀るのである、此處で予の感じた一節を書き添へて置くが夫れは常願寺川の水源たる真川と称名川を合する處を見ると真川の方は非常の泥水で称名川の碧潭に比すれば実に一見して大違ひのあるといふ一事である、どうか今度は其の土砂崩壊の現状を見たいものであると思った(此の真川の泥水に就いては廿六日の行程中に予が見聞した一班を書く積りである)

※『富山日報』明治36年7月29日3面

登嶽の記(二) 矢乾

廿四日(つゞき) 藤橋より山毛欅峠

▲六根清浄 さて一番に来たのは小金坂で茲に始めて杖の必要を感じた、次は草生坂でモー是からは平生健脚自慢の先生方も喘ぎが激しくなって来た、一人がドッコイショとやると一同之は応じてドコッヨイショと遣る然るに或人がドコッイショではない六根清浄が本当だといふのでソリヤ面白いと言ふ事になり大笑を遣って夫れから登り坂に向ふと六根清浄と遣ったが遂には略してロクコンショと遣るようになった何時も此の音頭を取るのが浅村森林と西坂中新川であって坂になると六根清浄の懸声で勇ましく登った

▲佐藤氏と材木坂 其の内フト跡を見ると今迄一行の殿に居った佐藤青衿氏と早見分署長及び巡査の姿が見えぬこは変だ、佐藤君はどうしたらうと一行は暫く歩を止めると、軈て佐藤君はどうしても登れぬと云ふので山から戻って来た人夫を〓ふて負はれる事にしたとの咄し、夫なら一安心と云ふので又行を続けて今度は材木坂にかゝった種々の石材が積み重ねられてある、特にモウ其の絶頂と云ふ處には実に無数の角石材が累々と積み上げられてあるのは一奇観である

▲熊野権現堂の小憩と模範林 材木坂を登りて熊野権現堂と云ふ處で一喫した、芦峅から立山に登る途には一番から三十三番の観音を安置してあって此處にも何番かの観音が安置してあった互に汗を拭ふて巌石に腰を下すと中林写真師は早速小刀を取出して側の欅の目廻り一丈余と云ふに『明治三十六年七月富山県知事李家隆介一行登山』と彫刻するとオイ巌頭の感は御免蒙ると云ふあれば其の形は児島高徳の俤があるが蓑で無いのが不足よとヘラズ口を叩くもあった處へ早見五百石は巡査と共に駈付けて佐藤君は体の工合が悪いと云ふので人夫に負はせる事にしましたと長官に報告した、マア夫れで一先安心したが佐藤君一人ボッチでは予が危むとイヤ社司の栂野君は初めから負はれているので矢張跡だから大丈夫との事、立山の社司先生すら負はれて登ると云ふのだから身体の工合の悪い青衿子の負はれたるのは無論だと云ふ内浅村森林は川一ツ隔てた対岸の禿山を指さしあれば上新川郡大山村領の模範森林なりと案内するに李家氏先づ望遠鏡で凝視し予も望遠鏡拝借と出懸けたが、禿山に何か苗木やうなものが植って居たやうである

「禿杉(中林写真師撮影縮図)」

▲美女杉と禿杉 夫れから美女坂、断切坂を過ぎたが此の間は泥濘脛を没する計り定めて前日来の降雨の賜物であらう、実に面倒な賜ものあったものである、途中立木の多くは有名の立山杉の目廻り一二丈もあらんかと思はれるものも林立し、處々に一二丈程上って切った古株が澤山ある、是れは旧藩時代或る盗賊が雪中加賀公の御用木と称し伐出したものゝ古株であるげな、處が此の古木は皮は腐朽して眞のみが残って居るのであるから非常に立派な用材になるのである、されば林区署でも之れ払下げる事になったさうで中には立った儘で挽割て取ったのも澤山見受けた、其の木目の良い事、好者に見せたら振ひ付く程のものも多かった、夫れから龍宮に通じで居ると云ふ穴『シカリバリ』と云ふを過ぎて禿杉の前へ出た此の杉は目廻りは二丈もあらうか丈は僅々二間計り禿の様な形に枝か捌けてあって名に背むかぬ珍らしいものである、此處で小休して中林写真師が撮影にかゝった、根方には小山君、其の横には先導の佐伯信忠氏熊の手の革で製した煙草入を手にして写って居る、此熊の革に就いて面白い事がある、それは最初まだ名を聞かぬ内には李家君が此の嚮導先生を呼ぶにオイ熊の先生と言った事である、其の後は多くの場合熊の先生で通った、撮影終ってから此の熊先生禿杉の裂け目を示し雪の為に斯ふ裂けた時に二枚の小切れがあったからそれを取って一枚は某君に送ったが、一枚は知事に献上したいから額面にと云ふて居た

「山毛欅峠の茶屋」

▲山毛欅平の清水と山毛欅峠の美人 山毛欅の多いので名のあるのか山毛欅平と云ふのに小憩した、此處には行手の右に入る三十間程にして非常に良い清水がある、夫れに喉を濕して宿で分捕って来た乾餅を喫し辿り着いたのは山毛欅峠である時に午前十時七分此處には山毛欅の立木を柱にし板で屋根を葺いた小屋があって兵隊上りらしい亭主に只ものとは見えぬ廿四五の美人とが茶屋を初めて居る前日漸く来たとの事で鍋も釜も無いから口の附いた鉢で湯を沸して一行に飲ませやうとして居る、尤前雪も此の鉢で米を炊いたとの事、竹の柱に笹の屋根仮令野の末山の奥……と云ふのを実地に演じて見やうといふ理想家と見える聞けば此婦人は富山生れとの噺し但是は佐藤政論が跡で聞いて来たのである、一行は此處にて間食と極まって居るのだから、腰にした握り飯を取出してパリつくので中には荷物を解かせて葛捏きを遣って舌鼓を打つのもあり、四角な箱に入れた水を請ふて飲むもあり各自腹を肥やしてイザ出立と云ふ時佐藤政論が負はれて来た、マア機関車が付いて居るから大丈夫佐藤君萬歳ヤワヤワ遣って来玉へと其儘出発した。

※中林写真師は中林喜三郎(富山市荒町) ※『富山日報』明治36年8月30日3面

登嶽の記(三) 矢乾

廿四日(つゞき) 称名の瀧より弥陀ヶ原

▲稱名の瀧と雷雨 是からカリヤス坂を登るのであるが是れは有名な称名の瀧を見てから登るから軽り易く登ると云ふ意味だとは嚮導先生の講釈マア此處で一おうく遣らうと中林写真師折角撮影器を持出し断崖絶壁危険千万の岩角に器機を据えて撮影した、夫れからカリヤス坂を登ったが中々カリヤスくない六根清浄の声が頻りに起った、行々桑ヶ谷と云ふに下ると、今迄快晴なりし天遽に掻き曇り山の半腹に當って雷鳴する、それ雨がと云ふ内豆のやうな奴がポツリポツリ、雨具を中宮に預けた連中は遽に困る谷間の清水に渇を醫し暫く待合せて雨具に身を固め篠突く雨を冒して行進する其の困難今思ふも疎然とするのである、時に午前十一時二十分、さて是迄は谷間を渡る鶯の聲や、耳を劈く杜鵑の聲さては大木抔に心耳を慰めたか、モウ海抜五十尺もあらうかと云ふ處に来ては高山の本音を吹きかゝるので植物も趣を変し漸く偃松の一種及びカンバと云ふ木、名を知れぬ草抔を見るばかり、杉も漸く影を没し鶯も杜鵑も鳴かぬ處へ雨の道中と来ては誉めたもので無い、夫から前坂後坂を上り稱名伏拝原と云ふに出た頃は雨も漸く小降になり、雲霧も去って稱名の瀧は忽ち対岸の峻嶺より布を酒したらん如く落下するを見出された、其の絶景云はん方なきに加へて雨後の山色何とも云へぬのである、抜目なき中林氏はスグ撮影した。

「稱名ケ滝(中林寫眞師撮影縮図)」

▲ドン 時辰儀を検すると正に正午富山ならば午砲の鳴る頃と李家氏の発議で一二三の合図で衆口一斉ドンと遣る其の聲谿谺に響く蓋し雄山の神霊も此の勇壮なる一行に満足を表されたことであらう、是れも亦山行中の一興であった。

▲松本氏の斎戒沐浴 是より先の事であった六根清浄の出た時、松本五課が『一行の内尤も清浄なるものは我だらう我は出立の前夜鹽湯を以て身体を浄め斎戒沐浴して出立した』と言ったので一行中の悪口屋は直に君の斎戒沐浴したのは前宵だらうすると其の晩は又水盃で妻海沐浴したらう、デは清浄とは云はれぬと夫から談話は花が咲いて終には李家君までが斎戒先生どうしたと云ふやうになった

▲彌陀ケ原雨中の晝食 行くこと里余彌陀ケ原に出た、三里余もあると云ふと山上の平原、平原と云っても行手は爪先上りで此富山辺りから望むと前山と前山の間に平行して見えるのが夫れである、一行は此の平原の地蔵堂と云ふので晝飯をする事に極まって居る、否立山に登るものは大底さうする行程であるげな、此處は一方は佐渡を望む事が出来又一方は能登半島珠州の岬や加賀の河北潟をとも瞰下ろし其の先までも見える程で富山、神通川、馳越川、常願寺川、黒部川、早月川、庄川などは殆脚下に見へる處である、一同は〓近を指呼しつゝ岩間の清水に渇を凌ぎ握飯を噛った、此所には別に建物と云ふものも無かったが唯地蔵堂でもあったらしい、旧跡に古材の散點するを見た尤も本年を追って建築するのだとのこと植物と云って偃松の一種と種々の雑草、熊笹のみ、此處で人夫を待合せて鑵詰を開いた人もあったが小雨尚歇まず笠茣蓙其儘で雨中立すくみの晝食、一行の多くは髯武者迚も普通では見られぬ奇観であった、午食を終って地蔵堂を出発したのが午後二時、一刻も早く室所に着きたいとの一念で行手を急いだ。

「彌陀ケ原突貫の図」

▲彌陀ケ原の晝寝と突貫 一里程行く中雨は名残り無く霽上り一天清空日光は一行の前途を照して輝やいて居る前を望めば峨々たる峻嶺左手には大日山の雪の日光を映して居るのを見る又首を廻らせば北陸諸州の山川双眸の中に入て實に何とも言へぬ景色である、此時五分休憩の聲は先発の李家君の口を衝いて出た小高き丘に居を占め茣蓙を褥に一吹すれば嚮導先生川原のやうになって見える富山の市街を指し『神通川に股になって見えるのは馳越であらう、併も其の川幅が非常に広いのどうも変である』との話予は首をひねって『あれは井田川の合流する處に違ひない』と云へば直に望遠鏡の厄介になってオウ見える見えるアレは井田川だ、だが神通も余程増水して居ると見えて馳越にも水がある』との田中君の咄し、ヤア松本あれ見給へ君の妻君が立山の方面に向って手を合せて拝んで居るはと云ふは一行中の悪口屋、こんな事を云合って居る中、今迄雨に濡れた衣類も日光に出逢って追々乾くので實に気持が宜い、李家君、田中君、荒井君等は腹を日光に温める為め仰向になったが、暫くするとグーグーとの鼾聲立山の中央で白川夜舟でも有まいと云へば、松山君はモウ出発せやうでは無いかと一聲高いのに各目を醒し直に出発したが、雨後の芝生に茣蓙と例の草鞋の尻當てゞ休んだのだからかお互に尻の辺りはズブ濡れだ、特に睡った連中は肩の辺りまで濡らして居る、行手を望むと、小山氏と中林氏人夫は一里も向ふに休むで居る、何時の間にか先に出たのであらう、オウイオウイと熊谷直實擬の聲をかけて行く中、李家君は突貫せやうとの発議、宜しと一同ウワア……宙を飛ぶ元気忽ちにして先発隊と一集になった、是からいよいよ姨の懐の段。

※『富山日報』明治36年7月31日3面

登嶽の記(四) 矢

廿四日(つゞき) 姨ケ懐より室所

▲姨ケ懐 〓勢総て一行となり、時々時々オウと聲を合せて彌陀ケ原を過ぎ一の谷へは廻らぬことにして姨ケ懐に向ふた、両方ともカンバの木及笹の丈余なるが生ひ繁り晝尚暗き渓間を辿るのであって、今迄の雨に所々より落合った水と雪溶との水とは脛を没する計り、モウ今朝から歩行続けて疲労して居る上に此の陰気な道中堪まるものでは無い眉を顰めて一歩々々縫って行くと谷の真中に二間に九尺もあらうかと云ふ大石を見出した、近付いと見ると是れが所謂姨石と云ふ陰門石で真中には観音様が安置してある、一行は思はず噴き出し、女気の無い山中のことゝて暫くは此の咄で持切った、兎に角姨ケ懐とは誰が名付けたのであらうか、随分好者が命名したものと見える、〓を出てから谷間で一服してこれから前人の踵は後人の鼻に接する峻坂碁石坂を攀じ暫く行くと小松坂である更らに山又山谷又谷を越えて進んだが日が漸く没せんとする頃ともなったから、七時には是非室所迄と只一言もなく行手を急いだ

▲初めて雪を踏み鏡石の前に出づ 斯くて行く中冷気愈よ加はり山気肌に徹するやうになって来た、夫れも其の筈是よりしばしば雪を踏むのである初めて雪に出遭ったので直ぐ雪を取ってボリボリとやった警官は李家君の為にサーベルを以て雪を採った、砂糖がと云ふ聲に応じて誰かゞ砂糖を出して一同に分配した其内鏡石と云ふ處へ出た、成程鏡のやうに丸く平ったい直径二間もあらうと云ふ石がある、中林君撮影してはと云ったがモウ天気は悪し、肝腎の器械を持った人夫が居らぬので、五分間休憩して直ぐ出発した。

▲室所よりの迎 夫れから阪又阪を越えて稍平になった腰掛るのに都合よき處に着くと親子と覚しき人夫室所から迎に来て居た、嚮導先生飯を持って来たかと云ふに握飯を満載した飯櫃を出す、人頭大の握飯を予と荒井君と二人で半分宛を平げ其他も室所の飯を云ふに海抜九千尺以上で炊いた飯どんなものかとの好奇心で各幾千づゝを喫し、アゝ是で人心地が付いた室所へは何里かと問ふと一里と答へた、例の五十丁一里だらうさう思って行けば大丈夫と迎の人夫中一人は跡へ残こし一人は予等と同行せしめた、かくて一同出発したがやがて遙に室所の見えた時の嬉しさ……。

「室所より峯本社を望む(中林寫眞師撮影縮図)」

▲室所 と云ふは立山に登るものゝ必ず一泊する處で不断住人のあるで無く、山開きの日から番人が出来て参詣人に便宜を與ふるのである、又奉幣使参向の時も麓から登れぬ時は芦峅の祈願所、室所迄来て、本社迄登れぬ時は茲處で祭典を行ふのである、建物はニ棟を接続して東西に長く建てられてあって一棟は五間に五間、一棟は五間に六間の長屋で加賀藩の二代目前田利長公が建築されたもので其の後幾回か修繕を加へたものとのこと柱は尺二位ゐの角で壱間毎に建られ四方とも三尺に五六寸位ゐの木を差し非常に頑丈に造られ屋根は柿葺イヤ舒葺と云ふものであるが板は非常に厚い、こんな事にして置かねば迚も持てる筈のもので無い南に千仭の谿があって石垣が造られてある一行の茲處に安着したのは午後の七時五分、今朝五時芦峅を出発してから時を費やす十四時間強行程九里半とはどうしても眞ものとは思はれぬ、無論此の中には例の五十丁一里と云ふのが二三ケ所含まれて居るのである。

▲明朝が気支はし 此處に来て前面を望むと右手の前面には浄土山、左手に別山中央に立嶽雲霧深く垂れ罩めて絶頂は見ることが出来ぬ、只屏風を立たらん如き断崖絶壁草も木も無い石塊本社迄は一里八丁と云ふ、成程是れでは室所丈けで戻る連中のあると云ふのも無理の無い事と思った、それはさうと明朝の天気が気支はしい、麓で佐伯十百作に聞いたのでは靄が深くかゝりて行手の人が見えぬ位ゐの時は必ず翌日は天気と云ふ事であったのに今日は未だそんな事に會はぬ、コはどうだらうと云って居ると一行中の佐伯属は流石芦峅人立山通丈けに峯の雲霧の工合では明日は必ず天気案じる事は無いと云ふ、跡で栂野社司が来たから雄山の神に祈り玉へと云ふと社司は早速神籤を下して天気大丈夫といふ流石はお商売柄

▲室所に入る 一行は室所の南側の入口に向ふと一番に目に入ったのが『妄りに入るべからず止むを得ず入るものは火の用慎肝要』との札御尤千萬、此の建物が焼けては再建は些と覚束なからうと首肯き草鞋を解いて室所に入り一夜を茲處に明かすことになった。

※『富山日報』明治36年8月1日1面

登嶽の記(五) 矢乾

廿四日の夜 室所

▲一行の居所 草鞋を解いて足を洗ふに切れる程の冷たさ、漸く這はん許りにして室所に入ると奉幣使の一行の為には東部の一棟の半を割いて雄山神社の定紋鷹の羽違の紋打ったる幔幕を張り廻し裏付き縁取茣蓙を敷詰めてあったが一行の人数が多いので遂に一棟全体に幕を拡げる事になった尤も東の方二間は〓厨所に當てられ板囲いをしてあり入り口の一間は通路になってい居るから幔幕を張廻した一行の座所は三間に四間である、其の東の隅には六尺四方の〓囲炉裏があって李家、田中の二君が前面の正坐で暖を取って居る、其内おひおひ茲處に集って来て暖を取るあり、旅装を解くもあった、予も暫く〓囲炉裏で暖を取って一服したが、焚られた炭、薪共に空気の希薄な故か一向に焚えぬ只煙るのみで、ヤアこれやたまらぬ人間の燻肉が出来ると叫ぶあり、煙はいよいよ室中に充ち満ちて目も鼻も明かぬ、暫くすると非常に冷気を感ずるので早速、綿入衣と毛布を取出いて着たが、腹かと云ふので準備の麦麺や缶詰を開くもあった

▲室所の風呂 湯が沸いたからとの事に、李家君と田中君が相次いで浴し予も一浴を試みたが浴場は東北の岩窟に竈を設け厚一寸板で四角の浴槽を据え優に二人一同に入浴することが出来る、立山颪しが非常に寒いので莚を張って風除をし上も莚を〓ふてある、湯に入ると首を出す事も出来ぬ程の寒さ、是れが土用四郎の日驚かざるを得ぬでは無いか

「室堂にて一行入浴の図」

▲使ひ水 室所東手の浄土山続きの方向から谷川が積雪の下を潜って流れて来る其の谷川にはズツっと七五三縄が張れてあって何となく越中第一の霊場との感を深ふする、其の水の冷たさは又格別口を嗽ぎ顔を洗ふも全身に沁み渡る、迚も手拭など絞られたもので無い、此の水で只煙るのみの薪で風呂を沸す随分骨の折れた事であらう、此の谷川が瀧のやうになって南の谷へ落る岩角に小さな小屋が川を跨いで建られてある是が便所で折々黄金の瀧が出来るのである

▲佐藤政論と栂野社司 一行がお湯を済して到着より約一時間午後八時と云ふに表てから大超声に『藤田君々々居るか何處だ』との声慥に佐藤政論である『オウ着いたのか寒かったらう一ツ暖り玉へ』下界は土用の四郎で暑い暑いと云って居るのにこは又流石に海抜九千尺の高地である、元気はどうかと云へばモウスッカリ快癒明日からは大丈夫、一行各それは至極目出度いと相槌打つ、今迄噂さをしつゝ案じて居た李家君もマア安心したとの事、二三十分経つと栂野社司も安着したとの報らせ。

▲夕餉 日が暮れると蝋燭は點せられ、夕餉の準備が出来たとて膳を運ぶ、二人に折敷一枚是れも能くマア持って来たものである、勧めらるゝ儘に酒を飲んだが實に甘味い迚も富山辺りにない是れは空気の希薄な為水気が蒸発するからで、峯の本社で飲むと一層宜いとの咄、下物と云って皆麓から運ばれたのである、されば互に準備の下物を取出すもあった、暫くして立山名物薊汁をとのことに遣って見ると此の味噌汁中々美味薊と云っても非常に太ったものらしい、生来初めての馳走に預った

▲年越の蚤 佐伯属は神官や氏子総代等と共に始終斡旋の労を取りモウ就寝と云ふ時佐伯氏に依って毛布一枚宛を宛行はれた、李家君と田中君は爐の北側、佐藤政論は西側、小山君と中林君と東側、荒井一課、清水古城と予の三人は三人懐を遣らうと云ふので田中君の西側に毛布一枚を敷き一枚を折って枕とし三枚を着て寝たが疲労れて居るので宵の口はグッスリ寝込んだが〓〓目が醒るとどうも蚤が〓へて寝られぬ、予一人かと思ふと皆ムクムク動いて口説くこれや失策った、毛布で体を巻くが宜いと今度は〓合を解いて別々になって毛布で体を巻いたので稍蚤を防ぐことが出来たが至って小さい蚤で併も其の〓すことの激しさ〓嗤にならぬ、跡で聞けば年越の蚤だとの咄自今登山して室所に泊る人は注意するが宜い。

▲晨起 三時頃から目が醒めて巻煙草を吸って居ると、李家知事も目が醒めた様子蚤の事など咄して居る内おひおひに頭を擡げる内東がほのぼのと白んで天気の様子愈々登山が出来る事と勇気百倍直ぐ例の谷川で手水を使ひてそろそろ旅装の仕度にかゝる中朝餉を済まし、例の笠茣蓙に身を固め神官、氏子総代中宮と共に室所を出発したのは午前六時二十分であった。

※『富山日報』明治36年8月2日1面

登嶽の記(六) 矢乾

廿五日 本社の例祭

▲本社参向 此の日は李家知事が奉幣使として雄山神社に参向さるゝ事とて用意の禮服や幣物は人夫に擔はせ氏は外套に中折帽、脚絆、草鞋前日の如く田中参事官以下はフロックコートの上に笠茣蓙金剛杖の扮装、予等は別に用意無ければ前日の儘にて午前七時と云ふに室所を出發した、出ると直ぐ雪を踏む事半里余、最早雪も無ければ草木も無い、巌石累々たる峻阪にかゝった、同行の田中、清水両君、予は先ツ一服してから跡から来る一行を待ち受けて居ると登る途が異って、知事等は向ふの小丘やうの處に小憩して居られる、然らばヤワヤワ登らうといふて三人で一の越まで登った、此處に来た頃は他の人々は皆な後れて予等の一行三人のみとなった、見上ぐれば断崖屏風の如く、瞰下せば千刃の谿〓加ふるに霧が深くして咫尺も弁ぜず、先行の田中君時々オウオウと聲を懸け此方も之に應ぜるが暫くすると雲に隠れて更に姿が見えぬ予は此の〓戸の神に拝禮して二の越に向ひ突兀たる巌石の間を喘ぎ喘ぎ縫って登った此辺りの険峻は名状すべからずである三の越に登った頃は笠の裏にバリバリと音がして霧を吹き付け時々雨と思わせる位ゐ漸く辿り着いた時清水君は水筒を出して苦味チンキを加へて飲む予も一杯乞ふて喉を湿ほして居ると前日予等一行と前後して登って来た廣島県人と云ふ二人の禮者、共に金剛杖のチャリンチャリンと云ふ〓つき鳴らし、白衣に『一切衆生』『悉有佛性』『如来常住』『無有変易』抔とあったかどうだか異様の文字を書き丸に金の字を書いた札を頸に懸けて遣って来た、處が此の二人は日本国中の霊山霊場を廻る連中足は早く無いが中々頑健で何時の間にか我々二人を追ひ越した、マアユックリ登るまいかと吊り下げてある鎖に縋って登って行く中人の通った事の無いやうな處へ来た見上げると雲霧漸く薄らぎ微かに日光をも見る様になったので、五の越にある三角が見える彼を當てに登るべしと尚ほ勇を皷して三角に着いて見ると三角の西側は毀たれて木片が其處此處に散乱して居る、多分昨年の山仕舞後雷に打たれたものだらうとの事此處に来てオウと聲を懸けると絶頂本堂の椽側に腰凭けて居た田中君オウと答へた、二人は直ぐ本社に登った、田中君の本社に着いたのは七時四十分、例の二人の禮者が着いたのが七時五十分、予と清水君の着いたのが八時五分で兎に角一行中の先登第一が田中君、第二が清水高岡と予である、暫くして新潟県人と云ふのが五六名来た中に一人の女性も居た我々の巌角に隠れて嵐を防いで居る内李家知事の一行が着いた、この時八時廿五分である、斯くて一行五ノ越に集まり一服して居る内雲霧漸く〓〓拭ふ〓如き快晴となった、其時第一に目に入ったものは南面に断崖絶壁で是れは又予等が登って来た路とは大違の険阻茲處が即黒部川の水源になる處である、おひおひ晴れるに随って信越濃飛の山川が見えて来る左手には浅間山が噴火の光景手に取る如く指呼の間にあり、右手には富士山を望み得る筈であるが此日はそれが全く雲に遮られて見えなんだのは残念である、此時中林写真師が折角器械を取出して五ノ越から本社の社殿を撮影した、此の間各神職連は社殿の装飾をなし神饌を〓度して居た〓、やがてモウ宜しと云ふに、李家君は禮装に改め、神官諸氏亦禮装をなす一行は悉く草鞋を解いた、是れは本社に草鞋の儘を禁ずるとの事であるからである

「立山本社及一行撮影」(中林写真師撮影縮図)『富山日報』明治36年8月3日1面

祭典 一行用意を終ると五ノ越の絶頂に併列し先づ祓主進んで祓詞を奏し大麻行事あり次に奉幣使初め一同峯本社に進み洗水の式あり(此間峯社前にて越天楽を奏す)次に着座次に開扉(此間阿地米神楽)次に献供、次に属官(松本属)奉幣を神前の脇に置く、次に斎主奉幣を神前に奉る、次に斎主左の祝詞を奏す

祝 詞
天進里進里立都高支立山乃此乃大峯爾鎮座須縣社雄山神社乃大前爾社司栂野安輝謹美敬比恐美恐美母白久年毎乃例祭依利天皇乃大御詔乎以百是乃縣乃縣知事李家隆介〓大御使登天之大幣献良令米玉布故禮種々乃多米津物乎取添此神祭奉仕乎平久聞食天朝廷乃大御代乎常磐爾垣磐爾巌志足長乃大御代登奉護里坐志大百官人等乎母活志八桑林乃〓久令立榮玉比敷坐須此乃立山乃三峯八谷乃谷々與利佐久那多利爾〓禮出留川々乃水乃荒禮溢留事牙久和支水乃足水止田畑豊加爾受左天勢奥津御年乎八束垂穂爾實良令米三栗乃越乃國内乃人々乎始米遠支國郡與利此大峯乃宇都乃大前爾忝集化恩頼乎奉仰利奉拝禮留人々波言牟母更奈利天下万民乎愛美大神乃神姓乃随狂神乃為牟悪事乃男女我身爾寄利障留事〓久追避介坐天知良受悪支神爾誘波禮悪道爾階牟上為留輩乎忽知爾救比揚介明支正支道爾入良令米天生出留日本男子乃雄々志支猛支日本心乃豪胆久直支正支國民止〓左令米玉比世乃中乃人倫乃曇留事旡久月爾年爾日乃本乃此大御國乎令〓榮守里玉比大神乃大稜威守令輝伊豆乃霊乎幸比玉辺止奉仕爾依利洩禮落過津事乃有牟婆乎神直昆大直昆爾見直志聞直志坐天安久聞食世止恐美恐美奉〓言竟久止白須

次に奉幣使李家知事献玉串拝禮、次に斎主栂野安輝献玉串拝禮、次に属官一同拝禮、次に祭官坐禮、次に神楽、次に撤供、次に直會、次に閉扉、次に退出

▲直會の景況 祭典終って土器盃で神酒を戴く下物はするめを生で噛るのである、初めの中こそ行儀も作法もあったものなれ遂には一同の舞禮講海抜九千九百尺の絶頂で此の大酒宴下戸を上戸も甘露々々と舌鼓一行中の上戸田中君を始め李家、浅村、清水の諸氏各敢て大盃を辞せざる側だ、下戸の松山君は神酒徳利を持って斡旋して居る、神官諸氏又頻りと勧める、臍の緒切って初めてこんな愉快な酒を飲んだと云ふあり、笑ひ興ずる聲天にや届かん、聞く去る十六年國重知事奉幣使として登山の節は洗水桶を冠って五ノ越で踊った事があるげな、今度は流石に踊った連中も無かったが愉快は愉快に相違ないのである、軈て一般の参詣人にも神酒を戴かせた直會終って一行は積上げられてある本社の石垣の上下に居を占めて撮影した、但し神官も栂野社司始め各此の図中の人となった

▲峯本社と開山の由来 立山の略縁起として社務所より配付するもの其の他各地にて散見せしもの多ければ事の序に其の大畧を記して置く
人皇四十二代文武天皇大宝元年辛丑二月佐伯有頼卿越の郡主として文武天皇の勅を蒙る峯本宮、中宮(芦峅寺中宮寺云々と云ふ事縁起に見ゆ蓋し合力を中宮と称する之に濫觴せしものか)初宮を造営す佐伯は景行天皇第四王子稲脊入彦命の苗裔止四位大納言佐伯有若左衛門有基越の中国に上り布施院犬山城に居り同四年礪波郡三歩市城に隠居すと是より先嫡男有頼卿(後入道して慈興と云ふ)白鷹を放て野に猟して空中に飛翔するを追ふて立山峯に至り霊夢を蒙り 天皇に奏聞し 勅願宮として建立せりと蓋し有若、有頼二卿の山を開きし際は社殿建設なかりしと云ふもの實なる如し其の後文治元平大内冠者〓義 総追捕使源頼朝公の命に依って社殿を建立す、今現在する處の峯社殿は屡修繕を加へたりと雖も扉の如き尚ほ頼朝公時代の者ならんと云ふ、一説には天正四年四月中地山城主河上兵蔵忠勝と越後刺史長尾謙信合戦の節或は養和年中木曽義仲當國發向の時兵火に罹りたりとも傳ふ、其の後

明応三年十月足利将軍社殿修繕神領寄附天正年間佐々成政、慶長七年前田利長社殿修繕其の後加賀藩に於いて歴代崇敬浅からず其の寄進になれるもの多し、されば現今岩峅及び芦峅にて佐伯を姓とするものは有頼公が入道の時近習侍にて廿四人〓芦峅に廿四人は岩峅にて出家し岩峅初宮寺、芦峅中宮寺と称したりしが維新前迄は六十二坊の社僧東西に別れて〓仕し随って立山権現と称せしが明治三年三月神仏混淆と禁せられてより雄山神社を復称し神職を置くに至る

佐伯氏の嫡流は現に県参事會員たる佐伯有台氏の家にて氏の蔵する家譜に依れば四條大納言有若越中の國司となってより有頼入道慈興嫡男有頼片貝布施の郷を領し嘉暦年中片貝川の奥敷千丈山抜けの際卿村原野となり命を免れて萩の天神山に退き遂に吉野の里に移り松倉の城主椎名滅亡以来所領を失ひ佐々成政に至り領地を得て佐伯新左衛門と名乗り今の斎木村(往古佐伯に作る)に居る子孫連綿今の有台氏に至って四十九代なりと云ふ、蓋し本縣に於ける旧族なるべし、今立山紀行を綴るに際し立山開山の後を明にせん為め序ながら茲に記す

▲祭式の終了と帰途 峯本社にて祭式の始まりしは午前九時十五分にて九時三十分終了、十時廿五分帰途に就いた、此間佐藤政論、清水高岡及予等は五の越南側の岩間にある草や木を掘って持って来たが今尚ほ生々して居る、かくて愈よ下り阪に向ふと又格別登りから見ると早い、されど足は幾分か弱って居るのに岩角を飛下るのだから又一通りの困難で無い、此の時から神官の佐伯有久氏、同貢氏等が一行を嚮導し夫々説明をもして呉れたので意外に便利を得た事もあった

※『富山日報』明治36年8月3日3面

登嶽の記(七) 矢乾

廿五日(つづき) 帰途、地獄谷から彌陀ヶ原

▲氷辷り 帰途一ノ越を過ぎると佐伯有久氏は佐々成政のザラザラ越と云ふ所が二ケ所あって一は直ぐ向ふで下りには却って都合が宜いとの事なに其處に行くと成程砂地で石片のみだから余程楽な、これを下ると直ぐ雪があって一面波状を為して居る其の傾斜の工合恰度氷辷りに宜い田中君と予が直ぐ茣蓙を敷きて辷り落る一行もこれに倣った 西坂君が中途で辷り止って居ると松山君が辷りて来て折重って辷り落だなと随分奇観であった斯くて次の阪も又氷辷りを遣り、地獄谷を廻るには此處から□近道と云ふ處には余程急斜面で幾十丈の谷間に下る處がある、地獄への近道余り碌でないがと云へつゝ氷辷りの愉快と代へ難く又辷り下りた小山君が護謨合羽の儘辷ってこれを破り予が途中に突出して居る巌石に衝突しやうとして足で蹴った為めに体□横になって其儘辷り落た抔は一の滑稽戯である、暫くするとミドリが池と云ふ右手に見賽の河原と云ふを通り積重ねられていある石を見てミクリが池と云ふ深サ幾十尋とも知れぬ碧水潭々たる谷間の池の横に出た

氷辷りの図『富山日報』明治36年8月4日1面

▲地獄谷廻り ミクリが池には主があって若し石でも投げ込むものがあれば直ぐに降って来ると言ひ伝ふとは佐伯貢氏の講釈 厚さ三四尺もあらうかと云ふ残んの雪が筏になって浮かんで居る、周囲には残雪がまだまだ澤山ある、茲處で地獄谷に行くと硫黄気が甚だしい為に黒の上衣や銀の類に変色の恐れがあるとの事に、フロックコートの上衣を脱ぐもあり、銀側時計を幾重かで包むもあった 地獄谷と云ふのは一面に噴火して居て彼地にも此地にも湯玉が沸え上りカチカチコチコチゴウゴウグチャグチャと云って居る 硫黄は此の谷一面で其臭気鼻を掩ふも及ばぬ、試みに流れ出で居る口に足を浸すと中々温い、其の湯玉の上って居る處は指も入れられぬ熱さ 暫く佇立して居ると足に熱さを覚える處が多い、杖を以て土中を刺すと其の口から直ぐ煙りが上って湯が沸き出るこんな處が芦峅辺りにあったら本当に金が沸き出るのだとは一行の評 此處には皆名があって鍛冶屋地獄と云ふのか一番強烈なやうだ下は小丘のやうな形になり煙を噴き出して居る、此處に上って見ると又頻りに噴火して湯が沸き上る處があって周囲は一面に硫黄だ傍に槌が棄てある 何の為かと云へば金沢人とかゞ来て此の硫黄を採るのだとのこと、其の他紺屋地獄、団子屋地獄、百姓地獄等種々の名があるとのこと、我々が此處を廻って居る内も、中林氏は頻りと写真機械を肩に彼地此地を撮影して居る一行が煙りの中に佇立して居る處も慥かに撮影された筈である。

地獄谷の図『富山日報』明治36年8月4日1面

▲雷鳥 一行が地獄谷を廻って室所に戻らうとすると坂の上に雷鳥俗に寒子鳥の雌が雛を連れて遊んで居る、立山では此の雷鳥を捕るのを禁じてあるとの事で敢て人を恐れぬ特に雛を連れて居るから子の可愛さは禽鳥も同様と見えて一行が近附くも遠く立去ることをせぬ、田中君はドレ撲殺しやうと一行に先立って之を追ひ最も近いて手にせる杖で撲ったが、鳥には當たらず、杖が二ツに折れて田中君は岩の上に辷った、余程命冥加な奴であったと見える、其の内浅村君は其の雛の一羽を手捕りにして一行に見せる、恰も鶏の雛例のバフコーチンと云ふ鶏の雛に違はぬ、嚮導先生、貢君口を揃えて其の儘放してとの事に無論と其處に放すと親鳥は直に舞ひ下った。

▲室所の昼食 地獄谷を廻って室所に急ぐと今一息と云ふ處で遂に雨が降り出いた室所に待合せて居た中宮は笠の用意無い人の為に蓑笠を持って迎ひに来た、アヽ午後から又雨の道中かとの嘆聲は誰れ云ふと無く一行の口より出た、斯くて室所に着いたのは午後一時三十分腹が減って動けぬと云ふ連中も多かった。

▲室所出発 一行室所に着し午餐を終り旅装を整ひ例の扮装で室所を跡に篠突く雨を冒して出発したのは午後二時三十五分神職佐伯貢氏一行を上瀧迄送るべく同行した今度は登りとは違って多くは爪下りであるから自然道も早いだから休憩も少ない、サレど下り坂の行路難又一通りで無い、登り坂の六根清浄の懸聲は今度は巌角を飛ぶ毎にヨイショヨイショとの聲に変した先つ鏡石の前で一服して夫れから小松坂碁石坂姥ケ懐の険一息に彌陀ケ原に出たのは午後五時であった。

※『富山日報』明治36年8月4日3面

登嶽の記(九) 矢乾

廿五日(つづき) 廿六日朝 温泉

▲立山温泉 此の鉱泉は游離硫化水素瓦斯含有水にして無臭、無色、透明、稍甘味を帯び摂氏百度の温を有し諸病に効験あり、浴槽は湯川の両側に設けられ客室は長屋建四棟、本屋壱棟、別に離れて一棟の浴客室あり、例に依って薬師如来を祀れるもの一棟あり、毎年六月五日に開湯し、十一月三日に閉湯すと、目下の浴客は百名内外なりとの事であった。

「立山温泉浴槽を望む図(中林写真師撮影縮図)」

▲湯壺へ突貫 立山温泉主杉田八郎右衛門氏は一行の為に特に斡旋し、準備したものと見えて其の歓待至らざる無く特に新畳を敷きたらんと思はれる座敷三流即ち六間を一行の座所として一番上の口の間には熊の皮を敷いて李家氏を歓迎し、次は田中君、松山君、予等三人の為めに座所を設ける抔至れり尽くせりである、旅装を解いて小憩する間もなく李家、田中の両君は湯に行くとのこと松本、荒井、松山、予等も続いて湯に行く、行って見ると湯が熱くて入浴出来ぬとの咄、流石に強情の田中君顔を〓しかめて入って居る、李家君は垢を流させて居る、予等が行くと熱いとの咄、さらばと試みたがどうも熱い、今新湯を充たせたのだからとのこと、川一ツ彼方より管で取ったのが此熱さ余程熱いものであらう、田中君も辛抱が出来ぬとて上る、其處で裸体の六人、浴槽の上り框に〓〓んで居たが寒いからたまらない李家君の発議で一同突貫との咄し、それ宜しからうと李家君の号令一二三で浴槽中へ大突貫 余程の奇談デアル、彌陀ケ原の突貫と照応して二大突貫と云っても宜からう。

「浴槽へ突貫の図」

▲異論紛々 斯くて一行各浴を終り、杉田氏が特に心を用ひし夕餉の饗膳、岩魚の焼きもの、刺身に舌鼓を打ち思はず数杯を過ごした、此の間も雨はますます小やみなく降る明日は到底出発六ケしからうイヤ出来る、なんでも予定の行程を遅らかすべからず、イヤ道が危険だなどとの聲大に起り容易に決すべくも無い其の内田中参事官と佐藤政論とが囲碁を始めた足は疲ても手と口は矢張元気なものである。

▲愈よ出発に決す 新庄警察署の福山巡査部長此日此地に出迎たが若し此の儘雨降り続く時は迚も途は危険で通る事が出来ぬ、是よりの途は多く常願寺川の岸なる絶所を縫ふて通るのであるが、若し山抜けでもあるか、さなくとも始終岩の崩れて居る處は雨の為め何時山抜けをするかも知れぬ特に谷川や常願寺川原を歩行する處は水量増加の為め迚も通れぬとの事、早見五百石署長はこれを聞いて長官に出発延期を申出る、特に今一つの困難は真川に架けられてある、吊橋が二三日前の出水に流失して目下工事中との事、此頃より晝夜兼行で工事を急いで居るが二十六日にはまだどうかしらん、午後で無ければ渡橋六ケしからん若し橋を渡れんとすれば是非とも籠の渡しである、此の籠の渡と云ふは一人宛籠に乗って通るのだから一人十分間はかゝるとの事多少の〓直があるとして一人五分間と見ても一行の人員三十人とすれば百五十分間を要する訳だから到底今日の行程を終る事は出来ぬ、とすれば先づ此地に滞留するに如かじと論ずるものも多かった、中、早や晝の疲れに白川夜舟の高鼾き、フト目が覚めて見ると午前三時過ぎ起きてモヂモヂして居ると、松山君と浅村君が目を覚まして互に小言で語らいながら、困ったまだ雨が止まぬようだナーと巻煙草を燻らしマア湯に行って来るべしと三人は暗を冒して湯に入りアヽ宜い心地と戻って床に入ると、李家君が頭を擡げて、荒井君を呼び頻りと今日の天候を氣支ひ行程を相談して居る、夫れ是れする内一同が眼を覚まして又々滞留論が始まる其の間に李家君湯に入って戻り昨日上瀧から来たと云ふ人に聞くと邪魔なし、出発せやうと云ふ其の内雨も稍小降りになる一行を送て来た神職佐伯貢氏が出て来て只今雄山の神に祈り御籤を抽いた處晴天請合である、處へ杉田温泉主から夜前より人夫を督励し一睡もせず工事を急いだ結果橋が竣工したとの報らせ、では愈よ出発、若し途中でどうしても進めぬと云ふなら其時戻る事にしやうと李家君は滞留論者を慰め出発することゝなり、朝餉も早々に立山温泉を出発したのは午前八時五分杉田八郎右衛門氏は一行を吊橋迄送るべく同行した、途中左右の山々を望めば何れも突〓なる巌石、皆崩れかゝってる 常願寺 川の土砂流出し、年々川床を高め、水害を蒙る當然の事である、此の土砂〓止を遣らねば到底治水の實を挙げる事は出来まい。

※『富山日報』明治36年8月6日1面

登嶽の記(十) 矢乾

廿六日(つづき) 温泉より吊橋=常願寺川の水源

▲温泉より吊橋 午前八時五分杉田氏に送られ立山温泉を出発した、一行の扮装前日の如く佐伯貢氏同信忠氏は尚ほ一行を送りて同行し福山新庄警察署巡査部長及大山村駐在巡査と共に嚮導するのである 早見五百石署長 松山郡長は此處まで来ればモウ管外でお役目は終ったと語る斯くて一行は水源抔の噺しをしつゝ進行する内貢君が神籤の通り愈晴上って快晴になって来た、途の両側は藪の如き虎杖 苧獨活 林を為して居る一行中には虎杖を取って二本杖になった連中もあった 松山中新川は前日来二本杖で余程助かったとの事に然らば我もと云ふ連中もあったらしい、斯くて九十九曲坂に来て例のヨイショヨイショが始まって間も無く真川に架けられた吊橋に来た、来て見ると今全体の板を渡した斗りとの處 前夜来の人夫は尚ほ工事を急いで居る、一行は橋まで来て其の袂に一服した蓋し水源の土砂崩壊等の現状をも視察する為めである、時に午前十時李家君は折角彼地此地を廻って種々視察したが少し下手の右岸なる尤も土砂の沢山崩れて居る一段小高き巌石の上に立ち左顧右眄予等を麾き川の中心が時に依って此の辺に変するのだとのこと どうだ 土砂杆止も面倒だ一ツ紀念の為我々一行此處に立ち土砂崩壊の有様と共に撮影をせやうとの事 中林氏は知事の命に依り先程から坂の中央に居て頻りと兀山を撮影して居たが又更に一行を撮影し 吊橋も前夜撮影したのは知事が人夫と共に撮影した特に人夫と撮影したのは知事が人夫の労を慰する一方案として命ぜられたのである

▲常願寺川の水源 安政年間の地震に山崩れを為し今日に至るも年々崩壊しつゝある、大鳶、小鳶の両岳は誰も知る、湯川の水源である、獨り此の大鳶小鳶のみならず湯川の過ぐる處は両側の兀山皆土砂を流出するのである、温泉場より下流一層甚しく崩壊して居る、温泉より九十九曲阪に至る間第一に渡る泥川實に名の通り水は墨を流したらん如く土砂を含み、次に渡る出枝原川又朱を流したらん計りの土砂、其他大小の渓流悉く赤岩を混して居る是れ等は皆湯川に合するもの九十九曲を過ぎて柳原を字する真川の吊橋に来て見上げると左右の山又山悉く崩壊の跡を顕し其の右手にある山の如き最早大半を崩壊しつくす盡して山の骨を顕はし、尚ほますます崩壊せやうとして居る、此の真川は承知の如く飛騨から流れて来る常願寺川真の水源で、常願寺川の水源中尤も深いものである、此の吊橋の辺は水赤濁りになって居るには相違ないがまだ左程でも無い、併し是から下流でいよいよ土砂を含むのである、湯川が、真川に合流してからは實に水が流れると云はんよりは寧ろ土砂が山を為して流出するかの観があり、吊橋に来た時李家君予等を呼んでどうだ此の水源の有様是れではどうも富山県の治水難思ひ遣られる、土砂〓止も中々面倒な事業と嘆じたのは無理も無い實に予等も同感であった、一行中の誰やらが、實に徳久知事の云った通り水は流れるに任せて置くか宜いかも知れぬと歎じたのもあった位ゐ、兎に角我々素人では解らぬが水を治めるには先つ此の土砂〓止の方法を確立し、水源林地の養成今日の最も急務である、局に當る人は一日も早く此處に留意し相當の方法を講すべし然ざれば富山県は遂に身代限りの厄を免れる事が出来ぬ 頃日京地各新聞に散見した富山県身代限りとの記事〓を為さる〓するは県当局者及び県民の一日も忽にすべからざる處である。

▲川原の晝飯 斯くて小憩の後前後して吊橋を越え真川の左岸に渡るのである 見上ぐれば屏風の如き赫山 脚下には矢を射る湍流石の流れて衝突する音凄まじ 一行は此處より原村に至る間其の赫山の中腹なる径路を辿るのである一足を踏辷らば直に命の瀬戸際万事休すべき切所、息を殺し岩に縋って通る護良親王の熊野落も斯くやと思ふ計り實に胆を冷やせるのである、斯くて十一時廿五分常願寺川原に出て川中の大石に腰を下し用意の握飯を喫り岩間の清水に渇を醫し例に依ってドンを遣って出発した。

※『富山日報』明治36年8月7日1面(2013/06/02 09:40)

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