【資料】大井冷光「横から見た立山」「立山と画伯」1910年


山水帳「横から見た立山」

◎今日は立山のお祭日、海抜九千九百尺の霧の上から神楽の洩れる日である去年の今頃は室堂の隅で綿入を着込んで眼をパチクって居たが、今年は編輯局裏九十度以上の汗を絞って恁んなものを書かされる。どれ寝轉んで失敬しやうか。

◎芦峅寺村から約二里の山坂、黄金坂、草生坂、材木坂など云ふ岩梯子を攀ぢると山毛欅坂と云ふ處に来る、高さ二十間餘の老幹がシットリと梢間から苔の香を送って、浅緑の葉に陽光を透して居る、その木陰に茣蓙を敷いて憩ふ時頬白の聲鶯の声、それから一層深山らしき感興を惹く杣虫の音…如何にも無愛想な熱の無い、呑気なあの音は今に忘れられない。

◎岩梅、岩桃、つがざくら、ちんぐるま、車百合にはとうやくりんどう、杉風の所謂『名は知らず草毎に花あはれなり』だ、そのあはれにも清く鮮やかにしほらしき高山花の褥に仰臥して、眼前を横る雲煙の去来を眺めつゝ神を思ふ、何時かまどろんだあの時の夢は今も忘れられない。

◎紺屋地獄、百姓地獄、さては畜生地獄、無間地獄などと地獄の数も容易でないがこの地獄から流れ出る硫黄臭きいさゝ小川、その程好き處を見計らって即席の西洋風呂とした、硫黄床の枕は少々堅いがピッタリ五体を浸し乍ら劔嶽の岫に引っ掛った弦月の淡きを眺めて低唱微吟も宜しい。

◎雄山の男性的なるに對して浄土山は飽迄女性的だ、女性的の浄土山の上に五色原と云ふ花園がある、百花妍を争ふ木陰からヒーヒーと幽かな聲を立てゝ雛を連れた雷鳥が出る、ソッと金剛杖を出せばその尖端に来て止まりもしさうだ、此處を日の出頃なら、或は夕陽頃なら御来迎の七彩に浴する今も稀ではなかった、オヽ昨年の七月二十七日、この日に記者は二度も見せられた、忘れられない

◎立山を南へ三里を越して、針木峠の麓を流れる黒部の上流、標高六千尺上のせゝらぎ、岩魚釣りが倦んで笹舟でも艀べたく思ったあの時の感じが忘れられない(冷)

※『富山日報』明治43年7月25日1面

山水帳「立山と画伯」

△去年の今頃、立山室堂住みの僕は毎日日中の日課は、同宿の画伯吉田博氏が浄土山の裾で、室堂を中心とした寫生、例の『千古の雪』の製作中の傍で高山花の褥に寝轉び乍ら、談對手となるのであった。

△稍黄ばんだ絹傘草の繁味、大走小走の雪融の邊から赤禿げた別山続き、殊に大汝の突き出た裾の堰松の黒ずんだ緑がひどく画伯の気に入ったが、さて刷の搬びはなかなかはかどらない。

△称名ケ滝の邊から午後一時頃お定りにやって来る捲雲、それが賽の磧の上からポッと別山の肩に這へ上る。その軽さその気持ちよさ、画伯はあの動く雲を描く迄には是非澄み切った別山を描いて仕舞った上でなければならぬと云ふのだ。

△處が澄み切った山は實に珍らしい。カンバスに對って一刷ニ刷、もう三刷目に眼を上げる頃には、何時か綿の様な奴が容赦もなく冠さって居る。

△その晴れる隙こそ、乃公が談對手となる時であった。書生肌の、山法師気質の画伯にもタッタ一度こんな気焔があった。それもやはり邪魔雲の通る暇に……。

△立山へ登る人は雲が多い程不幸に思ふ。富士が見え、浅間、鎗ケ岳、白山と四界の展望の出来る時のみ幸福と思って登って来る。観光客にはそれが成程幸福に相違ない。

△だが美術家だけはそんなあはれな者と違って居る。英國のホヰッスラー画伯が恁ふ云ふのだ。夕暮の霧が面布のやうにテームス河畔を被ふて憐れな建物は悉く掻き消され、高い煙突が宛らウエニスのキャムバニリー塔の如く姿を代へる時何人も家路に急ぐ、労働者も学者も、智者も、賢者も、遊び人も、悉く自然を見るの眼をとぢて了ふ。

△實にこの時こそ自然は面白く歌ふ。それが唯美術家の為に計り歌って呉れるのだ。美術家は自然の息子だ、而して又自然の先生だ。何故か、息子は自然をよく可愛がる。先生は自然をよく知悉する。どうだ君、美術家は偉いだらうって(冷光)

※『富山日報』明治43年8月18日1面

【解説】大井冷光が、明治42年夏の立山の取材を振り返った回想記2編。「立山と画伯」では、寝食を共にした洋画家吉田博について記している。冷光は、吉田のスケッチに付き合い、天気待ちの間に話し相手になった。ホイッスラー(米国人、1834-1903)が出てくるあたりに、2人の間で交わされた会話が単なる世間話でなかったことがうかがわれる。「書生肌」「山法師気質」という人物評が興味深い。「山水帳」は、記者が持ち回りで担当した夏限定のコラム。冷光が担当したのは「横から観た立山」「子供島子供船」「嵐山の一夜」「朝の嵐山」「立山と画伯」「立秋の厳島」「栗林公園」の7編。

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