【資料】明治末期の中越文士・俳人人物記事『高岡新報』『北陸タイムス』明治43年


予の想像せる中越文士
          影法師


石割浩村 いつか蘆原有明が轉んで雪へ面形をおしたとき、北原白秋か悪戯に其上ヘマタ面形をおしたのにソツクリな顔の人で、常に観察の鋭い詩人の眼鏡をかけて歩く人だ。
池内夜羽根 正面から見ると立派な兵隊さんで、背後から見るとドウしても詩人とよりは見へず、右から見ると締りの無い滑稽家らしい顔で、左から見ると嚊にさへ兒を生し得ぬ程眞面目な顔の人。
小竹九米 キツト小波式の髯を何処かに生して居て、粂平内と久米仙人を等分したやうな顔で、決して五箇山で生捕った猿らしくない人。
大嶋絲柳 大人しい時は、眞山青果が活動写眞の婦人席へ藻繰込んで嬉しがる時のやうな顔で、怒った時は、川上眉山が今息を引取ると云ふ時のやうな顔。
吉岡介宇 近頃高田病院へ入院した患者で、病院から呉れる薬の独歩丸は喜んで呑むが、花袋散は一寸甜めて苦い顔をして捨てゝ仕舞ひ、ドクターに内證で藤村水を呑んで喜んで居ると云つたやうな顔。
高田浩雲 一寸坪内逍遥に似た顔で、健脳丸の大嫌ひな眼の馬鹿に大きい人だと思ふ。それで書斎に黒頭巾で巻いた鉢に藤村の藤を植え、鏡花の花を咲かせて眺めるのが好きだらうと思ふ。
根塚如風 お姫様がクシヤミをしたくなつたが、殿方ばかりの中へ座つて居たので、一寸戸迷ふたと云ふやうな顔の人。
舟木香洲 まるで銀のやうな髯が渦巻いて生へてるお翁さんで、朝か宵か知らぬが、兎に角明星か、昼日中ウツカリ飛び出したと云ふやうな顔の人。
日南田村人 雑誌や新聞に食傷したので、今ではスパルと萬が漸く咽喉を通ると云ふ病人だが、ウンと腹を減らして置いて時々大冊物で満腹するので、病気全快する時なく、ゲソゲソ云つて居ると云ふやうな人。
広井浩風 いつか武者修業に出た時、群馬縣あたりで一寸女を睨んだのが祟つて目が悪くなり、今では詩界の独眼竜と云つたような顔の人だと思ふ。

想像は即ち想像だ。一面識のない人を一面識のない者が想像したのだから當つても當らんでも、喜ぶべからず起こるべきだ。
※ここまで16日付

井上江花 随分振つた色男で、金沢女からチヤホヤされそうな顔の人だと思ふ、但しお尻が小さくてスラリとして居て、七圓八十銭のシルクハットを冠つたらモウ一段男ぶりが上るさうだ。
大井冷光 芝翫か宗十郎のやうな顔の人だと思ふ。しかし子供が好きださうだから世話女房が適役かも知れぬ。
大橋二水 光頭山から雪崩れて鼻下溪に積つた雪を胸を突出して眺めながら、何か云ひたさうな顔をして居るだと思ふ。
占部南水 利口さうでキビキビとした、まるでスリの親方のやうな顔をした人だ。
遠藤霜井 古い俳句の宗匠だと云ふから余程の老人で、只の座蒲団じや不可ぬから日本中の新聞を積んで其上に座り、寒いからと雑誌をウンと積んで風避けをつくり、古池や古池やと首を捻つて居るやうな顔の人だと思ふ。

【解説】
『高岡新報』明治43年1月16日3面、2月6日3面に掲載。明治末期に富山県内で活躍していた新聞記者や俳人の人物寸評である。『北日本新聞社八十五年史』(1969年)に転載されたが明治43年元日号と誤記されている。

執筆した「影法師」は、『高岡新報』主筆の井上江花か、記者の五艘霞翠である可能性がある。そのヒントは井上江花の評にある。もし江花が書いたとすれば、わざと自身を持ち上げているような評であり、読む人が読めば分かるようにユーモアで書かれていると見られるからだ。また、五艘霞翠が書いたとすれば、江花がかつて霞翠のシルクハット姿についておかしく書いたことへの意趣返しのようにも読み取れるからだ。ただ、五艘は明治42年12月末には北陸タイムスへ移籍しており、この記事を書いた可能性は小さい。「お尻が小さい」は、『江花叢書』第1集(明治43年1月15日)の「崑崙日記」明治41年に記述がある。いずれにしても、15人の多彩な人物の評をこれだけ書くには相当の観察眼と筆力が必要である。

気になるのは大井冷光に関する記述である。冷光は明治41年7月上旬頃に『高岡新報』から『富山日報』へ移籍した。「世話女房が適役はまりやく」というのは、恩師の井上江花から離れ、競合紙である『富山日報』主筆の匹田鋭吉に付いたことを皮肉ったようにも読み取れる。

見た人聞た人(四)
富山市 鹿島町 富山日報主筆 匹田 鋭吉

▲聞いた時……肩衣的ブル坊
▲見 た 時……ブラぬ華族様
匹鋭と言ふ文字が急迫性で名を聞くからに戦慄を余儀なくさする、雪堂も頭が凝る字である、演説会でも談話会にも乃至は青楼に遊んでも裃の皺を気にする側で、即処に数句の警語を操って一専威望に孜々たる人を思つて居たは見ね中の君処がホテルの懇話会に何ぞ計らん卓上花瓶の花よりも鮮かて、誰れとでも打解ける所、其座談中政治家の香が紛々して居る、黒髪の毛唐風に掻き分け有ると思って居た髭がなく美男子てある所は劇中の女形として申分がない

※『北陸タイムス』明治42年4月14日1面

見た人聞た人(五)
富山市 鹿島町 井上 忠雄

▲聞いた時……宗匠風老人
▲見 た 時……理想の教師
年の頃なら五十格恰位瘠形の小つくりな体格で、板垣式の白髪銀の如く、眼元には何となく愛嬌があって、其態度は飽く迄宗匠式で、風采などは殆ど木石の如うであって、其癖せ青年が大好きで、何時も小供を集めて面白い話をするが道楽で老いて益々壮なる様子は、恰もウイクフィールドの牧師然たる人だらうと思って居たが何ぞ計らん、逢って見れば意外にも眉目清秀、風采瀟洒たる好紳士で鷹揚なる態度裡に親しむべくして亦狎るべからざる所がある。而して其気取らないうちに、一種高尚な所があるから、矢張り平和な田園の理想的教師の面影がある

※『北陸タイムス』明治42年4月17日1面

【解説】
明治41年11月15日に創刊して5か月目の『北陸タイムス』が1面で連載した記事の一部。競合紙の主筆2人を取り上げるとはいかにも大胆だが、2人の主筆の性格や人となりがよく想像できる文章である。明治末期に富山県の新聞界をこの2人の主筆がリードしていたことも推測される。執筆者は、同紙編集長の卜部南水(卜部幾太郎)あたりか。卜部は明治43年9月29日時点で44歳。

この記事が掲載される約3週間前、3月28日に5紙の記者懇談会があり、卜部は匹田や井上と話す機会があった。また、この記事が出た後、別の事件をめぐって同紙の社員が検挙されるという事件があった。2紙とも報道の自由を揺るがす事態であると紙面で当局に抗議し、北陸タイムスを応援する側に回っている。当時は『北陸政報』が『富山日報』と厳しく対立していた。

※『北陸タイムス』明治42年7月15日1面

俳人の側面観(一) 杢阿弥

我輩杢阿弥眼鏡に映じた富山新派俳人の妄評を試みて見やう八卦と同じく当らぬでも

高田稲光

山高にフロックで車上裕に大道を駆ける時、彼れの白晳なる顔円なる頬は頗る振ったもので、マー威風堂々と形容してもよいが、偖て親しく話して見ると、彼れは極めて気軽な、極めて無邪気な、極めて同情のある男である、気軽だといっても彼れはお喋りではない、少し吃る様な口気で簡単に応答するだけである、そして話すときに片頬に極めて浅い靨が出る、白晳なる顔の豊円なる頬、その片頬の浅靨、この道具揃ひの彼れの容貌は一口にいへば愛くるしい顔である、彼れは又決して歯に衣を着せぬ性質で、何でも思った通りを云ってのける、であるから随分人に対して悪口罵詈となることも平気でいふ、併しそれが少しも悪口罵詈に聞こえぬ、彼れの愛嬌ある悪口では頗る珍談がある、先年霞翠が高岡新報の聘に応じて富山を辞するときの送別会にどうして来たのか東京の徂春とかいふ壮俳人が舞ひ込んで、其の奴が僕の事を一体諸君は何と見るかと一座を見回した時、誰れもクウイッションだといって居たが、彼れは左様さねマー太神宮の御札配り位だねと遣ったので一座哄笑、云はれた本人は大苦笑を遣った、彼れの直情はこんな風で、この時も決して滑稽ではなかった、彼れは確か適評と信じていったに違いない、けれどもそれが少しも悪口とも嘲弄とも聞こえなかった、丁度駄々をこねる坊チャンが母親を馬鹿と云った様に、云はれた方でも別段悪るくは思はなかったらしい、恁な風であるから僕は彼れを先天的小児科のドクトルであらうと思ふ、然り彼れは当さに其の性に率ふところの職業を選んだ、前途の発展庶幾ふべしだ、(次回は田村無尽)

※『北陸タイムス』明治42年7月16日1面

俳人の側面観(二) 杢阿弥

田村無尽

運座へ来て隅の方に小さくなって首を曲げて居るとき、或は飛白の羽織に紙撚りの紐で市中を歩くときの彼れを見ては、誰れでも連隊の副官とは思へない、併し彼れは連隊長として幕僚としては画策献替宜しきを得、軍人購買組合の世話役としては折衝斡旋甚だ勤めたものであるとのこと、彼れが軍隊に於て如何に勉めるかは知らぬが、カーキー色の軍服勇ましく馬を駆って帰宅するや、直ちに前垂掛と変じて組合事務所に出て算盤を弾いて居る、彼れは軍人として忠節なるのみならず、個人として人の為めに謀って忠なるものである、而して又忙中閑事として我が俳諧に趣味浅からずと来ては実に嬉しい、彼れは其の人格其の趣味上から、義士大高子葉に比すべき人物である
▲次は蜷川酔眼光

※『北陸タイムス』明治42年7月17日1面

俳人の側面観(三) 杢阿弥

蜷川酔眼光

句会へでも来ると、宛ながら象の歩行く様にノシッノシッと這入って来て、ヲーとか何とかいって行き成り大胡坐をかく、君遅かったじゃないかと云ふとウンと云ふ、何か楊でもあったのかと尋ねるとナームと云ったきり、其のナームが腹の底から響いて獣王の唸る様である、赭顔肥大の骨格逞ましいところい幕下のビリ位には踏める、顔はニキビ沢山だけれども自然主義者ではない、彼れの性質も亦体格の如く、磊落豪放で飾らず詐わらざる美徳があるであるから句作なども一向推敲をしない、出たまゝ吐いたままで時々一茶式のが出来る、先年北海道へ渡って、精米業とかを遣ったそうなが、失敗(?)して宅に帰って居る、彼れの体力、彼れの担力、彼れの精力は社会の土俵で思ふ存分角闘し得る値ひがある、屈せず撓わまず猛進して、早く十両になれ早く幕の内に入れ

中田錦紗

宛然たる白雨の美少年、錦紗とは頗る其体を表し得た号である、彼れは又行儀の正しい男で、胡坐をかく者、匍匐ふ者、横になる者の雑然たる運坐の席で、独り端然として終始膝崩さぬのは家庭のしつけの程も思い遣られて奥床しい、勿論彼れは常に角帯キチンと結んで居る、同人が寄って墨汁発行の協議をした時に、一ケ月四十部の販売は是非共錦紗の店で引受けて貰わねばならぬと誰れかゞ押し付けた時に彼れは頗る逡巡して、僕は承諾だけれども家の者に相談しなければと苦しい返事をした、これも大書店のボンチでありながら其の部屋住みたることを忘れぬ小心翼々たるところに彼れの慎しみが現れて居る

※『北陸タイムス』明治42年7月21日1面

俳人の側面観(四) 杢阿弥

日俣愛松

今中学の五年とやらだが、一体中学時代の如き特に頭脳を科学的に傾けなければならぬものが、超世間的で黙想に耽り易い、俳句などを遣るのは僕の取らぬところであるから初めて彼れを見た時は、マー喫煙禁止法違反位のナマクラ者だろうと、早呑込みをして居たが、ドウしてドウして、成績優良であると聞いて僕も安心した、併し葉書や短冊などへ、南瓜の蒂で造った様な判を捺す事は頗る月臭があるから廃めるがよからく

五艘霞翆

剃り付けた揉み上げ左り別けの髪、而してダブルカラーといふ扮装、元は県庁第二部の役人、今は高岡新報の花形記者、頗る気軽な、頗る口まめな、頗る愛嬌に富んだ男頻りに洒落、頻りに地句る、それで足りなくて手真似や顔付きで滑稽的表情を補ふ、キザな様でも厭味がない、マー社交には好適であろう、近来蓄髯して、余程尤もらしい容貌になったか、三年程前の富山女学校の運動会、来賓競走のプログラムが来たとき、女教師の一人に「五艘ハンアンタが出テオクンナハレ」と手をトッ捉まったが、嬉しい様な、迷惑な様な笑い方をしながら頭を抱えて逃げるときに椅子をひっくりかやした光景は頗る滑稽であった

※『北陸タイムス』明治42年7月23日1面

俳人の側面観(五) 杢阿弥

福井白柿

彼れは富山電燈会社の何役かをして居ったそれが為といふのでもなかろうが、彼面貌は電燈の球そのまゝに額が細くて下に向く程太くなって居る輪郭は寺内式だけれどあんなに釣り目ではない、気軽な尻の軽い男で、同人の為めには万事周旋の労を厭はない、会やなぞの時は何時でも幹事として必要欠くべからざる道具があるので、同人間にも大いに愛される、中学時代には校長(?)排斥か何かを遣って三年位で退学させられたとか聞く、俳句は随分熱心で或る時自景庵で故鼬仙の追弔の時、電燈会社から急に用が出来て宅に呼びに来たとかで母親らしい人が二度まで迎ひに来て果ては戸外で声高に罵って居たが遂に行かなかったなどは随分振って居た彼れは又俳修業の為め東京に行ったが今は帰って居る在京中は千鳥吟社鵯吟社などで大分振たとのことである

気賀蘇水

容貌言語態度共に俳優じゃないかと思われる眼の涼しいところ鼻筋の通ったところ唇の朱いところなそ最う少し面長であったら伊井蓉峯といった様なスタイルだ旅籠町の旧と旅籠屋の叔男とやら一時俳句を盛んに遣った時にはホトゝギスの地方俳句界に蘇水宅小集の句を毎号に見たもんだこれは小集でもなんでもなく彼れ一人でこしらひたものとのこと彼れは健気にも筆で世に立つ覚悟で蹴然上京して今は国民新聞に這入ったそうな

※『北陸タイムス』明治42年7月27日1面

俳人の側面観(六) 杢阿弥

武田一可

元は警察部の課長で、丈の高い炎天の鬼瓦宜しくといふ顔付き、アレなら罪人にしらべなどには睨みも利くであろうが、余り女には好かれまい、頗る謹厳な男であったが酒を呑むと時々愛嬌を遣る、或る時井波の宿屋で雪隠の中から雷の如き鼾声を放って、新聞に素破抜かれたことがあった、井上江花はこれを「春の宵奈良屋の便所借りにけり」と句に作った、それが運座の席で宛ても席題が春の宵であったので、彼れも頗る苦笑を禁ぜえなかった模様だった、世間では彼れを敏腕家と評した成程さうであった惜い事には知事更迭と殆ど同時に東京へ去らざるを得ぬに至って仕舞った

廣島花渓楼

頗る真面目な青年で、元は高岡銀行富山出張店の行員であったが、今は本店へ還った、近来非常な多作家となって全国の新聞雑誌で苟しくも俳句を載せるものには、彼れの句を見ざるなきの勢ひである、或る人は「アンナに多作しては銀行で算盤が間違うだろう」と評したと聞いたが、彼れに限ってそんなことはない、俳句は遣っても遣らないでも勤めるところは屹度勤めるであろう東京の松濱などは口を極めて彼れを賞賛して居ると聞いたが、最もな事である

※『北陸タイムス』明治42年8月4日1面

俳人の側面観(七) 杢阿弥

舟木香洲

異常に後方に発達した金槌天?が特徴として印象を惹く外は、茫乎として淡如としてうら淋しい顔付きであるが、全体の何処やらに言い知れぬ温か味が籠もって居る、僕は彼れを懐ふ毎に、何んだか遠い遠い山の半腹に、秋の霞を認め得た様な、淋しい様な床しい様な感じがして、それが夢の様に消えるのが常である、彼れが卵形の艶のない顔を、四十五度位の角度に仰向けて、気倦るい様な眩しい様な眼で友の顔を見ながら、口辺りに自然的な笑を浮かべて「ハゝーン、ソーケ」と云った時には、彼れの恬憺無凝の性情が遺憾なく発揮される、彼れは自然に対しても人に対しても総てがこの行き方である、彼れは友を作っても刎頸の交りはせぬが、呉越の怨みも買はぬ、自然に接しても深刻な憤慨は起さぬが、冷々に観過はしない、彼れはドーしても先天的の詩人である、俳人である、多分彼れの母は、夕風にフラフラする棚の糸瓜を取って丸呑みにすると夢みて、彼れを妊んだのでがなあろう、彼れの恬憺無凝に就ては面白い話がある一昨年越中史編纂の一員として県庁に勤めた、時々無断欠勤をする、主任の者は切りに気を揉んだが矢張り効がない、とうとう主事を通じて知事から頗る大なる目玉を食った、けれども彼れは例の「ハゝーン、ソーケ」と云ったきり相変らず時々不意に休んだ、心中何か不満な事でもあったのかも知れぬが、併しこれが其頃の彼れの挙動の全体の一班であった、何処までも秋露式四十五度式ハーンソーケ式である、閑話休題彼れは富山に於ける新派俳人中の最も先覚者で、其の造詣も決して浅くない、確かに富山俳人のリーダーである、僕は彼の句集の早く世に公にせられん事を希望して止まぬ

【解説】
明治38年に富山市で結成された新派俳句結社「墨汁吟社」のメンバー11人を紹介した『北陸タイムス』記事。「側面観」は、明治末期の文士の間でよく使われたらしく、人物や物事を正面からでなく側面から観察して書いた記事をいう。「側面観察」という言い方もある。柔らかい筆致の記事が多い。

筆者は「杢阿弥」であるが、同紙編集部の編集長だった卜部南水か、あるいは竹内水彩か。第2回以降に「漫録」という冠がつくように、意図的に笑いを誘うように書いているが、墨汁吟社に深くかかわり相応の観察眼をもった人物でないと書けない内容である。

大井冷光は登場しない。しかし、冷光は、明治42年7月に名義会員を除外した墨汁吟社の組織改編でも引き続きメンバーとして名を連ね、同年11月には自宅で例会を開いている。注目されるのは井上江花で、江花は組織改編では名がなくなるが、この連載記事では「春の宵」という題の句会に参加していたことがうかがえる。

この「俳人の側面観」とともに、当時の俳人を知る重要記事がある。『北陸政報』に連載された「富山俳人漫評」明治43年7月~8月である。萩原椿川、福井白柿、久世暁峯、田村無尽、日俣愛松、水上不流、五艘霞翠が取り上げられている。筆者は仁王山人であるが、明治43年に5月に『北陸タイムス』から移籍した竹内水彩である可能性がある。

※白晳 はくてつ
※偖て さて
※靨 えくぼ
※恁な こんな
※匍匐ふ はらばう
※鼬仙 泉鼬仙(元富山日報記者)
※屹度 きっと
※天? あたま
※茫乎 ぼんやり
※恬憺 ていたん
※刎頸 ふんけい

(2013-05-06 00:30:34)

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