第8章第3節 日本アルプス探検隊(後編)


明治45年7月27日午前9時すぎ、大井冷光が指揮する日本アルプス探検隊は大町を出発した。博文館派遣の冷光ら4人と案内人3人の合わせて7人の一行である。先ほどまで講演を聞いていた児童たちが見送ってくれた。

大町から西へ約4キロ進んだところが野口村である。ここで高瀬川支流の鹿島川を渡る。裁着袴姿の農民に出会った。そのいで立ちを見て、冷光は時代を遡るような錯覚がした。橋を渡るとすぐ大出(標高785m)の集落である。大姥堂と呼ばれる寺に参拝した。かつて立山信仰登山の裏からの出発点とされた場所である。ここから針ノ木峠までは約4里(15.7km)である。

日本アルプス探検隊のルート(東半分)(黒部川・高瀬川の部分は推測に基づく修正)
日本アルプス探検隊のルート高低図
板屋峠ルートは推測に基づく

探検隊は青田を縫うように畦を伝い、雑木林の中を進んだ。鑿跡のまだ新しい道祖神にたびたび出くわした。単調な野道が延々と続く。さらに籠川の川原を遡行する。出発から5時間、ようやく谷間が狭くなり両側の山が迫って来た。籠川左岸から流れ込む白沢を過ぎて午後3時、やや高い懸崖にぶつかり、しばらく進んだところが「畠山小屋」と呼ばれる場所だった。

明治45年は立山新道が廃道になって約30年後にあたる。「山神」「白沢」にあったとされる荷継ぎ所または休憩所について冷光は言及していない。もう跡形もなかったのだろう。現在の車道は籠川左岸のやや高台に整備されている。当時、道がどのあたりを通っていたのか、立山新道の跡がいつの時代まで残っていたのか不明である。[1]

籠川川原で危険な野営

《籠川 畠山小舎》(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻12号(1912年)

あたりは霧に包まれた。ブナ林を進む。午後5時、陸地測量部の測量隊に同行している人たちと出くわした。1時間ほどでブナ林を抜けると、そこは扇沢という大きな沢だった。巨大な岩と岩の間を、雪解け水が激しく流れ落ちている。

籠川を渡る(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻12号(1912年)

先頭の小平高康(18歳・麻布中学3年)が岩から岩へ飛び移ろうとして川に落ちてしまった。腰までずぶ濡れだ。蒲生俊武(1885-1914)は人夫の杖につかまりながら慎重に渡る。河東汀(16歳・青山学院中学1年)は人夫に背負ってもらった。冷光は、買ったばかりのござを投げ渡そうとして落してしまった。

「お前様たち、今からそんなことで、黒部をどうして越さっしゃる」

案内人の伊藤菊十たちは、都会から来た4人を笑うのだった。

渡った先は岩や小石が崩落したガレ場だ。そしてまた渡り返す。苦戦してようやく平らな川原に出た。すぐ上手は「丸石」と呼ばれる岩がある場所だった。午後6時、露営することになった。

冷光は、1日目の野営地点を「地図は語る、この地は海抜四千一百尺」と書いているが、4100尺だと1242mで、現在の扇沢出合い下流約600m地点となり、つじつまが合わない。冷光は針の木峠の標高を8000尺(2424m)としていて、これは現在の標高2536mに比べて112mも低い。このことから推測すると、1日目の野営地点は1350m前後、つまり現代では立山黒部アルペンルートの長野側始発にあたる扇沢駅(標高1425m)の下部と思われる。

昭和39年(1964年)8月1日、立山黒部アルペンルートの扇沢駅が開業し、この一帯の登山拠点となった。大出から扇沢まで、冷光の時代は徒歩で1日がかりだったが、現代では車でわずか15分である。昭和41年に扇沢から爺ヶ岳に登る柏原新道ができてからは、源汲集落から尾根伝いに爺ヶ岳に登るルートや、白沢の谷沿いに直登するルートが廃道同然となり、いまや大出~扇沢間に登山客の姿は見られない。この区間には登山道や山岳関連遺構がいくつもあったはずだが、ほとんど忘れられている。[2]

《探検隊の夜營》(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻14号(1912年)

川原での野営は危険と隣り合わせである。冷光たちが野営した場所もひとたび雨が降れば瞬く間に増水の恐れがあった。

「お前様がた、夜中に飛び起きてあの林へ逃げ込まなくちやならねえこともある。用心をしていらっしゃれ!」

菊十が言った。案内人たちは流木を拾い集めて火を焚いた。米を研ぎ、夕飯の準備に入った。カワヤナギの材を切り出してイタドリを折ってきて間口2間のほどの小屋を造った。屋根には油紙を置き、イタドリの葉を葺き、地べたにもイタドリの葉を敷き詰めた。

少年たちは冬着や外套を着込んだ。濡れネズミになっていた小平は着替えて赤い毛布を巻いた。河東は長マント、冷光も防寒外套に手拭いをかぶり、『少年世界』と『冒険世界』の旗をカワヤナギの梢に結んだ。蒲生は、まだ明るいうちに写生をしようと、石に腰を下して絵の具を溶いた。

ご飯が焚け、味噌汁も煮えて、焚き火を囲んで夕食となった。瀬音とともにカジカガエルの鳴き声が響き渡る。

夜半に小雨がぱらつき、ひと騒ぎがあったが、小平と河東は疲れからか熟睡していた。

明治45年7月28日。午前5時起床。いよいよ針ノ木越えの日である。

河霧軽く搖曳するうららかさ、取り圍む四顧の峰巒、頭に雲の小片きへ遺さで、茜さす空に莞爾たる温容の懐しさよ、由來我に山霊の恩寵あり、溪流に嗽いで切なる感謝の禮拝を取らざるを得なかつた。

『冒険世界』5巻13号

小屋から出るとあたりは霧に包まれている。東の空が茜色に染まり、西には藍色の峰々が屹立していた。穏やかな一日になりそうだった。冷光は川の水でうがいをした。歯が折れるくらいの冷たさだった。

菊十たちは朝食を作る時間も惜しいという。身支度ができると一行は午前6時20分に出発した。黒部川畔の平の小屋までは約15km、1日目と距離は変わらない。しかし、針ノ木峠(標高2536m)まで標高差約1300mを登り、平(1380m)まで標高差約1150mを下るかなり厳しい行程だ。

針ノ木雪渓(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻14号(1912年)

8時40分ごろ、針ノ木雪渓の下部に着いた。標高1700-1800m付近と推定される。針ノ木峠まであと標高差約730m、距離にして3キロ弱、かなりの急こう配だ。

溪間を埋めた雪田の下端であるから、絶頂より融け出す水の自然下層に洞門を造つて愈々雪を離るゝ此處大雪門に於ける水嵩は實に六尺四方餘となつてゐる、それが岩に激し崖と闘つて落下する壮観には、蒲生畫伯の如き飛沫に濡れつゝ手はかじみつゝも寫生の筆を走らせるのであつた。

雪渓は上部へと続き、ガスが立ち昇っている。菊十たちは草鞋に鉄かんじきを付けた。少しずつ高度を上げていく。雪の上に転々としている岩を、河東と小平が転がして落そうと試みたが、全く動かなかった。雪の中に冬毛のままの雷鳥の死骸があった。[2]

怪岩奇峰に山名なし

朝の出発から5時間余り、冷光ら少年隊の一行が針ノ木峠に着いたのは午前11時30分である。あいにく眺望はよくなかった。

登って来た長野県側の谷を見下ろすと雪渓で埋っている。一方の富山県側の谷には雪が無くハイマツやシャクナゲ、ヤマハンノキなどの繁みだった。馬の背から延びる稜線は、怪岩奇峰が続いている。冷光は案内人に山の名前を尋ねた。

「なんのお前様、岩の名前どころじゃねぇだア、山の名前の無いのが、ざらにありますだア、少しお前様がた名を付けていってくれっしゃい」

案内人たちが言うとおりだった。信州側から見ると、現代において「針ノ木岳」(標高2821m)と呼ばれる山は蓮華岳の陰になって見えず、当時はまだ山名は一般化していなかったようだ。「針ノ木岳」は明治43年夏、辻本満丸・三枝威之介・中村清太郎が後立山連峰を縦走した際に、辻本が名づけたという。

実は、江戸時代末期の越中側の地図には、2821mのピークを「地蔵岳」とし峠の南にそびえるピークを「北針ノ木嶽」と「針ノ木嶽」と記されていたのだが、当時の郷土史研究水準ではまだ判明していない。[3]

針ノ木越えを記念して、冷光はポケットウイスキーを取し出して皆に振るまった。河東はビリケン漬を出した。蒲生は、ハイマツで標柱を作り、色チョークで「美術的な探検隊通過記念の文字」を記して立てた。

日本アルプス探検隊のルートのルート(西半分)

黒部川河畔の平の小屋まで「4里余り」[4]、案内人は特にこの先の道が一番険しいと言った。標高差1150mの下りだが、一行は30分ほど峠で休んだだけで、正午に再び歩き出した。

樹林帯の谷を九十九折れに下降する。

下る事半時許で溪流に辿り着いた、溪流を右に左に縫ひつゝ下ること更に一時間餘り、落葉松ばかりが多い澤に出た。牛小屋の跡がある川田の小屋と名のつく所である。その上に聳つ岫は紫帳場といふ紫水晶礦脈のある所だと人夫はいふ。

「日本アルプス踏跋記」『冒険世界』5巻3号、1912年
「日本北アルプス北半概念図」
冠松次郎『日本北アルプス登山案内』(1936年)
針ノ木谷に「紫帳場」「ガラ沢」「牛小舎沢」の地名と水場が確認できる

峠から南側すなわち富山県側へ1時間半ほど降りたところに牛小屋のような跡があった。「川田の小屋」あるいは「川田のお助け小屋」とも呼ばれる場所だった。ここには30年余り前の明治11年と12年、富山と大町を結ぶ立山新道が開かれた時、荷継ぎ所が設けられたらしい。現代の地形図でみると、おそらく標高1900m付近のやや平坦な場所だろうか。

川田の小屋から見える紫帳場[紫丁場]という場所は、冠松次郎『日本北アルプス登山案内』の登路概念図に記載されている。それは、針ノ木谷出合からやや峠側に戻った地点である。[5]

記者は先年立山籠りの當時、山の人から山に關する傳説口碑を蒐めたことがある。さうだ山暴風雨の後であつた。偃松の燻ぶる立山室堂の爐端で『紫帳場から針木澤へ大下駄が流れて出た話をしようけえ、でつかいもでつかい幅の六尺もある下駄だがなア、そいつあ、あの黒部の南澤を流れて居たんぢや』と語つた剛力長吉の、荒彫りの木像の様な顔が今も眼にちらつく。

「日本アルプス探検記」『少年世界』18巻15号(1912年)

川田の小屋から少し進むと針ノ木谷出合(標高1865m)である。これで一気に670mも降りたことになる。さらにしばらく進んだところで思わぬ出会いがあった。

「人の声が聞こえるぞ」。誰かが叫んだ。

午後2時ごろのことだった。行く手から人の声が聞こえてきた。

「やあ、高野様が見えましただア、あの小さなお方が……」

日本山岳会の高野鷹蔵(1884-1964)と近藤茂吉(1883-1969)の2人と案内人4人の計6人のグループだった。

山岳会一行との出会い(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻15号(1912年)

非常に丈高き紳士と頗る矮小な紳士、共に山登りのハイカラな旅装をした二人が四名の人夫を隨へて居る。一見想像が着いた。その小なる人は山岳會の参謀高野鷹藏氏で、丈高き方は同近藤茂吉氏、黒く色着きし二人の顔の斑らに表皮が剥げかけてゐるのを見ても貴ぶべき兩君の戦歴を窺ひ知られるのであつた。

『冒険世界』5巻13号、1912年

高野氏は背が低く、近藤氏は背が高く、対照的な2人だった。高野は日本山岳会の発足時メンバーで会員番号3番。冷光は明治42年9月に日本山岳会に入会し、会員番号223番。冷光は1歳年上の高野と文通したことがあり、初対面ながら話は弾んだようだ。[6]

高野によると、大町から入山した辻村伊助(1886-1923)が、雨のため黒部平の小屋で3日間足止めを余儀なくされ、今朝ようやく立山へ向かって出発したという。

高野と近藤は7月20日富山方面から立山に入山した。26日に雨の中、御山谷を下降し、中ノ谷を経て平ノ小屋に着いた。しかし27日は雨のため動けず停滞し、この日ようやく針ノ木峠に向かって出てきたのだという。

7月21日夜から22日朝にかけての集中豪雨で、黒部川下流の平野部は堤防が48か所で決壊、約1080haが浸水、家屋の全半壊147戸、浸水1078戸の被害が出た。これは昭和9年、昭和44年と並ぶ規模の大水害であったという。

冷光は、高野たちの苦労話を聞いて、自分たちの幸運を喜んだ。

大行李の準備あり、大天幕を携帯される諸君には風神両伯の厄多く、反つて素手に等しい我等にその厄の無かつたとは何を奇蹟といへまいだらうか

この場所から「平ノ小屋まであと1里半(約6km)」と高野から聞いて、冷光たちの士気は俄然高まった。

針ノ木谷の悪絶剣絶3キロ

冷光たちが高野たちと出会った場所は今でいう船窪分岐(標高1840m)付近、立山新道の細見図では「二ッ俣」付近とみられる。「二ッ俣」は「針木峠」から2.2kmの行程であり、西へ「中小屋」まで3.0km、「中小屋」から2.6kmで「黒部」となっている。となると「中小屋」はおそらく南沢出合(標高1540m)であり、黒部平の小屋までの距離約6.0kmも立山新道の時代の5.6kmとほぼ合致する。しかし、蒲生俊武のスケッチでは「牛小屋」と記されていて、地名の特定は現時点では難しい。

《針金一本に生命を托して》(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻14号(1912年)

船窪分岐から南沢出合まで、標高差300mのわずか3キロ区間が途轍もない難路だった。「悪絶険絶天下無比」と形容される針ノ木越えだが、峠付近の道が特段険しいのではない。困難を極めるのは黒部川の支流、針ノ木谷の核心部のことなのである。

沢の渡渉を繰り返さなければならないのはもちろん、川道に乗り越えられないほどの巨石が点在するため、高巻き道すなわち迂回ルートを両岸の樹林帯のなかに見つけて進まなければならない。針ノ木谷に流れ込む谷はガラガラの涸谷が多かった。この3キロ区間は、特に目印となる景観がなく、古い絵図にも「北又」とある以外は地名らしい地名がない。右岸左岸の上部に目を向ければ、標高差にして500m、標高2000-2500mの名もなき山稜が連なり、右岸上部すなわち針ノ木岳南面は幾筋もの崩落がある急斜面、左岸もまた険しい斜面が谷に落ち込んでいた。

現代では、2007年に復活した針ノ木古道が当時に近いルートとみられる。地形図では、河床標高1840-1750mあたりが狭窄部でこの区間で5回ほど徒渉する。右岸側の2071mピーク下に高さ約100m幅約100mの垂直岩壁がある。おそらく右岸側から流れ込む谷が「カラ谷」とみられる。河床標高1745m-1575mを進む際に、右岸に高巻き道がある。平(中の瀬平)の地形図で詳述するが、1956年の5000分の1地図でもこの右岸の高巻き道が記されている。[6]

渡渉と高巻きは、山案内人の腕の見せどころでもあった。

溪流を添ふて進むによしなく攀ぢ上つて崖上の雑木林に別け入つたとする、芒を潜り葛にすがつて、十數丁も進み、もう難關る通過したのだから再び流れを辿るべし、と思つて下り立つた所は意外にも風無きに不断の崩潰を續け居る山抜けの上で、一歩踏み誤まれば大岩小石なだれ落ちて之れ又身は粉砕されもしやうではないか、嗚呼今度の冐險は山の嶮に非ずして水の難にあることを我等は此日染々と覺えたのであつた。

山の険しさではなく川を渡る難しさ。「悪絶険絶天下無比」の真の意味を冷光は感じていた。やや開けた南沢出合に着いたのは午後5時。約3キロは平坦な道なら45分という距離であるが、3倍以上の2時間半もかかったことになる。今たどって来た谷を振り返って冷光たちは笑い合った。そしてこの日3回目の食事でパンをかじった。

そこから黒部川の平まで400-500メートルだった。ススキが茂り、カワヤナギの綿のような白い種子が舞うなかを一行は進んだ。

《黒部の籠の渡し》(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻14号(1912年)

「籠の渡しに来たぞ」。誰かが大声で言った。午後5時40分だった。

黒部川は、このあたりで川幅が最大100mほどにまで広がり、昔からの渡河点である。[7]いつのころからか、80-90mほどの鉄線が架けられ、「籠の渡し」になっていた。

籠というのは鉄線に吊された木製のもっこで、それに人間が乗って、対岸から綱で引いてもらうというものだった。あいにく、対岸に人のいる気配はなかった。

「俺ァがお先きに渡ります」。陣頭に立ったのは傳刀林蔵だった。

林蔵は、荷物を置いて簣に乗ると、両手で鉄線を手繰って、キューキューキューと音を立てながら、簡単に渡ってしまった。林蔵は在郷軍人で、旅順で鉄條網をくぐった経験のあるつわものだった。残りの6人と荷物が渡るまでに20分ほどかかった。日の入りは午後7時過ぎ、黒部川の深い谷間はもう薄暗くなっていた。

遠山品右衛門と出会う

針ノ木谷と黒部川本流との合流点はだいらと呼ばれている。もともと黒部川の御山谷出合(標高1320m)~元木挽谷出合付近(1370m)の南北約4.5kmは「中の瀬平」と呼ばれていて、河床勾配は1/90程度と緩やかだ。

冷光から6年後に黒部に入り、のちに黒部の主とも言われた探検家の冠松次郎は著書『黒部渓谷』(1928年)でこの中ノ瀬平を「黒部川では最も快活明媚な景趣」と讃えている。現代では、中ノ瀬平は黒部ダムの湖底に沈み、失われた風景となった。

中の瀬平は信州側の呼び方で、越中側の加賀藩奥山廻り役の古文書や絵図では「大川出合」「黒部川落合」などと記されている。奥山廻り役の絵図では、この地点の目印として「黒ガンマク」(黒岩幕)という岩壁が記載されている。この付近の標高は約1360-1380mである。[8]

黒部 平の小屋(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻15号(1912年)

少年隊一行は籠の渡しを降りると黒部川左岸の崖を下りて川原づたいに進んだ。薮の中に小屋が2棟あった。高さ6尺で4坪くらいはあろうか、角材を横に積み上げた造りで「日本放れがして、瑞西スイスあたりの寫眞」ようだった。今でいうログハウスのような外観であろう。

ここはイワナを釣る漁師、遠山品右衛門の小屋だった。品右衛門は、長野県平村(野口)に住み、毎年春には熊狩りに、夏の間はイワナ釣りに針ノ木峠を越えてやって来ていた。[9]

冷光は3年前の明治42年8月に宇治長次郎の案内で洋画家の吉田博とここを訪れたが、品右衛門は留守だった。今度こそ品右衛門に会い、イワナを食べてみたい、と冷光は期待していたのだが、また姿は見えなかった。別の漁場に泊りがけで出掛けたのか。がっかりだった。

「まあ仕方がない、西の方の小屋が開いているから入ろうじゃないか」

伊藤菊十たち案内人は近くで薪を集めてきて小屋の囲炉裏で火をおこした。冷光たちは濡れた草鞋を解いた。

しばらくすると、外から声がする。

「やあ、よくござっただ。ああくたびれたずらあ」

驚いて飛び出すと、こま塩頭の「五尺にも達せぬ」小柄な男が立っていた。たくましい体にカモシカの毛皮を着込み、片手には畚をさげ、肩には釣竿、抜けた前歯の痕を見せてにこやかな表情。それが品右衛門だった。

イワナを焼く遠山品右衛門(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻15号(1912年)

品右衛門は、締めていた東側の小屋を開けて、冷光たち4人を迎え入れた。四方窓無しで六畳敷くらいの中央の三分の一に囲炉裏がきってある。囲炉裏の上にはイワナを並べる四段ばかりの竹の棚があった。品右衛門は、4人の若者たちにいったい何者なのかどこから来たのか聞いた。

冷光が、画学生である蒲生俊武を「見習士官となって富山連隊に入隊する方だ、すぐ少尉殿になる方だ」と紹介すると、品右衛門は驚いた様子で言った。

「そりゃ少尉殿がわざわざこんな山の中へようこそござらっしゃったが、へへツどうも見っしゃるとおり接待できんだが……。そうそうこの間奇妙な茶をもらいました、それを出して進ぜましょう」

品右衛門は蓆の下から紙包みを出してきた。

「これはね、この間、異人さんからもらったのじゃが、豆と麦とをあぶって挽き割つたものといひきますじゃ。さあ一杯飲んでみやれ」

古びた天目に煎じて出してくれた茶というものは湿ってかび臭くなったコーヒーだった。

「きょうはイワナが捕れましたか」

冷光は話題を変えた。きょうの釣果は9匹という。品右衛門は魚籠から1尺余りもあるイワナを取り出してみせた。それを食べさせてもらいたいと求めると、「一人一尾食べたらよかろうぜ」と言って、品右衛門は小屋を出て皿代わりにイタドリの葉を摘んで来た。そして早速串焼きの調理を始めた。

時計の針は午後8時を指している。隊員の1人、河東汀は疲れ切った様子で「僕もう、飯を食いたくありません。寝かしてもらいます」と言ったきり片隅で寝込んでしまった。

西側の小屋からは3人の案内人の陽気な歌が聞こえてくる。外は十四夜で思いがけない月明かりだった。「ああ、笛があったじゃないか」

冷光は、出発前夜に銀座で買った明笛を手に、蒲生を誘って川原に出た。

竹籔の細径を露にそぼぬれつゝ黒部の磧に出た、清みた空、鳩羽鼠の公に冴え渡る十四夜ばかりの月、聳立つ對岸の断崖上に轟々と樹つ栂や樅の神々しい氣分、更に上流へ重り合ふてやがては朦乎と夢見る姿の嶺々、雪融の水はサラサラと流れる、瀬をなし淵を造つて油を融かした様に流れる、その河が瀬の遠くなる程に山に谺して颯々の音の堪らなく心地よい響を傳へるのである。

蒲生は歌いだした。

2人がしばらくして小屋に戻ると、イワナの塩焼きが出来上がっていた。榾火に足を暖めながらの晩餐となった。品右衛門が身の上話を始めた。

冷光は、漁業鑑札を受けるために大林区署がある富山県伏木まで行った話、30年前、イワナ漁を始めたころは47尾も網にかかった話、3人の息子のうち1人は海軍兵である話などを書き留めている。[10]

幻の板屋峠越え

「立山附近略図」冠松次郎『黒部谿谷』(1928年)
「イタヤ峠」「オヤマ沢乗越」の地名が確認できる

1912年7月29日午前7時、少年隊の一行は平の小屋を出発して、立山室堂に向かった。快晴である。荒天なら刈安峠からザラ峠経由し立山温泉で一泊して室堂に向かわなければならなかったのだが、運よく立山の裏山をいくことになった。このルートは、ヌクイ谷~刈安峠~中ノ谷~板屋峠~御山谷~一ノ越~室堂という行程で、明治42年に冷光が室堂から平の小屋まで下ったときと逆のルートである。

このルートは現在全く使われていないため、不明な点が少なくない。仮に「板屋峠越え」と呼ぶことにする。文政5年(1822年)の「新川郡立山之後縮分間絵図」(石黒信由原図)には、板屋峠こそないものの、ルートは赤線で記入され、「熊坂」「中ノ谷」「温井谷」「黒ガンマク」という地名の記載がある。明治12年には、イギリス人宣教師で化学者のアトキンソン(1850-1929)の一行が、立山室堂から板屋峠ルートで平の小屋にたどり着いていて、比較的詳しく書き留めているが、地名は記されていない。明治時代に入って通行が次第に少なくなったのか、明治43年(1910年)発行の登山案内書『探険探勝日本アルプスと山麓の景勝』(高橋宮二著)では「距離近しと雖も殆ど人跡なく、能く地理を知るものにあらざれば通過する能はず」と記されている。大正2年に発行された5万分の1地形図「立山」には記載されなかった。

とはいえ、このルートは室堂~平の小屋の近道として1930-40年代でもまだ利用されていたようである。

例えば、冠松次郎「立山附近略図」『黒部谿谷』(1928年)には、略図ながら点線で記され「イタヤ峠」が出ている。同『立山群峯』(1929年)では、刈安峠から中ノ谷に降りた後、「谷へ下りついた處で對岸にうつり、白ナギの多い小谷を登って中ノ谷と御山谷との分水嶺の鞍部、即ちイタヤ峠の上に出る」と書かれている。[11]

1934年発行の『北アルプス』(小笠原勇八ら著)にも短く紹介され、「イタヤ峠」も出ている。「カリヤス峠から御山谷へ― 峠から中ノ谷への道について十数間下ったところでその道から分かれ森林の中の細径を中ノ谷の水流に下る。谷を向ふへ渡り、小さい谷を登って中ノ谷と御山谷の分水嶺の鞍部に出る。そこをイタヤ峠といふ。そこから雪渓を下ると御山谷へ落合ふ」(p102-103)。ここには「熊坂」という記述はない。

また、歌人の川田順が1935年に山案内人の佐伯八郎とともに御山谷から中ノ谷へ抜けようとして約3時間も道に迷いながら平の小屋にたどり着き命拾いしたことを和歌に詠み、歌集『鷲』(1937年)に残している。そこには「いたや峠といふを越ゆ」という記述がある。吉田博『高山の美を語る』(1931年)の北アルプス概念図でも、平ノ小屋からザラ峠経由でなく直接室堂に線が引かれている。

少年隊の一行は、ヌクイ谷左岸から斜面を登り2時間余りで刈安峠(1881m)に立った。手前の谷を挟んで北の方角に雄大な立山雄山(3003m)が見えた。

《立山遠望 苅安峠》(画・蒲生俊武)
※『少年世界』18巻16号(1912年)

若し我等の爲めに飛行機を與ふるものあらば、その絶頂迄は僅々三分間も要せまいものを、今ば迂遠にも更に溪に下り、前山の藪を潜り抜けて右へ走る雪溪の間を登らねばならぬのである。

「どうか今日じゅうに権現様に参詣りたいものじゃわい」と案内人が言う。

冷光は強気で言った。「なんだ絶頂はツイ鼻の先じゃないか」。しかしこれからが板屋峠越えの厳しいルートなのである。ここまで標高差500mを登ったが、これから中ノ谷へ200mほど下降し、また300mを登り返し、再び200m下降し、さらに900mを登って250m下るという、アップダウンが待っているのだ。一ノ越から雄山山頂まで標高差300mを往復しようというのだから、この日の累積標高差は上り2100m下り700mで計2800mにもなる。

一行は中ノ谷まで下りると谷を渡り、崩落斜面を登った。もう道らしい道はない。20分か30分進んだところで、今度は林の中に突入した。急斜面に生えるシラカバの雪でたわんだ幹と枝が行く手を阻んだ。幹から枝へ、枝から幹を伝っているうちに、冷光たちは遅れだし、先を行く林蔵たち3人を見失ってしまった。叫んでもこだまさえ返ってこない。中ノ谷の渓流の地点から登り始めて既に3時間余りが立っていた。水筒の水が尽き、4人は疲労困ぱいだった。

冷光は少年たちを鼓舞した。

「あすからは草鞋の塵の厭はしいことがあつても山林中で迷い子となるなどいふはことも無いぞ」

何とか登り続けて1時間、板屋峠(推定2028m)にたどり着いた。菊十たちが待っていた。清水を飲んで生き返る心地がした。

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