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第5章第8節 大日岳・称名滝の探検


奥山廻りの古道をたどって黒部谷まで下り、ザラ峠と立山温泉をめぐって室堂に戻る2泊3日の旅。それは近代登山の範疇に入るものである。同時代の登山家でこのルートを通って記録した人は他にいない。宇治長次郎という優秀な案内人を得て危険らしい危険に遭遇していないので、これを探検というといぶかしむ向きもあろう。大井冷光(23歳)は何かと茶化して書いてしまうために、登山記らしくない文章しか残っていない。しかし室堂に戻ってすぐ翌日から始まった下山の旅は、危険と隣合わせのまさに探検というにふさわしい山旅になった。

その旅の記録が『富山日報』で17回連載された「大日嶽と稱名瀧」である。[1]大井冷光が書いた山岳紀行文で最も力のある作品とされ、明治42年夏の「天界通信」の中で4分の1を占める分量がある。この旅に同行したのは、3週間寝食をともにしてきた洋画家の吉田博(32歳)、そして案内人の佐伯和三五郎(59歳)と荷担ぎの佐伯春吉(38歳)。4人は2日間、道なき道を進み、暗がりの崖でのビバークを余儀なくされ、一昼夜ほとんど食べられずに遭難寸前まで追い込まれた。以下では、明治42年当時の地名を併用する。

立山室堂に1か月近く駐在して周囲の山や谷を見渡すうち、大井冷光にとって興味を引かれる場所があった。それは大日岳(標高2501m)と称名滝(落差350m)である。

西北別山と天狗平の間に地獄谷を前にひかへて頑張つた大日嶽、其の茂味澤山な黒ずんだ嶺こそ獨り毛色を異にした癖者と云はねばならぬ麓の猟夫が鞍鹿や熊の本場の様に心得て居るのもこの山であれば又頂上の岩窟から古武器を発見すると云ふのもこの山である、今では冬期雪の上の外は容易に登る者とてはないが、むかしむかし立山の開基者有頼公が初めて登つた路筋といふのは口碑の多い今の路ではなくて芦峅寺村から早乙女山に亘り夫からこの大日嶽の嶺伝へに立山へ登つたものらしいと土地の故老が物語る、室堂に居て見ては低く見えるが富山から見ると立山を肩に載せた大山、何方にしても、山住みの僕に取つては見逃し難き山となつた[2]

大井冷光「大日岳と称名滝」(一)『富山日報』明治42年8月31日3面

室堂に立ってみると雄山や浄土山や別山など多くの峰々が岩でできているのに、大日岳だけは緑に覆われているように見える。大日岳は大日如来に由来する山で、西から来拝山~大辻山~早乙女岳~大日岳~奥大日岳と連なる峰々は古来、修験道の場として知られた。16年前の明治26年7月には平安時代初期のものとみられる銅錫杖頭が発見され、山頂には御堂があったとされている。冷光にとっては探検心をかきたてられる謎めいた山であった。

芦峅~弥陀ケ原~室堂~雄山が登拝者たちでにぎわいを見せるのに対して、称名川を挟んだこの山域に入る人は少なかった。地元の木こりや猟師、薬草取りなどが入山していたらしい。つい1か月ほど前には日本画家の石崎光瑤が大日岳に入ったのだが、どのルートをとったのかは定かでない。[3]

もう一つの目的地である称名滝に、冷光は特別な思い入れがあった。

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