「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第20話
「落ち着いたか」
奇しくもあの日と全く同じ台詞に、優奈はこくんと頷いた。
あの日も――優奈が吸血鬼となって目を覚ました時も、この事務所の居間で新と向き合った。
けれど今、座卓の上に置かれているマグカップには、コーヒーではなく優奈の好きな緑茶が入れられていた。一緒に出されたケーキは、昨夜優奈が事務所の冷蔵庫に置いていったもの。優奈が持ち帰った方は何度も落としたせいで、きっともうぐちゃぐちゃだ。
「覚えているか」
確認するような問いに、優奈はもう一度頷く。深緑に濁った緑茶に映る自分の顔は、やっぱりどこか透明感を伴っていた。
「私……喉が渇いて、目の前の帆理さんの、血が飲みたくて……」
「そう。でもお前は一方で、頑なに血を飲むことを拒絶していた。自分が死んだこと、吸血鬼化したこと、野々宮が死んだこと……一度に色んな事が起こって、パニックになりかけてた。……だから俺はお前に、吸血鬼になったことを忘れさせた」
陽の落ちた縁側で行儀悪く片膝を立てて、けれどゆっくりと新は語った。
「忘れさせた……」
「魔眼で暗示を掛けたんだ」
「魔眼……暗示……」
優奈は呆然と、ひたすらに新の言葉を繰り返す。
指で自身の目を指さして、新は続けた。
「吸血鬼の能力の一つだ。こう、相手の目を見て命じると、相手に強い暗示を掛けることができる。使う時にはこう、目が光る。多分この光のパターンか何かで洗脳してるんだと思うが」
「洗脳って物騒な……」
「お前も使えるぞ」
「えっ」
「多分、何度か使ってるだろ。無意識に」
「…………」
その指摘に、優奈は視線を落とす。やっぱり、という気持ちがどこかにあった。
思い出すのは、野々宮が死んだと連絡を受けて事務所に向かった時だった。しつこいナンパ男に出くわしたが、その引き際は奇妙なほどにあっさりしていた。今日、ここに来る途中も、不調を心配してくれたご婦人がいたけれど、優奈が強い口調で断ると同じように簡単に身を引いた。
電車の中で女子高生が「目が光った」と話していた。あれは、嘘ではなかったのだ。
「前にも言ったが、吸血鬼を存在させているのは血に宿る『血の力』だ。お前は吸血鬼になりたてで、怪我を治すために血の力を消費した。元々、吸血鬼化の直後は、身体を作り替えるために大量の力が消費されてる。その状態で、更に魔眼を使って力を消費したんだろ。それでギリギリだった身体が、飢餓状態に陥った」
思い出す。事務所に辿り着いた後、帆理を見て突き上げてきた、気が狂いそうなほどの空腹感を。
『食いたいか』
あの時――その背に生やした漆黒の翼で、空から降り立った新はそう聞いた。
優奈は伸ばした自身の手を掴んで、頭を振って、自分の中に初めて生まれたその感情を頑なに否定した。
死にそうな空腹感だった。目の前の帆理の首筋に、今すぐにでも噛みつきたかった。
けれど同時に嫌だと思った。
だって、だって――優奈は――
「……私、人間じゃなくなっちゃったんですね……」
ぽつりと零す。呟きは夜の帳に、静かに消えていった。
「そうだな」
と、ややあってから新は言った。
「それでも生きてるし、俺は俺で、お前はお前だ」
その一言に、何故だか目の前が、急に滲んだ。
嘘だと思いたかった。
人間じゃなくなったなんて、一度死んで、吸血鬼になったなんて、そんな非現実的なこと、あるはずがないと思った。ましてや吸血鬼なんて、人の生き血を啜って生きる怪物になったなんて、信じたくなかった。
目の前の人に噛みついて、血を啜って、ぐちゃぐちゃに、食べたいなんて。そんな気持ち、嘘だと思いたかった。
だからあの時、優奈はただひたすらに自分の手に爪を突き立てて、首を振った。
『……そうか』
新はそう言った。淡々とした、夜のような声だった。
そうして優奈の顎を掴んで上を向かせると、その瞳を光らせて、告げたのだ。
「大丈夫だ。だからそんな――泣きそうな顔、しなくていい」
――と。
そこで優奈の意識は、一度途切れた。その後のことは点々と断片的に、霧がかかったように覚えている。
野々宮の遺体を確認したこと、警察から聴取を受けたこと。主を失った事務所は必然と閉まることとなり、優奈は無職となった。難しい法的手続きは、意外にも全て新が引き受けてくれた。優奈は弁護士資格もないし、正社員でもなく、何もできなかった。
ただ、淡々と、それらのできごとは流れていった。けれど淡々と出来ていたのは、新がかけてくれた暗示のおかげだったのだろう。きっと全てを覚えていたら、正気ではいられなかった。
自身が襲われたこと。吸血鬼化したこと。人を襲いたくなったこと。野々宮が死んだこと――
そうして日々が淡々と過ぎて、野々宮の葬儀が済んで、諸々の難しい手続きが終わって、さぁこれからどうしよう――と。新が優奈に連絡を入れてきたのは、そんな時だった。
『うちで働け』
事務所閉鎖の過程で優奈の番号を知った新は、開口一番そう言った。
お願いでも勧誘でもない。命令だった。
『……なんなんですか、藪から棒に偉そうに』
失業保険を受け取るための、謎の待機期間中。やることもなく、自宅でサブスクの映画を漁っていた優奈は、その横暴な態度に、電話越しだというのに苦虫を噛み潰した顔をしてしまった。
『お前、まだ次の仕事決まってないんだろ。長らく雑用がか……仕事の出来る助手が欲しいと思ってたんだ。丁度いいからお前、うちに来い』
『今、雑用係って言いかけましたよね』
魔眼の暗示は、直接目を見なければできない。だから優奈は、新に暗示を掛けられたわけではない。けれど何故だか、優奈はその誘いを承諾してしまった。
まさかそこが、人外専門のあやしい法律事務所だなんて、思いもしなかったけど――
いつの間に横になったのか。新は片腕を頭の支えに、縁側に寝そべっていた。いつも通りの、相変わらずのだらけ姿。
なのに今の優奈は、その姿に安心感を覚えた。
「ねぇ、新さん」
尋ねる。
「どうして私を雇ってくれたんですか?」
「あぁ?」
案の定、新は不機嫌そうに返した。
「言ったろ。雑用係が欲しかったんだよ」
「……隠そうともしなくなりましたね」
男性にしてはやや細い背中を、半眼で眺める。
ふぁ~あと、新は大あくびをした。
新は、紛れもなく吸血鬼だ。
昼に起きていられるし日の光も大丈夫と言っても、やはり主な活動時間は夜になる。朝からずっと起きていて。もうずっと前のよう感じてしまうが、今日は須崎夫婦のこともあったのだ。それ以前に、何日も莉奈に分身を張り付けていた。疲労は溜まっているのだろ。
優奈はそっと、マグカップのお茶を一口啜った。もうぬるいを通り越して、冷たくなっている。それに――
「にっが」
べ、と舌を出して、優奈は新に文句を言った。
「新さんこれお茶っ葉入れすぎですよ。それに熱々のお茶で淹れましたね? 相変わらず、淹れるの下手なんですから」
「淹れてもらって文句言うな。俺はコーヒー派なんだ」
そういう割には、初めて優奈に出したコーヒーの分量は適当だった覚えがあるけど。
優奈はパクリとケーキを一口食べた。甘かった。美味しかった。
それからまたお茶を飲む。やっぱり苦い。
それでも、不思議と笑みが零れた。
「ふふ……美味しい」
優奈はもう人じゃない。それでも人の時と同じように、美味しいものを美味しいと感じることが出来る。
優奈の瞳から、一筋の涙が零れる。
ケーキが甘くて、お茶が苦い。
優奈は、優奈のままだ。
そのことに、次から次へと涙が溢れた。
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