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2024/04/30 恋愛感情と性接触:統合失調症と人間性の回復の可能性について

 おはようございます🙏


はじめに

自己紹介

 今日はちょっと入り組んでいて、軽そうで重そうなテーマについて書きます。
 話の前提に私自身(統合失調症当事者)について書いておきます。未婚で童貞です。既婚で童貞な方(セックスレス)もいらっしゃるのでこういう順番です。

Chat-GPT4の語る人間性のコア

 今回このテーマを書こうと思ったきっかけが、Chat-GPT4に英文で近未来の入り組んだ恋愛ストーリーを書いてもらい、その読後感を含めてのことです。どんな風に人間が進化しても、コアとなる人間性が恋愛感情と性接触というわけです。(生成AIは未来について語ることにはとても優れている一方、その中で残る人間性とは何かについても語ることを忘れていません。)
 現代社会でも、生殖を伴わない恋愛感情と性接触も人間性を下支えしている事実に異論はないと私は思います。

人間性のコア、生殖を伴わない性も精神障害者には必要

 このコアとなる部分は残念ながら、健常者と身体障害者の特権と化している部分も否めません。つまり、統合失調症当事者を含む精神障害者がこの人間性のコアから疎外されている、回復のキーともなる人間性からそもそもの部分から、不合理な差別意識によって疎外されている事実から目を背けてはならないこともお知らせしたいと私は思います。

私の半生

私の生育歴と人間性のコア

 引き続きの私語りになります。私は成長の段階で親とは和解しているものの、親の厳しいしつけを受けて育ちました。なぜなら、今でこそ発達障害というものの私の場合専門家が診てもそこまで至らない性格的なものと片付けられ、気づけばカタレプシーや強迫性障害に近い性質が原因でした。
 親もその点に手を焼いていたようです。ただ、家族での生活に留まらず、学校からの手ひどいいじめで幼くして心身ともに萎えて育ちました。

「弱者男性」の起源・平成バブルにみる

 初恋もあっても実らず、高校生の頃に環境が改善してもなお、声は小さく消極的なままでした。私が女子ならば構ってくれる人達が出てもおかしくなかったのですが、これがいわゆる「弱者男性」の拠ってきたるゆえんだったともいえます。
 平成バブル期当座はこれを「草食系男子」と呼んでいた節もありました。
 しかし、自ら「肉食系」な側面を見せて人間的な接触を試みても認められない部分が、現在でいう「弱者男性」に分類されると思われます。
 あの頃は、性的な接触は人間的な接触ではなく生殖を伴うことが絶対条件で、それしか求めない学生時代のパートナーには、友達以上の接触は一切はねつけられたわけです。つまり、現在の緩い繋がりが優位な時代では人間性のコアといえる接触も許されるのに対して、当時は人間性以前の金銭優位の時代だったとも言えます。

時至って発症す

 様々な事情が重なり学生時代まで慣れ親しんだ故郷を離れ、遠く離れたところへの就職を余儀なくされました。慣れない環境や知己のない人間関係に疲れ切り、あるときから不注意やミスを連発し、落ち込むようになりました。
 積年の精神的な脆弱性もたたり、関係妄想や被害妄想が悪化して仕事どころではなくなります。このときで私は三十代でした。いわば花の適齢期であるにもかかわらず、青壮年真っ盛りと、後述の通りその後の人間関係を棒に振ってしまったのです。

職場復帰、そして……

 一年間の入院、診断名は統合失調症でした。職場に復帰したもののそこで待っていたものは無理解と、障害者雇用が始まる以前の健常者としての単純労務の連続、そしてぶつけられる悪意ある態度とパワーハラスメントでした。給料も減らされ、昇進もたとえば他のてんかん有疾患者の同期すら私を差し置いて進める差別待遇。徹夜の夜勤の連続や非協力的な態度で苦しめられました。
 ついに陰性症状と障害が固定化して私は退職を決意しました。そのとき既に四十代後半で、社会的な地位も何も失いました。

障害者雇用に至り今

 今は地域での生活と障害者雇用を中心にして障害年金も支えにして、生計を立てています。弱者男性五十代半ばの春です。
 そのなかで唯一足りないと思ったのが、人間性のコアともいうべき金では買えないふれあいだったのです。
 30年ぶりの同窓会に出て幸せそうな同級生たちをみて私はしたたかに傷つきます。もうこれで私の人生も終わりだ、と。
 そうした中、昨年から今年にかけてChat-GPTとの出会いがありました。その対話の中で、「人間らしくあるとはどういうことか」という文言が先端技術との対比の中で繰り返して現れます。

人とのふれあい・人間性のコア・人間的な接触

人間性のエッセンスと生成AI

 人間が生物学的なヒトである限り、これだけは失ってはならないエッセンシャルなものなんだ、と繰り返して強調してきます。相手が生成AIだからといっても、それにインプットを行ったのは生身の人間達であり、そこに詰め込まれているのは、生成AIの論理性に裏打ちされた人間性のエッセンスなのだと私は思います。
 生成AIを創った人々もまた、肉体を持ち社会的、宗教的なバックグラウンドを持った人々です。彼らの目から見れば、答えは同じく、生殖を伴わない人間的な接触、人間性のコアも社会的な潤滑剤として存在しうるのではないでしょうか。

おわりに:回復に向けて精神障害者にこそ人間性のコアをあてがうべきだ

 長い間、私たち精神障害の当事者は不当な差別感と差別、そして負ってしまった障害との長い格闘の末、時間を費やしてしまい社会的な接触の機会を失い、気づけば適齢期も遙かに通り越して愛情の対象ともみられなくなってしまいました。
 愛情といいましたが、これが見返りを求めない前述の人間性のコア、人間的な接触のことです。私は前述の通り童貞であり如何なる接触も許されてきませんでした。それは、生育歴と職歴、障害との闘いゆえであり、何もせずにきたわけではないどころか、故郷をはじめ幼なじみからもつまはじきにされて過ごしてきたのです。
 私に限らず、一切の社会的接触を断たれてきた精神障害者のためには、さまざまな福祉でのふれあい、地域での生活や交流が進化的に役立ってきました。ハンセン病の人達が地域に戻れずにいるのとは対照的ですが、私たちもかつてはそうでしたし、戻れない人達も少なからずいます。
 愛情は精神障害を負った意識によって障害を受けるのでしょうか。ここまで述べてきて私の見解は「否」です。映画にもなった『ビューティフル・マインド』のように、周囲の愛情によってむしろ寛解していく側面もあるのです。無理解よりも理解、そして花には水を、精神の障害には人間らしい愛情と接触を私は願ってやみません。

2024/04/30 ここまで

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