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短編【名言】小説


私は仕事帰りで立ち寄った古本屋で【日本の名言集】と言うタイトルの単行本を手に取りパラパラと捲った。一番最初に永野ながの重雄しげおの『私の悪口は全て報告せよ。しかし、言った人の名は言うな』という名言が目に入った。

永野ながの重雄しげお。戦後、日本の経済を支えてきた経済界の重鎮。その永野重雄の名言『私の悪口は全て報告せよ。しかし、言った人の名は言うな』という言葉は、私の座右の銘になった。たった今から!

深い。深すぎる名言だ。出来ることなら自分の悪口なんて聴きたくない。それなのに、永野重雄は部下や友人知人に、自分に対する不平不満を聞いたのだ。しかも誰が悪口を言ったのかなんて無粋な事は聞かない。問題は、誰が言ったのか。ではなく、何を言ったのか。にあるのだ。自分に対する悪口雑言の中にこそ己を成長させるヒントが隠されている。

『私の悪口を全て報告せよ。しかし、言った人の名は言うな』
素晴らしい名言だ・・・。

「さあ、大野くん、どんどん飲みなさい」
「ありがとう、ございます部長。あの…今日、飲みに誘ったのは僕だけですか?」

私は居酒屋『春夏しゅんか酔陶すいとう』の座敷席で部下の大野と差し向かっている。本当はもう少し小洒落たナイトバーかキャバクラに誘おうと思ったが、最近の若者はそういう所を嫌う。大衆居酒屋のほうが懐を開いてくれるだろう。いずれは大人の社交場にも連れて行ってやろうと思ったのだが、いかん、いかん。そのマウントがいかんのだ。


「いや、西部くんも、春宮くんも、清水くんも誘ったんだけど、みんな用事あるらしくて」
「そう…ですか」
「ん?何だ、君もなにか用事があったのか?」
「いいえ!無いですよ!部長、生でいいですか?」
「ああ」
「すみませーん!生ビール二つ!」
「ははは。君はいつも威勢がいいね」
「すみません、それだけが僕の取り柄ですから」
「ところで、大野くん」
「はい?」
「私のね…」

今日、部下を飲みに誘ったのは親睦を深めるという意味もあるが、もう一つ目的がある。『私の悪口は全て報告せよ。しかし、言った人の名は言うな』と言う永野重雄翁の名言を実行しようという試みだ。

「…私の、悪口を言ってる人はいないかな」
「部長の悪口?」
「誰が言ったのかなんて、言わなくてもいいから。ただ、私にも至らない所は沢山あるからね。私自身の為に言って欲しいんだ。どうだろう。私に不平不満がある人はいないかな?」
「別に居ないですね」
「いや、気を使わなくてもいいんだよ。いるだろ?」
「特には」
「そんな筈はない。何かあるだろ?私の悪口」
「んー。無いですよ、本当に」
「嘘をつくのは止めなさい。無い訳が無いだろうが」
「本当に無いですって。何なんですか?」
「影でグチグチ言ってるんだろ!私の文句を!」
「言ってないって言ってるでしょうが!」
「嘘を付くな!!」
「じゃあ、言いますけどね!」
「何だ!!」
「加齢臭がキツイって」
「誰が言ったーーーーー!!」

それだけは。それだけは言って欲しく無かったんだ大野くん。



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