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短編【真夜中のダンディー】小説

「どういう事だ!」

薄暗い湾岸倉庫の湿った空気が狭山さやまじゅんの怒号で揺れた。その声には怒りと焦りが入り混じっていた。裏切られた!こうなる事は予測がついた筈なのに!狭山さやまは自分の愚かしさを恨みつつ、目の前の男を睨んだ。男は意に介さず、おもむろにタバコを取り出し咥える。

「おい。どういう事なんだ。説明しろ」
「火、あります?」
「ふざけるな!」

男はタバコを咥えたまま、ふ、と嘲るように笑うとポケットからライターを取り出しタバコの先端につけた。そして美味そうに煙を吐き出す。

「それじゃあ、三千万、出さないって事ですね。わかりました。ただし、あの時の会話、全て録音してるって事だけはお伝えしておきます。この音源。あの連中に渡ったらどうなるか」
「お前…。最初から、これが目的で」
「違いますよ。まさか、こんな事になるとは。彼奴らも馬鹿じゃ無かった。て事ですね」

狭山さやまはその場に座り込んだ。あの目は、男のあの目は交渉する気など微塵もない目だ。追い込まれた手負いの兎をいたぶる狐の目だ。どこで間違ってしまったのか。

男が狭山さやまに話しかけてきたのは、一週間ほど前の事だった。狭山は行きつけのバーラウンジで愛人を待っていた。その時、見知らぬ男に声をかけられた。

狭山さやまさん?狭山さんですよね?」
「ええ、あなたは?」
白石しらいし先生の文化賞受賞パーティーで」
「白石先生…。ああ、半年前の」
「ええ」
「すみません。お名前が」
「いえいえ。あの時、遠くからお見掛けしただけで。私、こういう者です」

男は名刺を差し出した。

田宮たみやヒロシ」
「フリーライターをしてます。いやー、嬉しいなぁ。狭山先生の秘書の方に出逢えるなんて。今、お時間よろしいですか?」

狭山さやまは右腕に巻きついているセイコーのアストロンを見て「まぁ。10分くらいなら」とわざと迷惑そうに言った。田宮たみや狭山さやまの横に座って狭山が飲んでいたハイボールを指して「あ、コレと同じやつ一つ」と馴れ馴れしい口ぶりで言った。

「来週から告示でしょ?それなのに秘書が、こんな所で呑んでいるってコトは今回も当選間違いなしってトコですか?」
「違いますよ。来週から休みなしの戦いになりますからね。その前の休息です」
「なるほど。瀬踏み行為は抜かりなし。ってコトですね。だけど、今回の選挙。本当に大丈夫なんですか?無所属で出馬した新井あらいヤスタカ。彼の存在をどう見ます?」
「いい青年だと思いますよ。嫌味がない。」
「経験もないですよ。それで政治が務まりますかね?」
「経験だけでも務まるもんじゃないですから」
「勝てますか?狭山陣営は?」
「まぁ、最善を尽くすのみですよ」
「若者の支持が強いですよ」
「そうみたいですね」
「18歳選挙権。…内心、焦っているんじゃないですか?狭山陣営は」
「そんな事は」
「時間がない様なので率直に言いますよ、第一秘書の狭山さん。若者の三千票、買い取りませんか?五百万で」

バーラウンジで微かに流れるジャスのメロディが緊迫を和らげる。

「聞かなかった事にするから、そろそろ席を空けてくれないか」
「一票一万円が相場の票買い取りなのに三千票がたったの五百万円。相場通りでいけば三千万円はくだらない。それがわずか五百万。いくら何でも安過ぎる。そう思っても仕方ありません。だけどね、狭山さん。その三千票の出処を知れば納得するかも知れない」

危険な男だ。関わってはいけない。もうすぐ愛人の広瀬ひろせ由花ゆかがやって来る。そうすれば話は途中で折れる。それまで男の戯言を聞いてやろう。狭山はそう思った。

「この話し、持ちかけて来たのは【スキッドマーク】の頭なんですよ。ご存知ですか?スキッドマーク」
「暴走族だろう。ここら辺で有名な」
「はい。そのスキッドマークの頭、かなり頭のキレる男で、自分の配下の三千人の票をまとめれば売れる事に気が付いたんですよ。だけど、所詮ガキはガキ。相場を知らない。だから500万。これでも奴らは高値を付けたつもりなんです」
「そんな事に使う金はありませんよ」
「あるでしょう。黒い実弾を飛ばせる裏選対が」
「他所では知りませんけど、ウチの選挙対策本部に表も裏も…ありませんよ。これ以上、話す事はありません。お引き取りを」
「本当にいいんですね?本来ならそちらに流れる筈の三千票が新井あらい陣営に流れるかも知れませんよ。そうなれば向こうはプラス三千票、そっちはマイナス三千票。六千票の価値のある話をしてるんですよ?」
「話す事はない。帰ってくれないか」
「………わかりました。それじゃあ、念の為にもう一枚、どうぞ」

田宮たみやは名刺をもう一枚出してバーカウンターの上に置いた。田宮が去ったあと、狭山はその名刺をポケットにしまい込んだ。その事を狭山は後悔した。あの時、黒い誘惑に負けずに無視しておけば。

「あの後、あなたは私に連絡をしてきた。事前調査の結果が思った以上に悪かったんですよね?だから私に」
「500万。………500万で手を打ったんじゃないのか!」
「奴らもバカじゃなかった。ってコトですね。急に値を吊り上げてきた。どこかで相場を知ったんでしょう。それとも誰かが知恵を入れたのか」

田宮は意味あり気にほくそ笑む。

「…お前が?お前が、あいつらに!お前が!」

狭山は立ち上がって田宮の胸ぐらに掴みかかるが、田宮はいとも簡単に狭山を殴り倒す。無様に倒れる狭山。

「狭山さん。ああいう連中に一度でも弱身を見せたあんたに非があるんだよ。三千万。用意できたら連絡ください。それとも自殺でもしますか」

そんな度胸、アンタにはないだろう。と煙と一緒に吐き捨てて、田宮は去って行った。一人残された狭山の嗚咽だけが湾岸倉庫に響いていた。

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