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短編【パリの痴話喧嘩】小説

その部屋からはパリの市内が一望できる。ホテルの最上階から絵画のような夜景を堪能できるのは、ごく限られた人間だけだ。地上に煌めく銀河のようなパリの夜景は、時間と共に変化する芸術作品のように人々を魅了する。

しかし、その芸術的な夜景に目もくれず狭山さやま陽子ようこはスイートルームに入ってくるやいなや本革で作られたソファに不機嫌に座った。その後から申し訳なさそうに狭山さやまじゅんが入ってくる。

「あの…」

陽子ようこは赤いハイヒールを荒々しく脱ぐと床に投げ捨てる。カン、カンと乾いた音が二つ鳴ってハイヒールは撥ねる。淳は投げ出されたハイヒールを二つ拾い揃えてソファの傍に置いた。

「ワイン、持ってこようか?」

陽子はそっぽを向き赤いマニキュアを撫でる。貴方よりこのマニキュアの方がよっぽど大事よといいたげに。

じゅん陽子ようこに聞こえないように小さな溜息をついてワインラックへ向を変えた。陽子は気だるそうにバックから化粧道具を取り出してメイクを落とす。そこへ、ワイン一本とグラス二つを持って淳がくる。陽子は、そんな淳を睨み、睨まれた淳は所作なくテーブルにワインとグラスを置く。

重い。居心地の悪い重さに汚染された空気がスイートルームを支配している。その毒霧を吹き飛ばすように淳はいつもより声の調子を上げて、少し大袈裟に大窓から見えるパリの夜景を実況する。

「おお!おい、ちょっと来てみろ。すごいなー。すごい夜景だよ、陽子。あれがエッフェル塔だろ。で、あれがルーブル博物館。て事は、あれがノートルダム…寺院かな?いい部屋だなぁ。陽子、凱旋門とエッフェル塔とルーブル博物館とノートルダム寺院が横一列に、しかも等間隔に見える部屋って、パリ市内で、このホテルのこの部屋しかないんだってさ。誰が取ったのこの部屋?ああ!俺か!ははは………」

化粧を落とし終わった陽子は無表情に淳を見ている。無表情ではあるが、その下に隠された感情は明らかに苛立ちだ。

「…あれが凱旋門か。って事は、あれがシャンゼリゼ通りだね。あ、あそこら辺かなぁ陽子、さっき行った韓国料理の店。美味かったなぁスンドゥブ」
「私がなんで怒ってるのか知らないで言ってんの?それとも知っててワザと言ってんの?」

淳は、うるさいな、あれくらいで思わず呟いた。

「あ?今、なんつった?なんつったの、今?」
「何も言ってないよ」
「言ったでしょ!あれくらいって!うっさいなーって!」
「悪かったよ。言い訳はしないから説明だけさせてくれ」
「言い訳はしないから説明だけさせてくれ…。政治家らしい言い方ね」
「僕は政治家じゃないよ」
「分かってるわよ!説明しなさいよ!さあ!」
「確かに、パリまできて韓国料理のお店を予約したのは僕が悪い。でも君は三日前に『久しぶりに韓国料理でも食べたい』って言ったじゃないか。だけどそれは三日前のリサーチだ。もう一度、確認しておくべきだった。けど僕からしたらサプライズのつもりだったんだ。それで君が機嫌を損ねたのたら、僕は謝らなけれならない」
「謝らなけれならない?何よその言い方。ホントに政治家みたいね!」
「僕は政治家じゃないよ」
「分かってるわよ!皮肉で言ったのよ!」

陽子はソファの傍に揃えて置いてあるハイヒールを一つ取って淳に投げつける。ハイヒールは淳の腹部に当たり、ぽとりと落ちた。後ろの窓ガラスに当たらずに良かったと淳は思った。

「第二秘書の吉野よしの君、政策担当秘書に昇格したそうじゃない」

淳の顔色が少し変わった。それは言われたくない事だった。

「…何で黙ってたのよ。何で、あたなの口からじゃなくて他の人から聞かなくちゃいけないの?…吉野君がお義兄さんの事務所に来たのって、たしか十年前よね?初めはアルバイト秘書だったのに直ぐに私設秘書になって。去年でしょ?政策担当秘書資格試験に合格したのは。一発合格だったそうじゃない。あなた、何年受けてるの?」

その話は止めろ。そんな事を言っても陽子は止めるような女じゃない事は淳は重々知っている。

「お義兄さんのお情けで第一秘書に収まっていたって事がバレちゃたわね。たいした才覚もないのに。同じ兄弟なのにどうして、こうも違うのかしら。頭の良さもルックスも、将来を見通す力も心根も、あの人のほうが全てに於いてアナタよりも上。…本当の事を言おうか?私ね、大学時代からあの人の事が好きだったのよ。自分の将来の様に日本の将来を語るあの人が好きだったの。でも、あの人の側には別の人がいた。だから、アナタに近づいたの。アナタがあの人の弟だったから!アナタに抱かれながらもあの人の事を思っていたわ。アナタと結婚して二十五年。どうして子供が出来なかったと思う?…ピルを飲んでいたのよ!アナタの子供なんて欲しくなかったから!」

優子はグラスにワインを品なく注いで一気に飲み干した。

「君の言う通りだよ。僕は無能だ。兄貴の口添えで公設秘書にしてもらっている。それは否定しない。…君に隠していた事がある。僕はずっと浮気をしていた」
「浮気?どうゆう事」
「黙れ!」

優子は淳の怒鳴り声を初めて聞いた。それは出会ってから二十五年間で初めての事だった。

「…今度は僕が喋る番だ。九年になる。気がつかなかっただろ?女の勘も当てにならないな。本当はその女とこのホテルに泊まる予定だったんだ。だけど、直前に別れた。だから最後の旅行に君を選んだんだ」
「最後って、どういう意味よ」
「そのワインには毒が入っている」
「え?!」
「君のワインじゃないよ。僕のワイングラスの中にだ。僕はこの旅行を最後に自殺するつもりだった」
「自殺?ふふふ。女と別れたんじゃなくて、ふられたんでしょ?それで自殺?あははは」

淳は陽子が嘲笑っている姿を冷たい視線で見詰めている。

「あはは………なによ…なに黙ってるのよ…気持ちの悪い…」
「そんな事で死にはしないよ」
「じゃ何よ」
「知りたいか?だけど君に教える必要はない。何故なら君もこれから死ぬんだから」

淳はソファに座っている優子の背後に回り込んで、優子の両肩に手の平を当てる。

「ちょっと、触らないでよ」
「僕だけが死ぬ予定だったけど、君も殺す事にしたよ」
「ちょっと、まって」
「ピルを飲んでいたのか。僕がどんなに子供を望んでいたのか、知っていながら君はピルを飲んでいたのか…」

淳は陽子の肩に触れていた二つの手の平で素早く首を挟み込み、力を入れる。もう、後戻りは出来ない。

「ちょっ……」
「ピルを!そんなものを!君はどこまで僕を馬鹿にすれば気が済むんだ!」   

十分か十五分か。力を出し切るまで淳は陽子の首を締め続けた。淳は陽子の死を確認するとパリの夜景を見ながら毒入りワインを飲み干した。エッフェル塔の電飾がシャンパンの泡のように煌めいて消えた。それがじゅんが最後に見た光だった。

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