自分のこれまでを通して、平成を振り返る ~令和への序章~

自分のこれまでの30年間など、振り返ったこともないけど、敢えて挑戦。

1989年は、当時、9~10歳。小学校4年あたり。ぬぼーっとした小学生だったように思い出す。

親の財布から金を拝借して、よくゲームセンターで遊んでいた。そして、よく見つかって200往復ビンタを頂戴していた時期だ。

中学生になって、部活動のおかげでゲーセンでの遊びは修了。そして、部活動と塾の往復で3年間が過ぎ去る。

とにかく恐ろしい塾で、みんな恐れながら、恐怖心で学力を向上させてしまう危険な塾でした。

お陰様で、地元の進学校へ進みましたが、緊張感が抜けて、最低クラスの成績を3年間保持してしまいました。

ちなみに、奥さんは、この時の3年生の同級生である。

ギタリストを夢見たせいか、一年間浪人して、東京の大学へ。

サークルでバンドみたいなことを楽しみつつ、一応、ゼミに入った。

ここで、生涯の友人に出会う。

彼のおかげで、これまでに想像も出来なかった人たちに会う機会を得た。共に過ごした学生時代は本当に刺激的だった。

彼の影響を受けて、ミュージシャンへの夢は捨てて、ビジネスの世界で生きて行こうと決める。

4年時に、友人が立ち上げた会社に参加したが、自分が何もできないことに恐怖を覚え、脱退して、とあるベンチャー企業へ入社した。

しかし、事務方に入ってしまい、ここでは相当苦労したが、ある意味、マネジメントを担う事業部だったので、企業を外側から、内側からと両サイドから見る視点を培うことになった。

営業部のように、数字ですべてが決まるという単純な世界でなかったが、人は何を持って人を信頼し、信用し、そして任せるのかという人間模様を垣間見ることで、組織内における出世の仕方を理解した。

主に、企画で自分の能力を発揮するしかなかったので、企画しまくって、自分のポジションを構築した。グループ内のM&Aや、新事業の立ち上げ、IR広報、新卒採用・研修など、いろんな経験をした。

しかし、何か直接的に結果が出せる場所ではなかったので、営業部へ転属。しかし、ネット広告(主にモバイル)のREP(代理店に卸す会社)だった。

またも間接的な仕事、嫌になった。

その時、丁度、両親が衰えて見えてきて、家業を継ごうと決意。いや、逃げる理由を探していたのかもしれない。結果が出せない現状から。

そして、退職。最終的には稼ぐことが(利益を輩出)できたので勇気づけられた。

帰って継いだのが、カメラ屋(いわゆる写真関係をなんでもやる総合カメラ屋)だった。

根性で仕事をマスターできると思い込んでいたので、仕事を始めた時には、この仕事の複雑性に戸惑った。マニュアルは一切なく、全てが感覚的な作業ばかりだった。

まずは仕事を覚えることから始める。

接客は簡単だった。もともと、人が何を言っているかを汲み取るスキルは圧倒的に高かったからだ。

なので、物販は楽勝。

しかし、参ったのが、写真を作る作業。撮影、補正、修整、いろんなものが初体験で苦悩した。

そして、親は教え方は分からない様子だった。当然だ、彼らも教えてもらって創り上げてきたわけではない。ツギハギで組み立てたビジネスモデルに設計図など存在しなかったのだ。

とにかく、父親のクオリティを基軸に、それに追いつくように勉強しまくった。知識も貪ったし、研修も片っ端から行った。そこで得た情報やノウハウをツギハギしながら、独自にスキームを組み立てなおした。

何よりも、この写真業への姿勢(スタンス)の構築が一番苦労した。

親は、「儲かるからやった」という姿勢だった。別に写真なんか好きでも何でもないそうだ。

そこに私は困った。

これまでは、思想とかビジョンとか、ゴールとか、そういうのを考えながら走ってきたからこそ、それが無いことに閉塞感を感じずにはいられなかった。

そこで、協会・組合に参加して、同業者はどうしているのかを調べた。そしたら、同じような感じでこれまた失望した。

そこで、自分なりに、何かを掴もうと、いろいろ挑戦。お店を改装したり、撮影業務に専念したり。カメラ屋から写真館への転身を図ったり。

でも、やはり「好きでもない仕事」にはモチベーションを維持する力はなかった。ここでやる気がゼロベースに。

そんな時に、丁度結婚した。結婚を隠れ蓑に、仕事への情熱が消えたことを忘れようと無心で毎日仕事だけしていた。

しかし、そうは問屋が卸さないわけで、ドンドン業績は落ちるわ、仕事でトラブルが連発するわ。まあ、これは私の問題ではなく、当時一緒にやっていた兄や父のコミットメントの顕著な低下が招いたものでもあるが。

そんな中、社長である私がその責任を責められ、何かしら上手く行かない理由を私に擦り付け始めた。

私は、そのころ、ある程度仕事には慣れて、両親の次元など遥かに超えた領域で仕事に取り組んでいた。だから、全部責任を押し付ける姿には参った。クソくだらないと、完全に見下した。まあ、相手にもしませんでしたが。

そんな中、「そうは言っても、全て自分のせいである」と自分を完璧に否定することで、これからどうやっていくのかを真剣に考えるようになった。

クソ高い勉強会にも行ったし、クソ安い勉強会にも行った。詐欺みたいな内容の勉強会もあれば、嘘のように素晴らしい勉強会もあった。

しかし、どの勉強会も「やるかやらないかはお前次第。自己責任だぞ」みたいな「自己否定的な学びの場」が多かった。

ああ、もうこれ以上はダメか。。。と絶望に近い現状にうなだれていた時、ある一人の存在が当時の私を変えた。

そのお方は、私の中のカメラ屋に対する概念をひっくり返した。そして、狭量で未熟な商売への視野を広げ、多くの視点を与えてくれた。何よりも、自己を否定しながら、受け入れて、肯定的に思考するという考え方まで学ばせてくれた。おかげで10年くらい先が読めるようになったし、自分がどうしていくべきかを自分で考えられるようになれた。

富山に帰って、仕事は、その内容は全然変わってはいない。しかし、その仕事への向き合い方や取り組み方は劇的に変わった。そして、これまでなんとも思わなかったお客さんに対する見方が、大きく変わり、同じ人間としての共感を感じるようになれたし、人の人生のようなものを共有できるようになってきた。

そして、今、私はこうやって、自分で思考し、自分で創造し、自分で実行している。意識的に、能力を総動員しながら。

毎日が、エキサイティングかつ困難に満ち溢れているけど、そこには不安や恐れがなく、自分自身をどう使いきれるか毎日が挑戦となっている。

人生、充実などしているのかどうか分からないけど、常に思考し、行動し、得たものを表出していくプロセスを欠かさない毎日に不満はない。別に幸せでもないが。ただ、自分が使えることにエキサイトしているくらいだろうか。

そんな感じで30年間がワーっと終わっていった。

最初の15年は学生、残りの15年は社会人。そのうち、最後の10年は経営者として時間を経験した。

20年間、自分を試したり、遊んだり、傷めつけたり、おだてたり、けなしたり、いろいろやりながら、独立心・自立心を高め、次の10年間で時代に合わせて矯正しながら、これからの30年に備えられる人間へと持ってきたのが平成30年だった。

平成とは、自分の中におけるマイニング(可能性の深堀)作業のための猶予期間だったように感じる。

ということは、これからの「令和」においては、マイニングを一段落終えて、能力を総動員して、実力を完全に試す時代となるはずだ。

10代は、青く、そして鮮烈な苦悩に満ち溢れていた。

20代は、まぶしく、初めて自分の可能性を感じれる活躍をした。

30代は、ここまで自分が無能とは分からなかったとうなだれながら、それでも諦めきれずに自分を鍛え続けた年月だった。

40代手前、今は、自分を無能とは思えないほど鍛え上げた自分を感じる。楽しみである。

平成から令和へ。

つまり、「激変のように見えて、変わらなかった」時代が終わり、「変わらないように見えて、激変していく」時代が始まりを告げる。

自分としては、令和を通して、左脳と右脳が同時に思考できるように自分を仕上げていきたいと目指すことにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?