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進路を変える日、揺れ動く【23卒・文系】

こんにちは。高校5年生です。

400回目の記事『祝!400回目投稿 ありがとうございます。』で進路についてお話ししたことがありますね。今回は進路を変えることをお話しします。ただ、また企業さんの選考が続いていることもあって、かなりぼかした言い方になりますことをご了承くださいませ。

大学1年生のときから就きたかった職業がありました。それを募集している企業は狭き門ですが複数あるので、受けられる企業さんの選考は受けさせてもらいました。その結果、今のところどこからも内々定をいただくことができておりません。
書類選考が通らないとか、適性検査が通らないとか、1次~2次の面接が通らないとかであれば「そもそもこの職業が向いていなかったのか」と諦めがついたかもしれません。確かに書類選考が通らなかった企業さんもありましたが、一方で3次選考や最終選考に呼んでいただいた企業さんも複数ありました。ですから「あ、私向いていなかったんだ」と気持ちをすぱっと切り替えることができないのです。527回目の『進路に悩むと、もうそのことしか考えられなくなります。』という記事でモヤモヤしていたのは、それが理由です。

けれども現実を見ると、最終選考まで呼ばれていながら内々定がいただけなかったのです。私がその職業に向いているなら、最終選考に通過したでしょう。最終選考に顔を揃えた優秀な学生さんの中で、私は「絶対に採りたい人」ではなく「他を残したいから落とす人」であったわけです。もう貯金もそれほど余裕がないので、交通費がかかる就職活動を続けていく見通しは立ちません。

昨日、その職業に就いている社会人の方とお会いして、お話を聞かせていただきました。大学の卒業生ではないので正確にはOB・OG訪問ではないのかもしれませんが、そういうイメージで結構です。話してみると、私と全く違うタイプの方でした。考え方も、行動力も、計画性も桁違いで、「そりゃこの仕事就けるよね」と思いました。その方と自分を照らし合わせると、これまでなりたい一心で色んなことをやってきたにも関わらず、到底及ばないと感じました。この職業を諦めるのが自分にとって自然でした。

しかし諦めるとなると辛いことが2つあります。これがあるせいで、私はすっぱり志望を捨てることができません。

1つ目は、今ここで志望を捨てることはこれまでやってきたことが報われる機会を自らなくすことだと思うからです。やってきたことが無駄になるとは言いたくありません。巡り廻って何かに役立つ可能性があるからです。けれども私が学生時代に積極的にやってきたことは、この職業に就くためであったので、この職業に就くことができなかったら目的は叶えられなかったことになります。
こう言うとずるい人間みたいですが、実際ずるい人間なので言います。私が在学中に立候補して始めた委員会活動やサークル、ボランティア、資格の取得、卒業論文の執筆その他もろもろは、この職業に就く上でアドバンテージになると思ってチャレンジしました。ですからエントリーシートや面接では「挑戦したかったから始めた、取り組んだ」と言っておりますが、実際は「エントリーシートや面接でのアピールに有効だと思ったから始めた、取り組んだ」が正解です。委員会やサークルに参加していた方には大変申し訳ないのですが、私は活動自体をやりたかったわけではなかったような気がします。1年生の最初から色々な方面に飛び込んだお陰で、コロナ禍の就職活動にも関わらずガクチカや自己PRには困りませんでした。それでも志望を変えることになった今では、「何のために無理してこんな経験積んだんだろう」と悲しく振り返っております。最初から志望がなければ、他にしたいことがあったからです。とは言えそれは、受験に落ちた後で「受験しなければ遊べたのに」というようなものかなと思います。

2つ目は、人生で2度目の失敗体験を作ることになるからです。1度目は大学受験でした。ポジティブに考えれば正々堂々と受験して、精一杯やって結果が出たならそれで良いじゃないかと言えます。それはそうなのです。そうなのに、なぜか私は納得できません。見栄を張ってしまっているからです。失敗したと認めたら、自分にそれだけ価値がないと認めることになります。それが怖いのです。今まで他の人とは違った、変わった人生を送ってきました。そのせいで嫌な思いをしていた時期があります。しかしそれを乗り越えられたのは、将来必ずこの個性が生きると信じていたからです。変わっている私は、変わっていることにそれなりの理由があるのだと信じていたからです。もしここで2度目の失敗体験を受け入れてしまったら、私は単なる社会のはみ出し者で、何の役にも立たない変わった背景を持ち合わせているだけになると思うのです。自分を肯定するものがそれだけだったということですね。「他の人とは異なる視点で社会に影響を与える人」の可能性を秘めていたところから、「普通でないところを他の人に合わせながら何とか生きていく落ちこぼれ」になるような感覚です。そもそも「他の人とは異なる視点で社会に影響を与える人」の可能性を本当に秘めていたのか、という問題はありますが、少なくとも私はそう信じておりました。信じていたからこそ、人と違うことで辛い思いをしても「必ずこの性質のメリットが生きる日が来る」と自分を否定せずに済んでおりました。けれども答えは目前に出ております。私はただの変わり者で目指す社会人になれるはずもなく、自分を過大評価していると。これを受け入れるのはとても怖いです。もっと気持ちをさらけ出せば、「私は真面目に生きてきたし、それなりの将来に辿り着ける努力はしてきた。なのにどうして目指していた道に近づけないのだろう」。こういう気持ちです。失礼を承知でもう1つ言葉を加えるなら、周りの方と比べている自分もおります。「私よりもっと学生生活楽しんでいて、希望の進路も叶えている人がいる。授業態度が不真面目だったり、ルールを守らなかったりとちゃらんぽらんに生きているように見えるのに、私と変わらない内々定をもらっている人がいる。私と彼ら・彼女らでは、何が違うんだろう」。隣の芝生が青いだけだとは分かっていても、そう考えてしまう自分が憎いです。きっとその人たちは陰で努力していたり、私がしていない経験を積んでいたり、早期から現実を見極めて自分の身の丈に合った進路を選んでいたりしたのでしょう。それができなかったから今、こういう結果になっております。理解できない、納得できない自分が人として歪んでいる気がします。

受け入れたつもりでいても、夜眠れずに涙が止まらなかったり、日常でふと現実を思い出して胸が締めつけられたりします。これは自分自身、受け入れていない証拠ではないでしょうか。悔しい、でもどうしようもない、どうすれば良いかは分かっているけれど気持ちがついていかない。そんな風にふらふらしております。ふらふらしている状態が1ヶ月近く続いているので、その間に受けた選考の通過率が以前よりも良くないように思います。早いとこビシッと気持ちを固めてしまいたいです。

以上、「進路を変える日、揺れ動く【23卒・文系】」でした。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

次の投稿でお会いしましょう!