感情の封印の解除と理性の覚醒

大仰な題名にしたが、ごく個人的な話。読んでもよくわからないと思うのだけど、個人的なメモ。

MacBook Airのテキストエディットを開いたら、一番新しく書いた文章が9月29日の「ランドリオール」の感想だと言うことがわかった。その前に書いた文章は9月8日。ここのところ文章を書いていないなあと思ってはいたが、こんなに間が空いていたとは。しかしだからなんだろう、文章を書くことに新鮮な気持ちを感じている。

8月末に思いがけないことが起こってそのためにずっと気を張る忙しさが続いていて、それでもすこしずつ仕事の方も軌道に乗って来て、ようやく少しはこういう文章を書く時間と心の余裕も出て来たという感じなのだが、もう10月23日。2ヶ月近くこんな感じが続いていたのかと思うと空恐ろしい感じがする。

ほぼ全力で走っていた感じなので、自分自身の輪郭のようなものがわからない感じで、文章はブログだけでなくツイッターもあまり出来なかったし毎日朝書いてたモーニングページも普段なら半月でノート1冊書いてしまうところを2ヶ月でようやく1冊終わったし、気がついたら数日間書いていなかったということもちょくちょくあった。

こういう文章を書くということは自分を客観視することになるわけだけど、突っ走っているときというのは下手に客観視をしない方がいい時もあり、多分まあそういうことであまり自分自身を振り返らなかったのだろうと思うのだが、ただそれでいつまでも走り続けることは出来ないので、文章を書くことでそれが出来るといいと思うのだが、走り続けているときとあまり動かないときとでは客観性のあり方自体が変わって来るところがあり、今の状態にふさわしい客観性というのがどういうものか、やや試行錯誤の点があるのではないかと思う。

思ったのは「自意識」の問題なのだが、暇なときは自意識というものは肥大するもので、私の場合は忙しくなると自意識よりも直接的な感情の方が出て来る感じなので、忙しいときは自意識もへったくれもない感じもあるのだけど、余裕が出て来ると自意識との付き合いが面倒になって来るというのは、そういうのを「小人閑居して不善を為す」というのだろうなと思ったりする。忙しい時に自分の感情をコントロールしている(しそこなうことも多いが)のはスーパーエゴなのか、自意識と関係ある何かなのか、理性と言われるものなのか、理性というものは、多分忙しくないと出て来ないものなのではないかなと思うところがあり、おそらくは感情を制御するために存在するものなのではないかと思った。

暇な時、余裕がありすぎるときは自分は感情が動かないところがあったのだなと思う。凍結されていたと言うか。1998年に離婚し1999年に仕事をやめてから、感性は磨こうと思って来たけれども、基本的に感情は封印して来た感じがあって、もちろん動くときは動いていたのだけど、自分の能力をフルに使っていないときというのは、感情もあまり動く必要を感じていなかったということなのかもしれない。

8月末の突発的な出来事から、正直自分の持てる力をフルに発揮せざるを得ない状況がずっと続いて来て、その中で感情がかなり動くようになって来たから、それに応じて理性もまた機動的に動くようになって来たということなんだなと思う。

それでは自意識というものは一体なんなんだろうと思うのだけど、私の場合はやはりフルに動いている自分の代替物のようなものなんだろうと思う。フルに動いているときは出来ることと出来ないことが割合はっきりしているし、無理したら危険に陥るからそこの制御も感覚そのもの。これは意識というものとは違う感じがする。意識というものはむしろスタンバイの状態の時に必要なもので、つまり自分が能力いっぱいのフルに動いていないときは、自分の中にスタンバイの部分が残っていて、そこに関係して来ることなのではないかと思った。

つまりこの忙しさの中で、感情の封印が解けた部分があり、その中で理性もまたそれに伴う感じで覚醒して来て、自分の形、あり方というものが大きく変化しつつある、ということのようだ。

そういうことを把握するためにも、やはり文章は書いた方がいいと思った。文章はかなり自分の場合は自意識のあり方に関係していることが多いので暇な時に書くと自意識ばかりと向き合うことになってそこで自家中毒に陥っている部分があったなと思うが、忙中閑ありのときにこうして書いてみると、自分の今の様子が見えて来たりする部分はあるのだなと思った。


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