「非主流スター」としての小澤征爾さんとN響事件/年賀状の整理/ジャンププラスの「ピアス」がとてもよかった/紫式部の同世代の歌人相模の家系

2月13日(火)晴れ

起きた時よりも寒い、6時の気温でマイナス6.0度。今朝は3時過ぎに起きてしまい、一度寝床に入ったが眠れなかったので3時40分に起きた。その後、普段ならブログの内容を考えたり大局的なことを考えたりするのだが、今朝は投資内容の履歴とかを調べ始めたり法事の準備など実務的なことを考えていたらペースが狂ってしまい、いくつもボーンヘッドをしてしまった。やはりその仕事をやるのにふさわしい時間帯というのはあるなと思う。早朝に実務的なことをやっていると残業を片付けているような気分になってくる。

それでもゴミを集めたりいつもやってるようなこともやる。朝は車のフロントガラスが凍結しているので少し暖機して窓に温風を当てるのだが、10分はかってエンジンをかけたのに室内を暖めてしまってフロントの凍結は融けていなかった。こういう細かいミスっぽいことが多い。改めてウィンドウに温風を切り替えてタイマーを5分にしてしばらくネットを確認していたがなかなかタイマーが鳴らないので見てみたら「開始」をタップするのを忘れていた。もういいやと思って車に行くともう凍結は融けていたのでそのまま出かけ、ゴミを出してセブンへ行く。

セブンでジャンプとスピリッツを買い、たまには奮発するかなと思ってブルーマウンテンを注文したのだが、もう終了してますと言われてレギュラーになった。モバイルSuicaの入っているガラケーをカバンの中を探したが出てこない。最近よく充電器に起き忘れるので、またやったようだ。仕方がないからクレジットカードで買う。コーヒーは、やはり味は値段に比例するよなとは思った。

昨日は懸案になっていることをそれなりに片付けたつもりだったが、最大のものは年賀状の整理だった。お年玉年賀はがきが当選しているかを調べたが、今年は69番から00番に集中していたけれどもみたところ4枚切ってシートが当選していたようだった。刷り損ねたり買ったけど使わなかったりした葉書が00番のものがいくつかあり、まあそうなると「お年玉」という感じでもないが、まあ最近にしては当たった方かなと思う。母の手元にも何枚か当たったのがあるらしいので、最近にしては大収穫ということになるか。そのほかのタスクは必要な書類などを集めてくるレベルのことをやった感じだった。

かなり遅くなってから書店に出かけて「神武天皇の歴史学」を探したが、ないようだった。スーパーで夕食の買い物をして帰った。マグロの鮨が安くなっていたので買ったのだが、どうも食べ過ぎた感じで、朝起きたときにちょっと食べ過ぎ感があった。まあ美味しかったから良いのだが。


Twitterを見ていたら「少年ジャンプ」がトレンドに入っていて、その中にジャンププラスに掲載された「ピアス」という作品の感想があり、読んでみたのだがとてもよかった。

内容は言葉で説明すると陳腐な感じになるので読んでいただければ良いのだが、読者コメントにもあったけれども「普通のおばさん」が主人公になることはジャンププラスでは珍しい。というかそういう層の人たち向けのサイトではないからなのだけど、そういえば「計算手」と呼ばれる今はない仕事の女性たちを描いた「続く道 花の跡」という作品があったが、これもまた年配の女性の回想の話ではあるけど、思い出と現在が直結しているという点では「ピアス」とは少し違う。

こういう、普通の意味で「良質な」作品が思いがけず出てくるのがこのジャンププラスというサイトの侮れないところで、やはり集英社の力、少年ジャンプの力というものは大きいのだなと改めて思う。


私はみていないのだが(録画はしているのでそのうち見るかもしれない)「光る君へ」の感想がタイムライン上によく現れてきて、「紫式部と清少納言は実際に会っているのか」というテーマが議論されていたのだが、「神作家・紫式部のあり得ない日々」では出会わないことになっているけれども「光る君へ」では出会っているということになっているようだ。

これはつまり、皇后定子が存命の時期と紫式部が中宮彰子の下に出仕した時期にずれがあるからなのだけど、「出会っている」という説では定子の薨去後も娘の脩子内親王に仕えていた、と考えているようだ。この内親王は「枕草子」の伝来に役割を果たしたという説があり、また歌人の相模が仕えていたということでも知られているのだという。

相模は実父はわからないが養父は鬼退治で有名な源頼光で、摂関家に仕えた武家貴族である彼は正四位下まで昇進し昇殿を許されているが、彼が仕えているのは道長なので相模が中関白家の所生の内親王に仕えた経緯はどうだったのだろうか。

相模の母は慶滋保章の娘とあるが、この氏姓は平安時代に時々見るけれどもどういう系統なのかと思って調べてみたら、保章には慶滋保胤という兄がいて、彼らの父は賀茂忠行なのだが、陰陽師の家系だったのにそれを捨てて紀伝道を志して「賀茂」を読み替えて「慶滋(よししげ)」にしたとあり、つまりは賀茂朝臣氏の系統なのだとわかった。

平安時代の歴史も分け行っていくと色々と面白いのだが、庶民レベルで平安中期に古代集落が消えて住居遺跡なども少なくなっていく変化とこういう中央での政治とがどのように関わっていくのか、というあたりもわかると面白いのだがなあと思った。


小澤征爾さんが亡くなられ、小澤さんの「ボクの音楽武者修行」を読み返してみようかなと本棚を探したら、これを含めて関連本が4冊出てきてこんなに持っていたのかと驚いた。私は小澤さんのそんなに熱心なファンではないので。しかし関心はあったのだと思う。ただそれは小澤さん自身というよりは「音楽家」「指揮者」というものに関心があり、外国の音楽家は伝記を読んでもピンと来ないことが多いので、日本の音楽家で代表とも思える小澤さんの本を買ってみた、というところではないかという気がする。

しかし考えてみると、小澤さんを日本の音楽家の「代表」ーサンプルという意味でーと考えていいのだろうかと思えてきた。小澤さんは藝大ではなく桐朋の出身だし、バーンスタインの元に飛んだりカラヤンの弟子になったり、とても行動的だ。藝大出身の典型的な音楽家、とは違う感じがする。

これは新古今和歌集の時代の代表的な歌人を西行だと考えたり戦前の代表的な詩人を宮澤賢治だと考えたりするのと同じ感じではないかと思った。新古今のいわばアカデミズムは定家に代表されるもので西行の平明で切実な歌風とは違う。宮澤賢治も生前は詩集を一冊出しているだけで、戦後になって谷川徹三に発見された存在だ。生前から知られていた例でいえば野口英世も似ているかもしれない。帝大医学部出身でなくアメリカで成功したが日本で受け入れられずアメリカに戻って死んだ。そういう悲劇的なラストでないことで言えば村上春樹さんも似ている。文壇主流に認められないまま世界的な作家になった。

私などは音楽の世界をほとんど知らないから昔はこんなものだったのかと思って「ボクの音楽武者修行」を読んでいたけど、考えてみたら昔でも小澤さんのようなタイプは少ないのではないかと思ったのだった。

そのようなことを考えながら、小澤さんと東京藝大との関係などを調べていたら、「N響事件」というのが出てきた。

これはおそらく、小澤征爾さんの音楽をずっと聴いてきた人にとっては有名な出来事だったのだろう。学閥がそれ以外から出てきた人に対し否定的な行動を取るということに関しても珍しくはないが、小澤さんをボイコットしたN響に対し、石原慎太郎、浅利慶太のほか、三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹といった当時の若手藝術家、文化人たちが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響とNHKに対して質問状を出すなど、社会問題となっていったというのが小澤さんにとってラッキーだったということになるだろう。

結局最終的には吉田秀和、黛敏郎らの仲介で手打ちになっても小澤さんは日本には残らず、次の日にはアメリカに戻っていて、その後日本以外の場所で活躍することになったのは、野口英世などと同じパターンだったということになる。

小澤さんはその後海外で華々しい成功を収めたが、その後N響と共演するのは1995年になってからで、30年経ってメンバーも入れ替わり、小澤さんに対するリスペクトも当時とはようやく変わったということなのだろうと思う。

藝大出身者か否かによるアーティストの扱いの違いについては美術の方では認識はしていたのだが、音楽でもやはりそうだったのだなと改めて思ったのだった。こういうのは変わりつつはあるのだろうか。


いろいろやらなければいけないタスクが多くあって、なかなか手をつけづらいものもあり、そういうものをどう扱うかについて考えていて、それぞれのタスクの物理的な障害の面と、心理的な障害の面の両方から考えて整理し、どういう順序でこなしていけばいいか、どのように障壁を乗り越えればいいかなど、ちょっと考えてみたら面白いのではないかと思ったのだが、時間がないので今日はこのくらいで。

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