ネタバレ注意!
正直、大嫌いな言葉です。「ネタバレ」
いつから言うようになったのかなあと。神経質になったのは当然インターネットが普及してからです。それまで即時性のある「発行」「発信」できるのはテレビや新聞という「マスメディア」に限られていて、そこでは複数人がその情報を世に出すべきかを見張って、また良心の元に行動して発信していたからそこまで我々受信者が神経質になることはなかったです。
でもインターネットが普及して世の中の誰もが「発信者」になることができるという激変の中で、個人が、より過度に露出することで、その人気?を得るということになって、そこで「ネタバレ」という言葉が遣われ始めたのだと思います。
しかし、「ネタ」というのは「タネ」の倒語でして、「飯のタネ」みたいな意味で遣われる「タネ」をシャレでひっくり返した言葉です。
そこまで深い意味はない。重ねていえばそういう「洒落」を使うのから見てもそもそも「笑い」の世界の中で用いられた言葉なんですよね。
で、調べてないので想像の枠を出ないんですが、「鮨ネタ」というのもきっと「軽く一口で職人から運ばれる」から「ネタ」という言葉が残っているんじゃないかと思います。「今日の刺身のネタは」とは言わないですものね、少なくとも僕の知っている範囲では「お椀のネタは」とかも言われたことはないです。
そういう「軽さ」と「洒落っ気」が倒語として落語などの「笑い」の中に残っているのが僕の考える「ネタ」です。
2時間すべての中に心血を注いで作り上げたものを「ネタ」というのはどうしても軽い。(もちろん落語で2時間超えるものもあるけれどもそれは彼ら自身が「ネタ」と洒落て言っているだけで)
言葉の軽さにどうしても思い出すエピソードがありまして
二十数年前です。博多のちょっとした割烹というか、和服を着た女将が一人でやっているカウンターだけの小料理屋に行った時の話です。
その時は著名な油絵画家の方と飲んでいました。とある話をしている時に「この作品はパクリですよね?」と僕は画家に話しました。すると女将がスッとカウンター越しに入ってきておっしゃられました。
「どうして貴方、そんな汚い言葉を遣うの?」
かなりショックでした。「F※※K」とか「S※※T」とかではなくて当たり前に話しているはずの言葉、通常はできるだけ綺麗な言葉を話そうと思っているはずなのに、女将にたしなめられた。古くて狭い店だったけれども、僕はその店にいるだけの「品」を持っていなかったと感じました。
よく「万引きは窃盗です」というコピーを見かけますが、「万引き」という言葉の軽さに対する意識改革ですよね。「パクリ」もその軽さが意識としての軽さにつながる。「半グレ」や「反社」も言葉を短縮する時点で江戸でいう「シャレ語」の部類に入るので言葉は意識として軽くなる。
そんなこんなでクリエイターの熱量、それまでにかかった時間や努力を考えると、できたものを簡単に「ネタバレ」と言ってしまうことに失礼を感じないという現状にものすごく違和感があるのです。
言葉をよく知っているはずの方達ですら遣っていますからね。もちろんもはや共通語として認知されてしまった感はあるので、4音で分かりやすいから便利に遣うと
いうのは言語の変化を考えても仕方ないのだろうけれども「こだわり」と同じくらい遣いたくない言葉であります。
さてようやく本題です。ネタバレです。
「君たちはどう生きるか」のお話です。
前回こんなことを書いています。
これを書いた後に関連で出てくるものだから色々とパトロールしました。「メタファー」という言葉が結構よく出てくるけれども今作は「メタファー」というほどの修辞、置き換えという感じはしてないです。上記の「シーン」の話に付け加えるような感じですが「メタファー」という仰々しい言葉(遣いたい気持ちはわかる、僕も遣いたい)よりは「出演者がめちゃくちゃ少ない演劇」で「役」をやっている感じです。ひとクラス40人くらいいれば配役は分担できるけど10人くらいしかいないから「桃の役、その次はキジの役、その次は村人」とか、その場面に合わせてあくせく着替えて一人何役もやっている。という感じじゃないでしょうか?
またシーンを重ねていく中で「役」を演じていく人が異なる、そんな演劇だからそれぞれの登場人物に整合性が取りにくい。だから混乱する。シーンごとを断片として楽しめれば楽なんですけどね。
でも、そんな中でも引っかかったのがペリカンなのです。
整合性なくてよい。シーンの連続なだけで、とは書いたけれども、どうしても引っかかることがあって。
ペリカンは自分の胸を刺してその流れた血をヒナに飲ませるという自己犠牲の象徴の鳥なのです。この伝説はギリシアからローマに引き継がれ、その双方の文化を吸収したキリスト教に引き継がれ、自己犠牲の象徴としてのキリストと同一視されるシンボルとなります。
この絵の十字架の上の巣にいるのがペリカンで胸をつついた血でヒナを育てています。もはやキリスト由来のシンボルとも言って良いような感じになっています。
この自己犠牲がのシンボルであるペリカンに言及している方は、今回見かけておりません。(もしかしたら書いている方もおられるかと思いますが見つけることができませんでした。すいません)宗教観を持ってこの作品を語るならばこの「ペリカン」は絶対に見落としてはいけないんじゃないかと思いました。
しかもこの「キリストの上にペリカン」が描かれているのはこの絵だけでなくたくさんあり「ユリ」や「へび」くらいキリスト教では当たり前のシンボルなのではないかと思うと、それを宮﨑駿が知らないというのはちょっと考えにくいと思いました。欧州でも公開されるはずですし。
で、他の人の文章を見ている中で興味深いものを見つけました。
「ペリカンは宮崎駿だと思った」
あ、そうかと。
「いやいや、ペリカンはこども(わらわら)を食べてるじゃん」って言われそうです。でも宮崎作品を振り返ってみて、「こどもの頃の思い出のような」「こどもの頃の夢想、想像のような」という印象を我々は受けているのです。
空を飛ぶことも、海を駆けることも、大きな動物と友達になることも、宮崎駿が「発明」したことではなく、「誰もが一度夢に見たこと」であり、そうであるから我々は共感し、感動できるんです。
ひどい言い方かもしれないですが、「みんなが誰もが想像していたことを圧倒的な画力と技術で宮崎駿は「自分のもの、自分の想像」にすり替えた」とも考えることができます。「俺だっておんなじこと考えた!」ってみんな言えると思います。しかしそれをあのように素晴らしい形でアウトプット出来たのが宮崎駿なのだと。
すべての人の内なる夢想、想像を自分の作品にしてしまった。もっといえばそれを金を稼ぐ手段にしてしまった。
ただしかし、その夢をアウトプットするために宮崎駿がどれだけの努力をしてきたか。本当にテレビで垣間見る程度だけれども常人では考えられない努力だということはわかる。8時間労働の「仕事」だと思っていたら絶対にこんな量の仕事はできない。生きていることと切り離せていない。文字通り、「血の滲む思い」で骨身を削って命を削って作品を生み出してきた。
すべての人に伝えるために、自分の命を削って作品を生み出してきた。
こう考えると宮﨑駿が知らないはずがないペリカンというシンボルをあのシーンに持ち込んだことへの理由がわかる気がするのです。
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