「ミサトと加持」への憧憬――「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を考える

 感染症で今年6月の公開が延期になった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の最終作をめぐり、あるウェブサイトに「【新エヴァ】ミサトと加持の “深い仲” こそが人間のリアルだったのに…描写がカットされていた件」と題する記事がアップされていた。エヴァについては以前にも書いたが、ざっとおさらいすると、1995~96年にテレビ版(全26話)が放映され、物議を醸した第弐拾伍話と最終話がリメイクされた1997年夏の劇場版で、一度完結した。

 サイトのタイトルにある「ミサト」とは主要な登場人物の一人、葛城ミサトのことである。謎の敵「使徒」を迎撃するために設けられた国連の特務機関「ネルフ」の作戦責任者を務めている。29歳。一方の「加持」とは加持リョウジを指す。諜報や監察を担当しているネルフの職員で、30歳。2人は同じ大学(第二東京大学)の出身だ。在学中、一時期交際していたという設定になっている。

 テレビ版や旧劇場版では、ミサトと加持が深い関係にあったことが繰り返し描かれている。学生時代に破局したものの、その後、ネルフで再会。色男で軽薄な印象の加持と再び出会ったことに、ミサトは戸惑い、表面的には嫌悪の情すら示す。ミサトにとって、加持は「初めての男」だったのだ。

 ミサトは14歳の時、大災害「セカンドインパクト」に遭う。家庭をないがしろにしてきた父親に、ミサトは反発し続けてきた。しかし、セカンドインパクトでは、その父親が命がけでミサトを救う。これがきっかけとなり、ミサトは一時期、心を病む。家庭の事情から、もともとアダルトチルドレンの要素を多分に備えたミサトは、最後の最後で、最も唾棄すべき存在である実父に助け出されたのだ。脆弱な内面に「目の前で自分を救った父親を失う」という強烈な心的外傷が加わって、ミサトの複雑なパーソナリティーが形成されていく。

 旧劇場版では、学生時代のミサトと加持のベッドシーンが描かれている。加持の部屋に1週間も居座って、覚えたてのセックスに溺れる場面だ。さすがに加持は呆れるが、ミサトは「だんだんコツがつかめてきた」とさらにセックスをねだる。「多分ねえ。自分がここにいることを確認するために……こういうことするの」。そんな台詞に、底なしの空虚を「他人から求められること」で埋めようとするアダルトチルドレンの心性が、とてもよく表れている。

 テレビ版の第拾伍話では、ネルフでの再会後、共通の知人の結婚式に出席し、酔いつぶれたミサトを加持がおぶって帰路につくシーンがある。14歳や学生時代と比べれば、ミサトはかなり精神的に成熟(回復)してはいるけれど、依然として内側にアダルトチルドレンを残したままでいることが、とてもよく分かる。アダルトチルドレンは空っぽな自分を、常に外部の何かに依存して、埋め続けないと生きていけない。だから「セックス」や「アルコール」に嗜癖するのだ。第弐拾話で、ミサトは加持と再び関係する。なまめかしいあえぎ声が数分間にわたって響く衝撃的な場面で、蛇足だけれど、よくこれを平日夕方のテレビ枠で放映できたものだ、と思う。

 2007年、09年、12年に公開された新劇場版では、ミサトと加持が過去に交際していたことをうかがわせるシーンや台詞は存在するが、テレビ版や旧劇場版のように生々しい描写は一つもない。だから、ミサトと加持との関係性が、いま一つ曖昧なのだ。少なくともテレビ版では、ミサトが加持を振ったことになっている。破局から再会まではすでに10年近い月日が経過しているはずで、どうしてミサトが加持に対し、(少なくとも表向きは)あんなに嫌悪を示すのか、それでいて、デレる仕種も見せるのか、新劇場版ではよくわからないのだ。

 12年の「Q」では、加持の登場場面そのものがない。43歳になったミサトも、もはやアダルトチルドレンの痕跡すら滲ませず、苛烈な心的外傷を克服した「サバイバー」=「強い女」としてのみ描かれる。テレビ版や旧劇場版のミサトは、苦しい過去を抱えつつ、加持にどっぷり依存する「黒歴史」を経たことで、からくも明るくがさつに振る舞える、等身大の女性として描写されている。だからこそ、かつての自分と似た屈折を抱く主人公・シンジの最大の理解者であることに、説得力が生じるのだ。加持との濃厚な関わりは、その後のミサトのパーソナリティー形成に決定的な影響を与えている。加持の存在と黒歴史こそ、ミサトという魅力的なキャラクターに陰影を刻んでいる不可欠なエッセンスだと、私には感じられてならない。

 第拾伍話で、加持におぶられながら、酔ったミサトは学生時代を振り返り、こんな台詞を言う。

「気付いたのよ、加持君が、私の父に似てるって」
「父を憎んでいた私が、父によく似た人を好きになる。すべてを吹っ切るつもりでネルフを選んだけれど、でも、それも父のいた組織」
「シンジ君と同じだわ!臆病者なのよ…」
「ただ、逃げてただけ。父親と言う呪縛から逃げ出しただけ!」
「あの時だって、加持君を利用してただけかもしれない!嫌になるわ!」
「自分に、絶望するわよ!」

 ミサトはすでに学生時代、父親の影から逃れるために、父親に重ねて加持と寝ていたことに気づいている。そして、それが疑似的なインセストタブー(近親相姦の禁忌)をおかしていることを自覚して、絶望し、加持に別れを告げるのだ。しかし、結果として、この気づきこそが、依存と嗜癖を断ちきって、ミサトを劇的に回復させることにつながる。もちろん、そんなミサトを加持がそのまま受容したことも、ミサトにとっての幸いだった。

 未熟な痴態すらよく知っている「元カレ」が、あたかも優しい親のように、ありのままの自分を受け入れ、依存や嗜癖を許さない程度の距離を保ちつつ、常に(心理的に)近くにいてくれる――。アダルトチルドレンの回復過程で不可欠な、「受容」と「限界設定」と「エンパワーメント」を、加持は恐らく意図せずに、ミサトに供給してきたのだ。その文脈で言えば、第弐拾話で再び体を重ねてしまったのは、(どちらが誘ったにせよ)本当はいただけない。いただけないのだけれども、逆説的に、再びセックスに溺れはしなかったミサトの回復を、端的に示す場面だとは言えるのかもしれない。

 旧劇場版で、出撃を拒むシンジをかばい、ミサトは敵の銃弾を浴びる。それでもエヴァに乗ることをためらうシンジに対し、ミサトは優しくキスをする。これはミサトの贖罪だ。シンジも機能不全な家庭で育ったアダルトチルドレンの一人である。自分とよく似たシンジに対し、死地におもむくことをずっと強いてきた。にもかかわらず、彼女にとっての加持のような存在に、自分はなることができなかった。

 身勝手な懺悔のキスをして、シンジを出撃させると、ミサトはその場に倒れ込む。床に広がる血だまりに濡れながら、死期を悟ったミサトは最後の最後に、再び加持に思いをはせる。うつろな目をし、まるで許しを請うように、「加持君、あたしこれで良かったわよね」とつぶやくのだ。次の瞬間、大爆発が起こり、ミサトの肉体は消し飛ぶ。旧劇場版屈指の名場面である。

 新劇場版は「Q」でオリジナルから大きく分岐して、予想外の展開をたどっている。きっと、ミサトは同じような最期は迎えないのだろう。途中まで思わせぶりな動きをしつつ、「Q」では消えた加持が、最終作に再び登場するかどうかも分からない。テレビ版や旧劇場版で、ミサトと加持の関係は、積み重ねるように描かれてきた。たぶん、最終作で、この関係を紡ぐだけの時間はとられないだろう。ミサトと加持は、単に「大学時代の元カレ、元カノ」の間柄に終始して、物語は結末を迎えるに違いない。

 私にとって、エヴァの大きな魅力の一つは、ミサトと加持の関係性だ。

 疵(きず)を負ったアダルトチルドレンの少女が、青春時代に受容的な恋人と出会うことで、その後をいかに乗り越えていったのか。
 体を重ねた若い恋人同士は、別れてなお、友だちとしての強い信頼関係を保てるものなのか。
 再び甘やかな関係には戻れない(戻ってはならない)、唯一無二の異性がいることは、果たして本当に幸せなのか――。

 ミサトと加持のつながりは、ついぞ、そういう存在にめぐり合えなかった、私の憧憬でもある。
 ここをばっさりそぎ落とした庵野秀明監督は、どのようにして物語をたたむのだろう。最終作の封切りが、重ね重ね、待ち遠しい。


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