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”きまぐれフォト”がカメラを面白くする

「自分らしさ」が写真の重要なキーワードになってきたと思ったら、もっと軽やかに「きまぐれ」というパワーワードがでてきました。


写真を自己表現としてとらえるコンセプトは、高画質・高性能である以上に重要な要素になってきていると感じます。オリンパスやキヤノンの一眼カメラのコピーの中に「自分らしさ」が強く表現されているのもその流れだと言えます。

それに対して「きまぐれ」とは何でしょうか?

きまぐれと言えば「シェフの気まぐれサラダ」くらいしか思いつきませんが、どんな状態なのか想像してみます。

まず気楽な感じです。軽やかです。論的的というよりも直感的です。

いいかげんな感じがしますが、気持ちに嘘をついていないので信頼できます。

きまぐれの本質は、毎回違う行動や結果になるというところです。前回やったことと敢えて違うことをする天の邪鬼な気持ちだけでなく、季節や誰かのちょっとした変化を感じとり反応する真摯な気持ちの表れととらえることもできます。

大量生産の工業製品では許されないきまぐれも、ユーザー側に立てば特別な体験として楽しみになります。ユーザーのきまぐれを受け止める自由度だけでなく、きまぐれな気持ちになれる雰囲気を醸し出すこともデザインの役割です。


きまぐれフォト

ユーザーが自由に表現し、それが計算や理論ではなく、心のままに表現できるようになる状態で撮られた写真です。

メカニカルにキッチリ操作するのではなく、タッチUIによってサラッと操作する感じですが、操作方法はどうでもよくてユーザーが自由に使える柔軟性が重要です。

この機能とこの機能を組み合わせたら、きっとこんな写真が撮れるというユーザーの発想をどれだけ自由に設定させられるのか。もっとこうしたいという想いを実現できる柔軟なパラメータを持つことも重要です。

ユーザーは一度でも制約に出会うと、自由に試してみるマインドを無くしてしまいます。実際の製品開発で組み合わせの自由度とパラメータの強弱を提供することは簡単ではありませんが、それを実現することでユーザーにきまぐれフォトを撮ってもらえるようになります。


きまぐれカメラ

写真にとって、撮影設定と撮影結果が一定の関係にあることは、撮影者の表現ツールとして最低限必要な要素ですが、私はカメラ側にきまぐれな反応が一定量あっても良いのではないかという仮説を持っています。

昔のフィルムは、明るさ(露出)の領域によって色味が変わるという特性を持っているものがあったそうです。またその特性を無くしたものがプロ用フィルムとして登場し、正確な色再現を実現することができるようになりました。

ところが今では、昔のフィルムが持つ癖をわざわざデジタルで再現したフィルムシミュレーション<クラッシックネガ>が作られたりしています。

カメラを道具としてみれば一定の動きをしてくれる方がコントロールしやすいかもしれませんが、表現を楽しむパートナーと考えれば、少しきまぐれな動きをしてくれた方が使いこなすのが楽しかったり、喜びが大きくなる可能性もあります。(いわゆるジャジャ馬を乗りこなすのが楽しいあれです)


きまぐれを分かり合う

きまぐれは内向きの自己満足やワガママに考えられますが、それを共有でき、分かり合えれば真の友になれます。カメラとユーザーがお互いのきまぐれを理解し合いえるデザインを目指していきたいと思っています。

「失敗できるカメラ」「成長できるカメラ」などこれまでも様々なキーワードをあげてきました。連写スピード、フォーカス性能、画素数などのスペックが普通の撮影においては十分な性能に達してきており、これからはUIの進化や撮影体験の向上に意識が向かっていくことになりますので、新しいカメラと人の関係性を作っていきたいと思います。



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