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お坊さんの役割

お寺のソーシャルデザインをするにあたって、そろそろ、現時点で僕の考えることをまとめておきたいな、と思うので、とりあえずいま思いつくことを書きなぐる。

先ず。お寺と行っても、幾つかの資源があると思っている。人、不動産、コミュニティ、教え、儀式儀礼。人は住職を中心とした寺族と檀家さん。不動産はお寺の伽藍。コミュニティは、檀家制度を中心とした横のつながり。教えは、仏教のよりよく生きるメソッド的な部分や、宗教的な救い。儀式儀礼は法要もそうだし、葬送儀礼や法事などのいわゆる葬式仏教的な部分。

先ずは、人について。一概に人といえども、住職や坊守(寺庭婦人)などの寺族、檀家など、様々な人が想定される。世襲制で受け継がれてきた寺族だと、それも一つの視点になろう。とりあえずは、ざっくり僧侶の視点で考える。

日本では聖徳太子の施薬院や悲田院をはじめとして、奈良にある元興寺系列の僧侶も積極的に社会貢献をしていました。道を直したり橋を架けたりしたことが史料に残っています。(全日仏「宗教と社会貢献」

日本に仏教が入ってきた当初より、僧侶の社会的な活動がおこっている。何故それを成すのかというと、慈悲の実践として。言葉を変えれば、自利利他の利他行為の一貫であろう。

宗派によって様々な考え方があるので一概にはいえないけれど、僧侶、宗教者として、活動の規模や方法は横において、困っている人の力を助けるために尽力するのは自然なことといえる。まぁ、困っている人の力になりたいと願うのは別に宗教者である必要もないだろうけれど。ここでは、それが僧侶、宗教者としての役割にそのまま還元される可能性があるところが興味深い。ようするに、社会的な活動に携わることによって、僧侶としての存在意義が満たされる(少し言いすぎな気はするが…)。だって、会社員が社会的な活動に携わっても、「あんた良いことするねー」だろうけれど、僧侶が同じく社会的な活動に携わっていると「やっぱりお坊さん、さすが」となることが多いように感じる。職業的な役割として、社会的な活動の貢献が求められているように思う。

次に問題になるのが、その社会的な活動とはなんぞや。僕はかなり広い意味で捉えている。自死や貧困、災害などのボランティアもそうなんだろうけど、仏教の教えを説く、あるいは坐禅などの仏教プラクティスを行なうのも社会的な活動だろう。だって、仏教の教えを聴きに来る、あるいは仏教プラクティスに参加するのは、何かしらの悩みや悶々とする想いをを抱えていることが多い(田舎にいくと地域の付き合いで来ている高齢者も少ないから一概にはいえないけど)。つまり、苦悩する人が居て、そこに僧侶として何かしら力になろうとはたらきかけるのであれば、それは僧侶の社会的な活動だと僕は考える。

お坊さんは、ソーシャルデザインを行なう人材として、とてもマッチする。もっというならば、お坊さんこそソーシャルデザインの担い手だと思っている。すべてのお坊さんにそれだけの実力があるとは思えないのも正直なところだけれど。

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