性自認とは何か?

noteオリジナル記事です。

性同一性障害(GID)は、gender identity disorder の訳語ですから、キーになるのは「gender identity」という単語です。これは「性自認」という訳語で定着しています。しかし...この「性自認」、

自分の性をどのように認識しているのか,どのような性のアイデンティティ(性同一性)を自分の感覚として持っているかを示す概念です。 「こころの性」と呼ばれることもあります。

と、一般に定義されるわけなのですが、実はこれ、かなり曖昧で何を指すのかよく分からないようにも私は感じているのですよ。「こころの性」って、自分がそう思ってさえいれば、そうなんでしょうか? 「どのような性のアイデンティティを持っているか」は gender identity を直訳しただけで、何の説明にもなっていません。実は GID というのは、かなりあやふやな根拠の上に成立している....と呼ばれても、実は仕方がない面があるとさえ、私は感じています。

1. マネー「性の署名」では

では、その出典にまで遡って考察するのがよいようです。実際、この「性自認」という概念は、性別適合手術(SRS)が始まったときに、その医療の正当性の根拠として導入された概念だ、と断言してもいいと思います。

実際、マネーの「性の署名」を読んでも、性自認って何なのか?ははっきりしないのです。定義らしきものは挙げられています。

一人の人間が男性、女性、もしくは両性として持っている個性の、統一性、一貫性、持続性をいう。どの程度まで統一されているかいないかは問題ではない。とくに自己洞察と行動という経験を通して身につけられる。性自認は、性役割を個人的に体験することであり、性役割は、性自認を公に対して表現することである。

マネーはガチガチの社会構築論ですから、出生直後にはまったくの白紙タブラ・ラサとして(それでも閾値の上下による誘導されやすさはマネーも認めます)性自認がゼロの状態で生まれ、それを出生後の「経験」によって男性あるいは女性の「性自認」を獲得して、それがある「臨界期」以降には完全に変更不可能になる。というのがこのマネーの議論です。

つまり「性自認」は生得的なものではなくて、出生後には可塑的なものなのですが、臨界期までにそれが固定してしまうと、以降は変更不可。タイムスケジュールにシビアな発生プロセスのアナロジーとして、マネーはこの「性自認」を捉えていて、「性自認」の獲得自体は出生後、出生から言語の習得までの間でなされ、言語能力を得た後には一切変更不可能になるとしています。

性別適合手術というのは、性器の性別とは逆の性自認を誤って獲得してしまった人について、その性自認の変更の不可能さゆえに、性器の側を「性自認」に近づけようとする医療的な措置になるわけです。
まあ、マネーの社会構築論は有名なブレンダの一件でボロが出まして、胎児期のホルモンシャワーに性自認が起因する、とするミルトン・ダイアモンドの説が有力なのですが、マネーが強調したのは「臨界期までに、さっさと性器の性別を固定しないと、精神的な問題が出る」という半ば脅しのような実践的結論なのですよ。

マネーの最大の被害者と言えるのは、いわゆるインターセックス、今では性分化疾患(DSD)と呼ぶべき人たちなのです。マネーの説によると、曖昧で中間的な性器をもって生まれた子供は、なるべく早く手術によって「正常な性器」に近づけることを勧められます。その後に「性自認」が獲得されるのだから、何の問題もない...マネーはそう考えて手術を強行します。胎児期に「性自認」が決まるのであれば、これは危険極まりない処置なのですが...

で、マネーはその延長線上で性同一性障害を捉えることになるわけです。もちろんこのマネーの「言語臨界期=性自認臨界期」についての積極的な証拠は一切ありませんでした。言語哲学的な論考を「性の署名」でしていますが、この衒学は根拠のなさを隠すための煙幕でしないのでしょう。しかし、後天的な社会構築論に立つ以上は、どこかで臨界期を設定しなければ、そもそも「性自認を、性器の性別に合わせて直す」という現実的でもなければマネーのイデオロギーにも反する結論が導かれてしまいます。

つまり、この「性自認」の概念自体が、

そもそも出発点から「性別適合手術の正当性」を巡って展開されていた

ことに注意すべきなのです。マネーはこの「性自認」を言語と性役割の獲得によって、内容を与えようとしたのですが、「性の署名」の中でも十分な説得力はありませんし、またマネーの言う言語=性自認臨界期はその後の展開でも捨て去られた仮説でしかないのです。まったくの「からっぽ」の概念だと言ってもいいでしょう。しかし、この「性自認」の概念は、こと性別適合手術を正当化するには、これ以上もない理由になります。「性自認に性器の見かけを合わせるしかな」く、逆はありえない「理由」になるのです。

しかし、この理論のアドホックさにもかかわらず、性別適合手術が性同一性障害に悩む人を救ってしまうのです。この事実によって、

性別適合手術は有効である、だから性自認という概念は、ある

という前提で、この「性自認」という言葉が広まった...私にはそうとしか思えないのですよ。「性自認が身体的性別と逆だから、性別適合手術をしよう」という見方を逆転して、

性別適合手術を受けて満足する人は、性自認が身体的性別とは逆だった

と操作的に因果関係を逆転して捉えた方がずっと事情を正確に捉えているのでしょう。「性自認」とは、「性別適合手術で幸せになる人が、いる」ために、性同一性障害という疾病概念(医療の介入を正当化する概念)の根拠として、使われ続けてきただけ.....

2. 性自認と苦悩

ですから、私は「性自認」という概念が自立的な概念だとは思わないのです。「こころの性別」と呼んだ時の「こころ」が曖昧きわまりなくて、それをまともに定義することが不可能だとも考えるからです。しかし、性自認が暗に「活用」される、「医療が介入して、幸せになれる」人というのは、確実に存在するわけです。私もその一人でしたからね。この事実を否定するわけにはいきませんから、やはり「性自認」と呼ばれる「何か」の基盤になるものは、あるわけです。

自分はずっと性自認に悩み続けてきて、でも、どう見てもパスしそうにもなくて、性別移行することは諦めている...

という「悩む」ということに特化した方もいます。こういう方が、昔の

「埋没」=今までの人間関係をリセットして、完全に新しい性別だけで過去を封印して生きていく

という「埋没」の意味に代わって

「埋没」=未治療状態で性別違和を抱えながら、悩みながら生きていく

という意味で使ったりするのも目にします。「悩む」というのを「病理」として捉える、というのが、一時精神病理の主流になったことがありました。たとえば、同性愛について、アメリカの精神疾患についての診断基準である「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」では、1974年頃から「同性愛は精神障害ではないが、それについて悩み苦しむ場合には、精神障害として扱うことができる」という基準で運用されていた時期があります。私の大学生時代(80年代です...)だと、この扱いで授業がされていましたしね。

しかし、1987年のDSM-Ⅲ-R で同性愛自体の非医療化がなされます。ですから今は「同性愛は病気ではない」がコンセンサスなのですが、しかし「それを苦にして悩む」という状況に医療が介入してはいけない、というわけでもないでしょうね。その場合「反応性うつ」とかそういう扱いなのでしょう。

ですから、どちらか言えばGIDについて「悩む」ことを強調する立場、というのはこのやや古い診断基準に影響されている側面もあるのではないのでしょうか。私はどうか...というと、実はあまり悩まない方だったのです(苦笑)。身体的に強く女性的だったこともあって、自分の女性的な身体が何もしていない段階でも好きだったくらいでした。

「苦悩」という状態が医学が介入する根拠になるとはいえ、「苦悩」自体を根拠に

苦悩するのは、性自認が社会的性別とズレているからである

とこんな風に「性自認を定義する」のは、私はやはりムリがあると考えています。誰しも社会に期待される性役割を完璧に果たせるわけではありませんし、ジェンダーバイアスによる不利な取り扱いに憤ることもあるわけです。また、思春期の体の変化に戸惑いを覚え、押し付けられる「男女の役割」を拒絶したい、と考えるのも、別に不思議でもレアなことでもなくて、実はかなり一般的な「思春期の悩み」なのだと思うのですよ。これを「病理化」するのはいかにも不適切なことです。それよりも具体的な「生きづらさ」を別途解消するような手立てを講じるべきなのでしょうね。

3.  性自認とパス(性他認?)

パスするかしないかは、性自認とは無関係...と言いたい方の主張は、分かります。しかし、あえてこの件を問題にしたいと思うのですよ。

というのも、自我というものは、孤立してあるわけではないのです。環境との相互作用によって、生じているわけです。「こころの性別」は生まれたときにそのままのかたちで、大人の中にもある、ということはなくて、今までの生活歴のなかで、さまざまにかたち作られた「結果」としてあるのだ、ということをまず強調したいのです。

言い換えると、

本当は自分は女性だと思っているのだけども、周囲には打ち明けれられなくて、誰もそのことを気づくことはない

というような事態は、少なくとも性別を変えてうまくやっていける人の場合には、絶対にありえないと思っています。つまり、周囲には必ず「バレ」るものだ、ということなのですよ。「あれ?この子、男の子なのに、何かヘン」「女の子に全然思えない...」とか、そういう反応を引き出すような素質がその人にあり、その素質に周囲が反応し、またそれが自身の「性自認」に反映して...というようなプロセスを必ず経てきているはずなのですよ。

いろいろなGIDの方の手記を読みましたが、子供の頃に、同性集団から強く排除された経験、異性の集団の方になじみやすい傾向、同性集団に受け入れてもらうために「オ〇マキャラ」をわざと演じて受け入れてもらうなど、そういう体験を語る方が多いのですよ。
実際、私もそうでしたからね。自分が「自分の性別」をどう思うか以前に、周囲が「性器の性別」ではない側の扱いをしがちで、これを本人も何となく受け入れていて....というような「性自認の(イレギュラーな)発達」というようなものが、あるのでしょうね。ですから、「周囲があなたをどちらだと思うのか?」ということ、「性自認」ならぬあえて言えば「性他認」というべきものが、「性自認の手前」に存在していて、自分の自意識や性自認以上にそちらの方が、性別移行の決め手になるのではないのでしょうか。

つまり性別移行よりもずっと前の段階でも、「どうにも男/女だと思えない...」というような印象を周囲に与えていて、それで今まで生きてきたのならば、実際に性別移行をする際に、周囲の抵抗感はほぼないに等しいわけです。身なりを移行さえすれば、きっちりと希望の性別の側に見えることが多いでしょうし、やや厳しい場合であっても、性ホルモン剤でなんとかなります。「第一印象での性別」がそもそも希望する性別であるのならば....これのことを、「パス」と呼ぶのですよ。

言い換えると「性別を移行してうまくいく」人の場合には、この人が性別を変えるという行為が、周囲にとって意外なことでもヘンテコなことでもない、という印象を周囲にすでに与えているのだと思ってます。自分がどう思うか、というよりも、周囲がどう思っているのか?が実は大事なのですよ。

 4. 性自認とアイデンティティ

性自認は gender identity という英語の訳語なので、「identity」という単語が入っています。これが大いに混乱の元ではなかったのか?と私は思っています。

実際、いろいろなアイデンティティがあります。「日本人」とか「〇〇社の社員」というようなアイデンティティもあれば、「母親」というアイデンティティも、あるいは「アーチスト」や「活動家」なんてアイデンティティもあるのですよ。

私の性自認は、アーチストだ!

というのも楽しいのですけどね(苦笑)。そういう禅問答も一度してみると、いいでしょう。

実はマネーの「性の署名」で顕著なのですが、言語学的に gender と呼ばれる領域、たとえば代名詞 he/she の使い分け、Mr./Mrs./Miss の使い分け、英語では廃れていますが、今でもドイツ語・フランス語など印欧語に広く生き残る「名詞の gender」、さらに「動詞の gender による語形変化」が存在する言語もあるわけです。こういう「ロゴス中心主義」によって、幼児が後天的に「gender を獲得する」というのが、マネーの前提にあったようにも感じられるのです。ですから、言語臨界期=性自認の臨界期、と仮定するわけですよ。

それに比較したら、日本語の gender はかなりいい加減です。主語についての gender による選択はありますし、いわゆる「女性語」もありますから、ひょっとしてマネー流の仮定が....いやいや、それはムリというものでしょう。だったら「どの言語を母語とするか?」でGIDの発生率が有意に変わる、ということですからね(苦笑)。逆に、日本語の「主語」というのが、柔軟というか、印欧語の「主語」とは別の役割を果たしていることにも注目したいのですよ。

印欧語の主語は一意に決まります。確固普遍たる「我」を示す特権的な単語なのです。日本語は、オーソドックスに性差関係なく使われる主語(私)、性差を強調する主語(おれ、あたし、わし)、あるいは特定の局面での立場を表現した主語(「お父さんは...」の自称としての「お父さん」やら「先生」、改まった「本官」とか「小職」)、スピーカーをうまく区別するために未だに小説でよく使われる役割語など、主語がたくさんあるわけです。
つまり、

日本人は、確固たる一つのアイデンティティではなくて、その場その場に応じた複数のアイデンティティを使い分けながら、生きている

というような言い方だって、できるのですよ。いや欧米人がそうでない、というのを主張するわけではありませんが、例え話としては分かりやすいでしょう?

つまり言いたいのは、「アイデンティティ」は一つではないし、「男」「女」というアイデンティティが、特に「第一義のアイデンティティ」にならなければいけない、ということでもないわけです。実際、ナマの「男/女」というアイデンティティが必要になる局面というのも、かなり限られていて、「女性店員」なアイデンティティ、「男性事務員」なアイデンティティ....というような「性差と切り離しはできないが、それでもその場面の役割」に結びついたアイデンティティを切り替え切り替え生活している、というのが大方の人の「生き方」でしょう。

5.セクシャル・マイノリティとアイデンティティ

言いたいのはですね、アイデンティティとは、確固不抜で変更不可能な「個人の本質」ではまったくなくて、人は「いろいろなアイデンティティ」をとっかえひっかえしながら生きている、ということなのですよ。これをもっとセクシャル・マイノリティ側に寄せてみるのならば、

・男性と女性の中間
・性同一性障害
・ゲイ
・ブッチ・レズビアン

というような「アイデンティティ」がいろいろと、可能なのです。しかし、これらが「性自認」であるか?というと、そもそもそういうものではないでしょう。しかもこれらは排他的でさえありません。

・FtM トランスジェンダーでかつゲイ(性自認は男)
・MtF トランスジェンダーでヘテロだけど、アセクシャル(性自認は女)

とかね、いくらでも組み合わせは可能で、しかも、アイデンティティですから定義自体かなり恣意的、というのもあって、たとえば

ゲイ→トランスジェンダー→GID→ヘテロ女

というような変遷を経ることだってできるわけですよ。つまり、identity という単語が入っていることで混乱しますが、性自認と「ジェンダー・セクシュアリティに関するアイデンティティ」はまったく別のものなのです。

ですから、ぶっちゃけの話、私自身はトランスジェンダーを、自身のアイデンティティだとは思ってはいません。運動上のカテゴリとして、「LGBT運動の中で、どれですか?」と言われたら、「トランスジェンダー」と答える程度の話です。単なる運動論上のカテゴライズでしかないわけです。
性別を変更しましたから、トランスセクシャルの定義には当てはまるよね?とは思いますが、それを自身の本質だと考えたこともまったくありません。ただ、そういう過去があった、というだけのことです。さまざまな女性カルチャーには強い同一化を感じますから、カルチャーへの一体感、という意味ではまぎれもなく「女性」だと思います。

いや、LGBTのアイデンティティによって自己規定しよう、ということ自体が、かなり「病んだ」ことなのだとさえ思うのですよ。能町みね子さんはこう言ってます。

そもそもLGBTであることが必ずしもその人の第一のアイデンティティではないと思うので。(ハフポスト:能町みね子さん「LGBTが第一のアイデンティティなわけじゃない」

まったく、この意見に賛成です。それこそ私はセクシャル・マイノリティである以前に、「アーチスト」だと思ってますからね、マジで。


つまり、「性自認」という概念で悩むのは、はなはだ馬鹿馬鹿しいことなのです。何事も「こじらせず」、自由な気持ちで捉われることなく、生きていくのが一番いいことなのですよ。特に「性別」なんて、「こじらせる」たらつまらないものはありません。
変えるなら、変える、そしてその後どう生きていくか、これが一番大事なことなのです。




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