特例法制定当時の界隈(4)

マネーの「性自認」

さて問題の概念「性自認」。「gender identity」の訳語とされますが、別な訳語として「性同一性」があります。俗に「心の性」と呼ばれますが、大概の個所でこれは「簡単に言って」とか枕詞が付きますから、かなりの俗解と使う方は意識して使うケースが多いのですが.....

まずはジョン・マネー「性の署名」での定義を見るのがいいんでしょうね。まあ、訳語は「性同一性」の方が私の論旨には都合はいい(苦笑)ですが、ここは譲りましょう。

性自認(Gender Identity) 一人の人間が男性、女性、もしくは両性として持っている個性の、統一性、一貫性、持続性をいう。どの程度まで統一されているかは問題ではない。とくに、自己洞察と行動という経験を通して身につけれられる。(「性の署名」訳書p19)

まあこうなっています。一見「セルフID」を支持するか?とも見える定義なのですが、実のところ、後段の「とくに、自己洞察と行動という経験を通して身につけれられる」に明らかなように、マネーは「性自認後天説」を取っています。ですので、この本の後半第4章「性自認」で、この「性自認後天説」を証明しようとします。そして、その「性自認」が変更不可能になる「臨界期」を、

性自認の分化に関する臨界期が言語の取得に関する臨界期と一致するのは、単なる偶然ではない。この関係は、概念を形成する言語活動の始まりのうちに見いだされる。(「性の署名」訳書p131)

つまり、ここで主張されていることは、

・性自認は後天的である。
・性自認には臨界期があって、一定の時期以降は変更不可能になる。
・その時期は言語取得の臨界期(生後15か月)と一致する。

ですから、「性自認」と自らの肉体の不一致を訴える「性同一性障害者」の「治療」は、「性自認を体の性別に合わせて(心理療法などで)変更する」のではなくて、「体の性別の方を、手術によって、見た目上、性自認に一致させる」でないといけない、と主張しているわけです。言い換えると「性自認」は「SRS を成立させるための(未証明の)根拠」なのです。

ここには一種の驚きがある、というのを認めないといけないでしょう。SRSによって多くの「性自認と体の性別の食い違い」を訴える患者が、新しい性別に適応してしまうこと、それ自体が驚きなのです。ですから、ここでは「性自認」という言葉は、完全に「SRSへの適性」ということと同一なのです。

しかし、研究者としては単純に操作的に定義するわけにもいきません。マネーが遭遇した性分化疾患の子供たちの問題が、大人の性同一性障害に対するSRSの問題の、前段階としてあります。

性分化疾患にはさまざまな原因があり、たとえ同じ原因・同じ症状だからといって、その子供が抱く「性自認」はバラバラだったりするのです。だから「どういう生理的条件が、性自認を決定づけるのか?」というのが結果的に分からないのです。ですから、「生理的条件」以外のところで、この「性自認」の分化の決め手を見つけよう.....それが「言語取得の臨界期」までの親によるケアだ、とマネーは臆断するわけです。

言うまでもなく、このマネーの「仮説」を証明する手段とされた、ディヴィッド・ライマーの悲惨な生涯が明らかになるとともに、マネーが主張した「性自認後天説」の信憑性は暴落して、「性自認は、先天的だ」とするミルトン・ダイアモンドの「脳ホルモンシャワー説」が通説になるわけです。

ですから、先ほどのマネーの議論から、変更されて脱落した部分を整理しなおすと、

・性自認は先天的である。
・性自認は変更不可能である。

この2つのテーゼが残るわけです。実際、SRSを行って「体の性別を性自認に合わせた」人というのは、この議論と無関係に増えていきました。実際、SRSを行うための医学的根拠は、「性自認」の他にありえないのです。

しかも、早まってSRSを要求し、それを後悔して戻す人も出ます。その場合にも「本当は性自認と体の性別が一致しているにも関わらず、誤って自分の性自認が別だ、と主張してしまった」と「説明の理論」として役にも立つのです! 70年代にテニスのアマチュア選手で性別移行して、また戻した方の話を読んだことがありますから、やはり「後悔して、戻す」方というのも、今に始まったことではないのです。

つまり、「性自認」は、もともと、SRSの適性のために発明された用語で、実際にはそれ以上の「具体的な内容」を盛り込むことに失敗した概念でもあるのです。

トランスジェンダリズムと性自認

閑話休題。特例法の当時、SRSを受けるために、コミュニティに参加した私のような<ts>にとって、「性自認」という言葉はさほど重要な意味がなかった、という印象を持ってます。

「性同一性障害」という診断名は、あくまでも性別移行をしたい人のために、医療が介入したことの保証書みたいなものに過ぎない。

こんな感覚の方が普通でした。ですから「性同一性」にも「性自認」という言葉にさほど大きな意味がなかったのですね。「理屈をこねれば、「性自認」が体の性別とは逆、ということなんだけども....」という程度の話です。それよりも「希望する性別の側での生活の適応」の方がずっと大事な、リアルの問題だったわけです。性別移行に踏み切る <ts> にとっては、意識なんてどうでもいいことなのですよ。生活のリアルな問題を解決していくことで精いっぱいなのです。ですから、当時ほとんど「性自認」という言葉がテーマになった記憶がないのです。

確かにこれ以前の時期のレポートである吉永みち子の「性同一性障害」(集英社選書、2000年)でも、「性同一性」は出ても、曖昧に「心理的・社会的性別」程度で済ましています。「性自認」という言葉は、マネーの訳書(翻訳は1979年)で登場したとはいえ、「目新しい」訳語のように感じられます。また「性同一性障害って何?」(野宮、針間、大島、原科、虎井、内島著、緑風出版2003)では、「性同一性」を主にしますが、啓蒙書の体裁もありますから、「性自認」と同じ、としながらも、「こころの性」という大雑把な言い方を好んで使っています。しかし、「性同一性」の「同一性=identity」を、

しかし、identity の同一性とはこういう意味ではなく、自己の単一性、不変性、連続性という意味において、同一なのです。(針間克己、p20)

と説明しています。いわゆる「アイデンティティ」、アイデンティティ・ポリティクスになるような「アイデンティティ」とは理解していないのです。

しかし、「トランスジェンダリズム宣言」では、gender identity を明示的にアイデンティティ・ポリティクスの対象として使いだします。

この「自分は女性である」または「男性だと確信できない」等々の意識を持っているにもかかわらず、「お前は男性だから×××するべきだ」という押しつけが外部からなされる。あるいは、なぜか自分の体には女性器ではなくて男性器がついている。これらの現実が「自分の自己認識と根本から衝突する」ために違和感・拒絶感を持つのである。
この、「自分は男性なのか女性なのか」という、自己のアイデンティティにかかわる性別意識をジェンダーアイデンティティ=性自認と呼ぶ。(「トランスジェンダリズム宣言」p20)

いや、ジェンダーアイデンティティをアイデンティティ・ポリティクスの対象にしたのが、日本ではこの「トランスジェンダリズム宣言」で初出でも、別にびっくりしないです...「自己のアイデンティティ」というパワーワードと、性同一性とをここで結びつけたのでしょう。

実際、この頃「トランスジェンダーの文化はあるか?」という論点がありました。トランスセクシュアル<ts>にとって、自分の所属する「文化」は男性なり女性の文化です。「トランスセクシュアルの文化なんて、ありえない」というのが、一般的な認識だったと思っています。じゃあ、トランスヴェスタイト<tv>の文化があるか、といえば、これは誰も否定できないかたちで、「女装界」「女装カルチャー」としてあります。トランスジェンダー<tg>の文化は?というと、「まだ、ない」けど、「今後は、ある」にしたい方々がいたわけです。ですから、広義の包括概念としての「トランスジェンダー[TG]」の文化」という場合には、何かを除外しないとやはり共通する文化はありえない、ということにもなるのでしょう。おそらく「トランスジェンダー<tg>の文化」という場合には、それを主張する方はボーンスタイン風の「サードジェンダー文化」を頭においていたのでしょうけどもね。

しかし、今に至るまで、「サードジェンダー文化」というものが、少しでも成立したことがあるのでしょうか?やはりこれはタダの夢想に終わった、としか言いようがないでしょう。「アイデンティティ」というものを、単に「自分がこう、自分を感じる」というタダの主観のレベルを超えて、その「主観」と「自己規定」を共有する「文化」がなければ、客観的なかたちでの「アイデンティティ」にならないと考えるのならば、「トランスジェンダー<tg>の文化」も「トランスジェンダー[TG]の文化」も、どちらもいまだかつて成立したこともないわけです。

これが、おそらく、「性自認=アイデンティティ」を主張する上での、最大の問題点でしょう。ですから、「性自認」は個々個人でてんでバラバラで、それらを「トランスジェンダリズム」で包括しようとしても、外部から見ればただの恣意的で自分勝手な自己主張、内部でも統一した「これ」という核を示せない....そもそも、アイデンティティを軸にしてマイノリティ運動を作りあげようとする「アイデンティティ・ポリティクス」としても、最初から破綻していると私は見ています。

確かにこの頃から、いわゆる「GIDブーム」(イヤな言葉です)があり、「自分は性同一性障害です!」と断言して受診する若い人が急増しました。「自分は男でも女でもなくて、GID」と平気でおっしゃる方も、いましたからね。つまり、本来はSRSに強く結びついたGIDという概念が、「ポピュラー化」して、「アイデンティティのひとつ」になってしまった、という全体の風潮も見逃せないでしょう....

もともとの「identity」は確かに、「こころの性別」というべきものが、一貫して・確固として・不変の状態で「ある」という「状態」を叙述する言葉であり、その実体性を保証する言葉ではないのに、方便として使われていただけの曖昧な概念である「こころの性」と同一視され、

自分が「女」だと思っている。他人は文句つけるな!

という「主張」にまで変化してきたわけです.....そんな「アイデンティティ」尊重する必要が、あるのでしょうか? gender identity という実体があるにせよ、それは意識やら主観的なアイデンティティとは別なレベルでの、言いようもない「男らしさ」「女らしさ」としてあらわれてくるような、そんなものなのではないのでしょうか。

gender identity は SRS によってしか、実はその実質を保証できない概念だったのが、「ポピュラー化」することによって、無内容に肥大してしまった...私はそう考えています。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。

主観よりも行為によって、人は判断されるべきです

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