鶴田幸恵「性同一性障害のエスノグラフィ」

半年くらい前に買って最初の第一部「外見以上のものを見る―「女/男であること」を見る」まで読んで、忙しくて放置して忘れてましたね。というわけで最初から通読。

いやね、要するに「人々の方法論」エスノメソドロジーというのは、現象学だから、「Why」をエポケーして「カッコに入れて」、「How」を見る、というあたりの面白さ、だと思うんですよ。そういう面白さがやはり第一部は強くありますね。以前も書きましたが、MtFのパスの問題を取り上げて、性別を判定する「手がかりによる判定」に先立つ「一瞥による判定」の意味に着目したのは、大変面白いです。でしかも、この「一瞥による判定」を、「規範的な判断」だとしていますから、実のところこの「規範」とは何ぞや?という問題が立ち上がってきます。

「世界の秩序」の水準においては、性別カテゴリーは、見てわかるだけでなく、見てわからなくてはならないものだとされているのである。この規範が維持されている限り、「見てわかる」ことは決して人間の「外見」だけではなくなる。「性別を見る」という実践の検討をとおして明らかにしたいのはむしろ、人間が女と男の二種類しかいないということの信憑性がどのようにして作られ、維持されているのかということの一側面なのである。

かくも性別二元論は人間に根深い「規範」だと見ることもできるわけですよ。この規範ゆえに「人に性別を尋ねる」のはタブーになるし、ちょっとした目ばくせや注視やら、非言語の領域での曖昧なコミュニケーションによる「規範からの逸脱」と「規範への回収」が実践される、曖昧なドメインの問題になることにもなります。なかなかこの第一部、深いですね、面白いです。

そうしてみると第二部の導きの糸になるのは、「第6章「正当な当事者」とは誰か」(これは別に面白く読んで、この本を買おうと思ったきっかけ)で紹介された Sacks の「カテゴリーの自己執行/他者執行」という装置です。性同一性障害はもともと医療が介入するための概念として登場しましたから、もちろんこれは医療者という「当事者ではない他者」によって類別し判定される「他者執行のカテゴリ」になります。それが実際には、当事者によって「自己執行」されて、果てには「性同一性障害というアイデンティティ」を「確立」してしまう現象のように、一つの概念ではあっても、自己執行/他者執行の間でいろいろなゲームが繰り広げられているわけです。ゲームとして捉えるのならば、実はジェンクリで、判定を得たい当事者がいろいろ術策を弄するあたりが、一番興味深いことなのかもしれませんが....いや自分から「病気になりたがる」レアな「病気」なんですよ(苦笑)。

で論者による具体的な「自己執行カテゴリとしてのGID」の力学を、MtFには第7章で、FtMでは第8章で見てみようとします。そして両方で「自己執行によって排除すべき『他者』」を見出すことになります。MtFなら女装者、FtMなら「レズビアンのタチ」と「なんちゃって」。この「差別化」によってGIDは医療概念というよりも「アイデンティティを示す概念」に変貌していきます.....

私は自分で本当に、GIDって医療が問題に介入するための「他者執行の装置」といったらいいような方便だとしか思ってないです....「自分を(自己執行としての)性同一性障害とアイデンティファイしたことがあるか?」というと、微妙です。「性同一性障害」という概念が登場する以前に、自分のアイデンティティを自分流に確立していた、といえばそっちの方が適切でしょう。それでも、十分問題なくガイドラインに乗って、トランス出来ることを疑ったことはありませんよ。そういうあたり、虎井まさ衛さんあたりを引きずってるのかな。いやどっちかいうと、「GIDを(自己執行的な)アイデンティティ」と思う人(要するに「病気なりたがり」)の方に強い違和感を感じます....まあだから、私は7章についてどうこう言う立場じゃないのかもね。

確かに、あまり馴染めませんでしたが一応女装コミュニティともご縁がありましたし、特例法とジェンクリ以前に、自力女装の外出歴が10年以上ありますから、ある意味三橋順子さんあたりと経歴が近い(エリザベスでお見掛けしましたね)のかもしれませんが...それでも「女装家」というアイデンティティもないですね。あまりに男としてちゃんと通用しない見かけだったこともあって、不満が大きかったのもありますから、女装して見たらホントに女で、「やっぱり自分って<女>なんだな...」というのを確認しちゃったことから始まります。
やはり「女装」というよりもましてや「GID」でもなくて、「女」だったようにも思います。

それでもね、トランスする際の周囲への説明には、もちろん「性同一性障害です~」としましたよ。皆さんのご理解を得なければいけませんからね。方便というものですよ。

そうしてみると私はこの7章・8章についてどうこう言う資格がないですね。コミュニティの歴史、という面では面白く読めますけどね。印象としては、具体的なコミュニティの問題を扱った7章8章は、「問題」の面白さに圧倒されてしまって、今一つエスノメソドロジーの「意外な発見の面白さ」は感じません。さらに言えば、こういう内紛自体も、よく知ってますから、特に「そうなのか!」という発見があるほどでもないです。

というわけで、本書は前半の方がずっと刺激的で面白いです。

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