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「専門性」とはなにか

「安全に配慮して撮影しています」
「CM上の演出です」
「個人の感想です」

…一言で言えば「野暮」。これを見た瞬間に、どんなcreativeなものも一気に現実に引き戻されてつまらなくなる。こうした表現はコンプライアンスと言えど、批判する世間から自分や組織を守るために作らざるを得なくなった盾でしかないらしい。

 ところで、ネットの普及で社会はもっとオープンになると思っていた。でも、結局人の心地よい生き方、暇、余白を優先せず、世間ばかりを見る方向に進んでしまった。自由に思索し、相手を思いやって自由に発言する。一緒に考える。それは、僕が高校生だった1990年代末~2000年代初頭のネット掲示板黎明期にはあったように感じていて、その先も続くと思った寛容さ。暴言すらあくまでネット世界のものと、きちんと線引きされていたような気がする。しかし、広がるはずだった個人の自由は、もはやあの頃の寛容な空気感を纏ってはいない。発信される情報は、あのころと比べても浅く、発信する人も一旦咀嚼せず、感じたことををただ垂れ流している。

 たとえば、僕の会社の商品のみならず、会ったこともない社員をTwitterで口汚く罵る人。考えれば組織と個人は別物ということはわかるはずなのに。おそらく、何を言っても聞く耳を持たない人だろう。「この仕事は嫌いだ=その仕事に関わっている人間は悪だ」という短絡的な図式。それは心の余裕が奪われたとみることもできるけれど、その背景には、もともと日本人が持っていると感じる「何でも人の評価に結び付ける」「とかく他人に期待する」癖が出ているだけなのかもしれない。

 組織と個人を切り分けない、という癖。講演会プレゼンで見る「この意見は個人のものであり、所属組織を代表するものではありません」という表記。当たり前のことなのに、そこまで言葉にしないとこの国は組織と個人を切り離せないのか。下に書いたのは、以前に辞めた職場に漂っていた雰囲気。組織と個人が切り離せないのは、誰も責任を負わない組織にその原因があるような気がしてくる。

・情報は得たがるが、決定力のない船頭ばかり
・実務を回す現場の人員が絶対的に不足
・一人がすべてを担当(船頭のお膳立ても)
・打ち合わせだらけ。自分の仕事は定時外から
・深い専門性を身につける暇がない
・統括部門に専門性がない。結局責任は各部
・イレギュラーに対応しない形式作りに終始
・いかに失敗しないか、批判されないかを第一
・実務で試行錯誤するプロセスを踏む暇がない
・拙速かつ陳腐な模倣のアウトプットに終始
・その責任は部下が負う。
・分業をしようとしても逃げるなと言われる
・identityの仕事を奪われたくないと思いがち
・他部署との協力を突っぱねる力だけは一流
・結果として社員に専門性は要求されない
・ゼネラリストもどきに安住する40代以上
・気に入らない人間はシャットアウト
・シャットアウトされないように飲み会に参加
・自分のこれからを考えられず漫然と仕事
・結果として仕事の質を議論できる人がいない
・自分の気持ちが組織に合わないのに耐える


 これは日本人気質そのもの。ワークライフバランスなんてそもそも合わない。令和になっても滅私奉公という日本人の気質が変わらないと無理。それを待っているうちに寿命が来る。例えば「女性の社会進出」という言葉が「ダイバーシティ」と言葉を変えて生き残っているように、30年経っても、言葉にする必要もないほど当然の価値観にはなっていない。

・深い専門性を身につける
・分業のカルチャーがあり、協力的かつ他者を思いやる場所を見つける

 個人がこれに対抗して、気持ちよく生きるためには、上に書いた中ではこの2つと、貯金(アメリカではfxxk you moneyと言うらしい。そう言って辞めざるを得なくなっても生きていける貯金)くらいしかできることはない。

    就職や人事評価で組織が問うべき質問は、やりたいことは何ですか、ではない。そんなものはすぐにはわからないし組織はそれを叶える場所でもない。問うべきは、あなたに何ができますか。残念だけど会社組織はそれに応えるスキルを与える場ではなく、期待などできないと思ってきた。期待できない組織であるほど、できることではなく、やりたいことを聞く。できること、それは他人と協力する上で必要なこと。やりたいこと、それは個人の責任で考えること。個人の責任で考える類のことを、なぜ組織が聞き、あろうことか口を出し、評価をするのか。

   もう少し、日本の会社組織というものがどういうものか、学生の頃、いや、子どもの頃に知っておけばと後悔している。仕事は1人ではできない、誰かの力も借りながらするものだと学生の頃には思っていたけれど、とんでもなかった。震災後、他人をあてにせず自分を信じて生きる覚悟を持った人は増えた気がするけれど、組織は何も変わっていないことに愕然とした。

 これからは、専門性を持った人が個人或いは小さな組織で、分業しながら働く時代が来ると思う。いわば小商いの時代だと本で叫ばれていることもあるけれど、別に何ら新しい話じゃなく、昔の日本が世界に先駆けていた(かもしれない)小商いの感覚に戻るだけなんだと思う。

 ここでつらつら書いてきた「専門性」は、「転職市場で評価される専門性!」と煽るビジネススキルのように取られるかもしれない。そんなことを言われると自分にも専門性があるか自信がなくなる。でも広く見れば、誰かと何かをやる時に、自分ならではの物の見方として必要とされるもの。それも「専門性」だと思う。もはや専門性とは、「自分の物差しで物を言う責任」と言い換えてもいいのかもしれない。最近、良かったと思うプレゼンはすべて自分の言葉で詰まりながらも真摯な思いが伝わるものだった。

以前社会人向け講座に来ていた高校生が、このモノの見方を身に付けたいから海外の大学に進学したいと言っていた。家庭環境が恵まれているのはあるにしても、頼もしいと思った。

日本の大学、特に国立大学は、かつての小商いが自然に持っていたような、寛容な自由さと多様性、そして人類の未来のために研究をするという根本をこの15年で捨て始めた。

反面、欧米はそうした自由を戦いの末に手に入れ、そのなかで成果を出してきたのだと思う。日本は全くフレームが違うからそのままで良かったのに、皮肉にも欧米の戦いの形(競争、戦略)を無批判に真似たが最後、もう面白いものは生まれにくくなるだろう。日本の組織のつまらなさに覆われてきた大学で学ぶよりは、海外に学びに行った方がこれからの子どもには良いと思う。

もういい歳だ。これからどうしようと思い悩むことも増えている。幸せになりたいね。