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転職について

そんなに見ている人もいないだろうけれど、再開。
学生の頃、今は亡きエキサイトブログやmixiを更新していたエネルギーはどこへ。気が向けば書いていく次第。

さてタイトルは自身ではなく桝アナのこと。
日テレを辞めて研究者になるらしい。正直驚いた。

フィギュアスケーター・町田樹氏のようにガチ研究者へのキャリアチェンジなんだろうか。テレビを見た印象でしかないけれど、町田氏の著書や解説動画からビシバシ伝わる「執念」ともいうべき研究者魂は感じなかった。いち会社員だから仕方ないのかもしれないけれど。

メディア、特にテレビでの「研究者」という言葉には、いまだに「末は博士か大臣か」と同じ類の聖職者めいた文脈が付きまとっている。ポジティブに科学と触れる機会なんて、ノーベル賞くらいしかないからだろう。テレビはその聖職者然とした姿を剥がすために、受賞者のプライベートまで執拗に踏み込む。さながら「ギャップ萌え」を演出して視聴率を稼ぐ道具。価値があるはずの、彼らの研究者としての人となりや泥臭さ、あるいは研究者を取り巻く悲惨な現実には触れられないまま終わる。

そんな現状に嫌気がさしたかどうかはわからないけれど、桝アナがやりたいのは、科学コミュニケーションらしい。かつて自身も傾倒した分野。でも、岩波文庫の刊行の辞(以下引用元)を見つけて愕然としてからというもの、「科学コミュニケーション」と一見新しく言われているようなことも、結局のところ出版業界が古くから築き上げてきた精神ー知識を得てだれもが賢くなろうーを借り受けたものでしかないと思うようになった。何よりも、原発事故後の放射能とどう向き合うかについて、科学コミュニケーションはあまりにも無力だったと思う。御用学者批判をはじめとして、分断される姿は結局のところコロナ禍でも変わっていない。

のちに教職に就く友人から、学生のころに言われたことがあった。「科学的な知識が得られて賢くなったところで、そのあと世の中がどうなれば科学コミュニケーションに意味があったっていえるんだろうね?」と。

賢くなることに価値があるからそれでいいのか、身に着けた知識に基づいて健全に批判できればいいのか、研究に寄付するカルチャーができればいいのか。それとも、人々が求める研究テーマができればいいのか。科学コミュニケーションっていったい何を目指したいんだろう。日本で殊更叫ばれる「科学コミュニケーション」という言葉は、それ自体が目的化していて、その先の暮らしや文化を語る責任を負う覚悟がどうも感じられない。むしろ、「科学コミュニケーション」を掲げずにそれ相応の活動をしている人の方が、芯が通っているような気さえする。

反面、とある海外の知人から「研究のその先を自分で語ることなんて、研究者にとって当たり前の義務でしょ」と言われたことが忘れられない。彼らには、「科学コミュニケーション」などという枠を設ける必要もないのだと悟った。「科学コミュニケーション」なる言葉がいまだに大手を振って生き残っている以上、海外との差はまだ到底埋められていないのかもしれない。

真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより開放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。

出典:岩波文庫 刊行の辞