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ワークショップ:「否定禁止ルール」が招く葛藤

 ワークショップでは「ルール」を設ける。「ルール」とは、参加者がより自分ごととして他者とワークに取り組めるようにするための「仕掛け」。
 そのうち、「否定禁止」というルールがどうも腑に落ちていない。確かに社会人講座ではこのルールのおかげで自己開示・傾聴・共感ができた。「否定されない安全・安心な場」「他者と協働する場」があったからそれが実現したことも理解している。でも、否定するコミュニケーションを常とする人にとっては、「否定禁止」というルール化により、自分らしいコミュニケーションの仕方が抑圧されていると感じないか。その思いは講座が終わった後も完全には消えなかった。ワークショップが望まない「否定禁止ルール」とは何か、もう一度考えてみたい。

▼「あるがままの発言を許される場」なのに「否定発言禁止」の矛盾
 職場で実施したワークショップでは、「否定から入る」タイプの方をよく見かける。そうした姿勢はこの場では控えていただきたい旨を文字通り伝えるだけだと、自身の自然なコミュニケーションを否定することにつながるためか、余計に彼らの反感・逆上を招く。
 このように、ワークショップは「参加者のありのままを認める」場としているにもかかわらず、主催者が「否定はいけません」と紋切りでルール化すると「否定をコミュニケーションの柱にしている参加者のありのままは認めない」という矛盾が生じる。私はバックオフィスの仕事がメインだが、接する方はクリエイティブな職種の方が多い。それもあって、彼らの自然かつ自由な発想を妨げるこのルールに疑問、より正確には気持ち悪さを感じていた。

▼参加者の立場から:許容される「否定のコミュニケーション」とは
 自身、「クリエイティブなことは否定や怒り、不満から生まれる」と考えているところが大きい。だから、否定から話し始めても、相手の話を踏まえて提案をしたい場合がかなりある。しかし、かつて参加した研修の主催者から「否定をしてはいけません」と理由なく窘められ、自身の創造性や主体性を止められたような気がした。私はこうした芯のところを否定されると、急速に冷めていく人間だ。主催者に賛同できる人たちで閉じて、生ぬるく楽しくやってくれと思い、綺麗に済ませるようにかかわり方を変えてしまった。
 ただ、社会人講座に通って、ワークショップは否定全般を禁じているものではないことは理解はできた。つまり、自分ごとの対話の障害になるのは「頭ごなし(=自分の価値観だけに根差し、相手の話を聞かない)の否定・押し付け」であり、これを禁じているのだということ。これに対して「なぜそのように考えるのか」「あなたはそう考えるけど、私はこういう点で違う」。まず相手の話が第一にあって、まずは咀嚼した上で相違点を話せばいい。あるいは、自分ならどうするか対案を話せばいい。こうした"健全な否定"ともいうべき話し方であるなら、むしろ歓迎されるという見方なのだろう。

「いったん相手を受け入れる」ことで、自分ひとりでは導けない成果を他者と生み出せることに気づく。その前提として、「頭ごなしの否定」を禁止するのだとしたら、否定から入るコミュニケーションをとりがちな参加者にも、ある程度は納得が行くのではと思う。このあたりの説明が雑になり、言葉の使い方を誤ればたちまち参加意識は下がる気がする。

▼参加者の立場から:浅い共感が招く内輪化
   他方、"健全な否定"すらも禁じられているワークショップは、浅い共感で終わりやすいと思う。新しい気づきを得るに至らないような薄い納得感に終始し、それを運営が放置する。そのようなコミュニティは続かず空中分解する。
 ワークショップが浅い共感で終わったとき、空中分解するのではなく、歪んだ連帯感や、コミュニティへの空虚な帰属意識が生まれることもある。言い換えれば内輪化。

   私はかつて或るコミュニティと距離を置いたことがある。震災後、分かり合えない現場の問題を「コミュニケーションの問題」とメタな問題設定をすることで対話から逃げた。そして行政・組織といった個人から離れた存在を無責任かつ対案なく批判して、自らのコミュニティの存在感を確認しようとしている雰囲気に不快感を覚えた。わかり合えない前提に立ち、対等な語り合いのコミュニティを作ろうとしている集団が、ある一方を批判して盛り上がる滑稽で皮肉な構図。コミュニティはこうして閉じていき、死んでいく。
 コミュニティの場を企画して実行するにあたっては、参加者のコミュニケーションが浅い共感に終始していないかを絶えず見る必要があるし、必要に応じて共感を深める問いを設けなければならないと、講座を通して身をもって感じた。その意味で、「問いをどう立てるか」についてさらに学びを深めたいと思っている。ワークショップデザイナーは参加者と俯瞰者、両方の視線から空気を察知できないといけない。それも大きな気づきだった。

▼企画・運営側の立場から:
「それでも他者を尊重できない人」を排除することの是非

 それでも、「いったん受け入れる」態度にすら抵抗を示し、他者を攻撃するなど、ワークショップそのものと相性の悪い「他者を一切見ない否定論者」にはどう対応すればよいのか。さらにそうした参加者に起因して、他の参加者が「自分ごと」として話をしようにも口を噤んでしまい、さらには傷つく場面があった場合、主催者がフォローするのは言うまでもないが、そういった方に当初から参加を遠慮してもらう工夫ができていれば、と運営者として思ったことも一度や二度ではない。
 公共と近いワークショップ業界でこのような考えは嫌われるであろうし、それこそがワークショップデザイナーが乗り越えるべき壁だ、などと言われるのは目に見えている。けれど敢えてここで提起したい。ワークショップデザイナーは果たして参加者の行為すべてに責任を負うような存在なのか。ワークショップデザイナーも人間。望ましいと思う参加者とそうではない参加者がいる。望ましくない参加者、特に他者への寛容性が無く他者を傷つけうる方への対処として、事前の広報、あるいは当日の段階でどうすべきか。いわば "Noisy Minority"への対処という観点も必要ではないかと思う。この対処で参加者の多様性が失われるとは私は思わない。最低限の質を担保する上では必要だと思う。
 あの社会人講座は、参加者がすべて意欲的であることを前提にしていて、意欲のない方への対応についてもう少し事例とともに学べる機会を設ける必要があると思った。日本よろしく運営側の責任として、参加意識を高めるためのサービスデザインで解決すべし、という意見ももっともだが、参加意欲が低いのは参加者の責任だとして参加を遠慮いただくことも考える必要があると思う。