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「書くこと」は即興性を奪うのか

考えを整理して話すことが得意じゃない。社会人としての話し方だけは社会人経験を通じて身に着けてしまったけれど。何もメモもせずに、自分ごととしての感情やイメージを整理された言葉にするのに時間がかかる。

人の言葉を漏らすことなく書きとめ、かつ大胆に議論をまとめて本質を抜き出してまとめて言葉で示すこと。それが好きで、周りよりも得意なことに、社会人講座に参加して気がついた。一方、自分の言葉で話すときには、共感する人が居ると分かってはじめて、色や空気感のようにしかとらえていなかった良し悪しのイメージや引っかかりを言葉にできることも多い。自分の意識には過剰なくらい「他者に対する意識」がある。

だから僕は、他者を意識しすぎて口に出せなかった言葉を残そうと、「ひたすら自分の思いを書く」ということに頼ってきた。だから、書くことは直観的・即興的で、話すことに代わる自分の表現手段だった。採用面接の定番質問「無人島に持ってくるもの」に対しても「ペンとノート」と答えたのにも合点がいく。しかし、社会人講座で体験したワークショップや、最近の仕事を通じて「書くこと」が時として自由ではなくなることを知った。

▼「書くこと」の即興性が奪われるとき
 ワークショップでよくある「メモをしない」「書かない」という制約。書くことは論理的・客観的な動きに直結するので、即興性を担保するのにその制約は役立つという説明も理解はできる。
 けれどこの類の制約がかけられたワークショップに参加した時、僕には戸惑い、むしろ精神的な苦痛が伴っていた。僕はスムーズに自分事を表現するにはメモが必要だが、それができない苦痛。何度も言葉を探して言い直すことが相手への申し訳なさにつながる。
 その恐怖感を乗り越え、下手を覚悟でも言葉にできる気持ちになるには、「熱く思いを聴く人が居る」という安心な場が必要。ただし、参加者がもともと熱意を持っているとは限らない(嫌々でも来る人がいるのは日本だけ?)。どういう問いかけとすれば傾聴の姿勢が少しでも参加者に生まれるのか。簡単なのは否定禁止ルールだけど、ルールにした時点で自然な対話を妨げる。

▼「書くこと」の主体性が失われるとき
 先日職場で僕へのインタビューが2時間ほどかけて行われた。全員が自身の話を真摯に聴く社員であったため、即興的にメモを書きながら対話を進めることができた。しかし、後から聞いた録音での僕の発話は、主語が抜け落ちる、感情的な表現も多いものだった。公開に耐える文章にするには言葉を補完しなければならない。とにかく表現を選んだ。誤解を招かないように、論理に矛盾がないように。何より「思い上がり」「上から目線」という中傷がないように。すると、共感してほしい「空気感」「熱気」がどんどん失われてしまっていくことを身をもって感じた。対話の場の共感の空気や、つい思わず話してしまった自分ごととしての熱意は、論理性・根拠・他者への配慮という観点からやむなく消さざるを得なくなっていった

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 僕はとにかく書くことそのものを、即興性や自己表現の手段と思ってきた。僕が愛する店、fuzkue店主の阿久津さんのblogもそういう立場で書かれているものだと思っている。全然整理されてないすがすがしさ。一方で、自身がこれまで意識していなかった、即興性を奪う「書く行為」がどのようなものかも身をもって知った。「わかりやすさ」「客観性」「他者への配慮」というフォーマットに落とし込んだ瞬間、熱気・即興性が失われる恐ろしさが生まれるのだ。そして、客観性と失われた熱気が、読者に新たな誤解を生むこともある。そもそも2時間かけて話したことが、たった数分で読めるような情報量に圧縮している以上、「自分ごと」として語っていることがわかる主体性や即興性に関する情報が失われるのは避けられない
 こうしたフォーマット自体を否定するものではないし、わかりやすく言語化することは短時間で他者を理解し、わからないところを問い直すためには必要なもの。だが、自分ごととして語る熱意や即興性は、安易に「書かずに話せ」という判断ではなく、フォーマットをなくし、また熱意や即興性を失わずに「書く」「書き留める」ということでも実現できないかと思う。

 ワークショップデザインは、分岐点の連続。この選択肢を選ぶ以上、もう一つの選択肢は捨てる。目的や参加者の気質に合っているか、という観点で選択肢を吟味し続けなければならない。デザインする立場の人がどれだけ考えても、参加者が当初の想定と逆の反応を示すことがある。絶対的な正解はない。だからこそ、熱意や即興性を引き出すための可能性を幅広く考え続けたい。