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「嫌い」が辞書から消えたら、「好き」も辞書から消える

あなたは春が嫌いな人が嫌いですか?
って聞いたとしたら、たぶんほとんどの人が「はぁ?」なんて言うと思う。

政治や法律の話は、今は横に置いといて。

愛は自由とか、平等とか、ダイバーシティとか、昨今よく目にする言葉たちだと思う。悪い言葉ではないし、そこに何か思想をくっつけるかどうかは自由。だけど、言葉の聞こえの良さだけに引っ張られて、いつしか同調しなくちゃならなくなっていっている気がする。息苦しくなってる人は本当にいないのか?とふと思ったりもする。

むかしむかし、いろんな国の人々は、だいたい平均っぽい人格の型紙に合わせられないと、「お前はおかしい」の烙印を押されてきた。
救われない少数派がいて、どうにも合わせられない人がいて、合わせられても苦しい人がたくさんいた。

たぶん世界の頭のいい人が、これはよくないって思ったんだと思う。だから、「自由を認めましょう」「違いを受け入れましょう」と呼びかけた。きっといくらか息苦しさがなくなると思った。それで救われる人は多かったから支持された。

でも今度は、「違いを認められないやつはおかしい」の世界が来た。いろんな人が「違いを認められる人」の型紙を作り始めた。

同じだよね。やっぱり救われない人がいる。我慢してる人を作る。万人を幸せにするために、万人でいることを強制される。どうしても認められない違いがあっても、「いやだ」と言っちゃいけないような空気。こうして問題提起をしたら、「こういうやつがいるから」の声が飛んでくる。

そして、マジョリティ側の人がマイノリティ側の人に「理解できない」なんて言った途端、まるで人でなしみたいに言われる。

「それは理解できない」って、そんなに悪いことなのかな。それが言えない世界って、本当に平等な世界なのかな。理解って、傷つけたとしても繋がり合う努力をした先にあるものじゃないのかな。

それでも、どうしても受け入れられない違い、理解し合えない人は絶対にいる。なのに、どうして無理やり手をつなごうとするんだろう。

仲良くできない人同士、仲良くできないまま置いておくのは、そんなに悪いことなのかな。

どうしても分かり合えない者同士を、それでも仲良くさせたいのなら、我慢させるか、無関心な人にするしかない。
これ、本当に平等で自由で、ダイバーシティに富んだ世界ですか?

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