12年前の記憶
今から12年前、2011年3月11日、東日本大震災が起きました。日本の歴史上の大記録になるような非常に大きな地震でした。東日本、特に強い津波に襲われた太平洋岸で多大な損害が生まれ、多くの方が亡くなりました。
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h23/63/special_01.html
毎年、この時期、あの日のことを振り返り、note のマガジンなどに書き綴ることによって、記憶を新たにし、その教訓を忘れないようにしたいものと思っています。
震災当日まで
2011年3月、ちょうどその週は、加速器のある研究施設に出かけて連日実験をしておりました。地震の数日前から大学院生たちといっしょにそこにおりまして、徹夜で泊まり込みの実験でした。
チェコ共和国に Charles University in Prague (カレル大学) という中央ヨーロッパ最古の歴史と伝統の大学があり、当時、私はその大学の特任教授を兼務していて、博士課程の大学院生を受け入れていました。3月末になれば帰国することになる学生にとって、最後の重要な実験の機会だったので、とても気合が入っていました。
地震の前々日、3月9日に、小さな地震がありました。それをよく覚えているのは、その地震が原因となって、加速器が短い時間ながらも、停止したからです。
そのさらに前、3月5日に茨城県の鹿嶋市の海岸に52頭のイルカが打ち上げられたことが話題になっていました。今から思えば、そのイルカたちは、やがてやってくる地震の予兆を感じ取って、異常な行動をとったのかもしれません。ただ、1対1のわかりやすい因果関係になっているわけではなく、生物の行動は、いろいろな原因が関わっていますので、なんらかの関係があったとしても、地震予知みたいな単純なとらえ方は難しそうです。
地震の前日、3月10日は、それを私たちが連続して行っていた実験の最終日でした。朝に実験が終わり、荷物をまとめました。機材とかサンプルとかを研究室に輸送し、その片付けで忙しいという感じの1日でした。特に大地震が来るとか、そんなことは何も考えませんでした。
震災の日
大地震の日、3月11日のことです。私の研究室は一つの独立した平屋建ての建物のなかにあり、そこで何部屋かを使って実験を行っています。大学院生たちは大体そこに常駐しています。私もよくそこにいますが、別の建物の高いところにもオフィスがあり、その当時は、そこにいることもよくありました。
私の携帯が鳴りました。学生の1人が、イントラネットで連絡してきたためです。X線回折の実験に使っているコンピューターの調子がおかしいということでした。現在では、slack とか、chatwork とか、discord とか、あるいは line とかを相互の連絡によく使われているでしょうが、私の研究室では、そのようなものが登場するよりもずっと前、1990年代くらいから、研究室のサーバー上に構成したイントラネットで、cgiスクリプトで独自のチャットシステムを作り、私の携帯電話に連動させていました。学生からの連絡で、それは困るだろうと思い、見てあげようと言って、階下に降りていったわけです。
実際に現場で見てみると、特に何も問題もなく、データもちゃんと取れてたので、大丈夫じゃないかと言って引きあげようとしたわけです。その歩いている最中に大きな地震が来ました。まともに歩けないぐらいの大きな地震でした。
結果的に、学生が呼び出してくれたおかげで、私は地上にいたわけで、危ない場所から逃れることができたわけです。
なんと言っても普通ではない規模の地震でしたので、すぐ実験室に取って返しました。研究室の全員を建物の外に出し、家に帰しました。しばらくの間、研究室に来ないよう、建物のなかには入らないように申し渡しました。
結構珍しいことだろうと思いますが、私の研究室は、どの部屋にも天井からクレーンを取り付けています。少人数でも重いものを安全に持ち上げたりで移動させたりすることができるようにという考えによるものですが、こんな地震の時には、クレーンは非常に危険です。この点検は、慎重に行う必要があるので、それが終わるまでは、研究室関係者は、誰一人たち入らせないようにしました。
そのあと、私はオフィスに引きあげました。停電して真っ暗です。その建物の階段を8階まで上がって自分の部屋に戻りました。すると、そこは悲惨な状態になっていました。たくさん本が全部床に落ちて無残に散乱していました。地震が来たとき、ここにいたら下敷きになっていたたかもしれません。さらに建物の内部を走っている実験冷却水の配管が破断して、水浸しでした。
しかし、総合的に見れば、損害はそれほど大きくはないとわかりました。建物内に、吹き抜けのところがあります。そこは空中の渡り廊下でつながれており、そこはガラスが多く使われています。もし、こういうものが割れたり、落下したりすれば、その下では大惨事が起きるでしょう。こういったことは全く起きていませんでした。
震災翌日の海外出張
まったくの偶然ですが、震災翌日の2011年3月12日から海外出張で、中国の上海で開催される国際会議に出席して招待講演を行う予定になっていました。12日に出発予定でしたが、その前日の11日に大地震が起き、連絡も全く何も取れず、電気まで止まってしまい、何もできません。
3月11日の夜は研究所の駐車場で、車の中で過ごしました。翌日の朝、成田空港に移動しました。飛行機はその時点では飛んでいませんでしたが、成田空港まで行くバスは動いていました。
成田空港に着くと、水も電気もインターネットもありました。地震があっても、場所によっては、このような場所もあったようです。砂漠のなかのオアシスみたいで、すごく有難く、安心しました。日頃あたりまえのように感じていたものが急になくなってしまっていたところ、そのありがたさを身にしみて感じるというな経験です。
成田空港では飛行機は飛ぶのか飛ばないかわからない状態で待機していましたが、午後になって上海行きが飛ぶことになり、乗ることができました。乗っている人ほとんどおりませんでした。結果として、私は上海まで行くことができましたけども、断念された方も大勢おられたのだと思います。
その飛行機の車中で、また上海に着いてからの地下鉄のなかのディスプレイ上での映像ニュース等で、東北地方等の太平洋沿岸部でどんなに大きな津波被害を受けたのかを知りました。震災の翌日の時点で、中国を含め世界中で大きなニュースになっていました。津波がどんなに大きな被害を与えるかということを、日本の事例で非常に分かりやすく示す結果になりました。
上海での国際会議は、半導体関係の内容だったのですが、中国の人たちは、日本から部品を輸入して製造している関係から、日本の生産設備の損害を非常に心配しておられました。非常にたくさんの方から声をかけられて、大変なことになった、自分たちも心配してますというなことを言われました。人道的な心配は当然として、それだけでなく、経済活動の面では、日本一国にとどまらず、中国も含め、他の国々への影響も大きいことが、こうしたことからわかります。
原発事故報道による大パニック
上海入りした3月12日、福島第一原子力発電所の1号炉で水素爆発が起き、さらに14日には3号炉も水素爆発を起こしました。津波被害を超えるほどの大ニュースになり、世界中で怒涛の報道が行われました。
研究室の学生たちは、みんなパニックになっていました。私の研究室だけでなく、他の研究室も同様です。結果的に大学院生も含めた、外国人の若い研究者たちは、最終的に9割以上が帰ってゆくことになりました。
不安を思いきり煽る報道が多く、研究室の学生たちの母国でもそんなニュースが流れているので、親や家族が心配するわけです。そこに大使館ルートとかとも不安をエスカレートするような情報が流れてきます。
震災の当日に、私に装置を見に来てくれと言っていたフランスの学生の場合も、叔母さんが絶対に帰って来いと言って片道の航空チケットを自分が買って送るからと言ったそうで、とにかく帰って来いという感じでした。
その渦中、上海から学生たちと連絡を取り合うのに苦心しました。
中国では、ホテルでのインターネット利用にいろいろ制限がありました。Twitter とか、Facebook はまったくだめでした。そのため、やり取りが非常に難しくて、やむなく国際電話で解決させました。中国の人は、なにかまた他の手段を使ってうまくやっているのかもしれませんが、中国、大変だなってその時は思いました。
私の研究室では若者たちもX線とか加速器を使った高度な研究をしていますので、放射線とかの専門的な知識も持っていますが、それでも、まわりがパニックになってしまうと、どうにもなりません。しょうがなくて逃げるように帰ってしまいました。
そんな時にも、悪いことをする人がいます。帰るための飛行機のチケットは
めちゃくちゃ高かったようです。すぐに乗れるわけではない、だいぶ先のチケットで、一本では行けない地方空港だったりですが、普通だったら価値があるとは思えないそんなチケットを、3倍とか5倍といった高額で売りさばく人たちがいます。パニックのために、それでも買う人たちがいるからです。
内陸部と沿岸部
東日本のなかで、最も人口の多い関東地方に注目すると、大きな震度になった地域は、関東平野の外周部でした。茨城県もその1つです。大きな地震は比較的人口が少ない地域で起き、東京都心部のような人口密集地帯のほうが相対的に震度が小さかったのは不幸中の幸いでした。
加えて、その相対的に大きな地震が来た関東平野の外周部でさえも、損害は、その地震の規模の割には少なくすみました。
阪神淡路大震災のような過去の大地震の教訓がよく生かされ、すでにその教訓を取り入れた技術が用いられていたという点は大きいでしょう。高層建築では耐震構造が導入されていますし、街並みの作り方の点でも、ブロック塀など緊急時脱出の障害物になるものを用いないといったことが生かされていました。海外にいる知人は、口をそろえて、こんな地震が日本以外で起きたらこんな程度の損害ではすまないよねと言っておりました。
しかし、それが言えるのは、内陸部についてのみです。太平洋沿岸部は津波で大勢の方が亡くなられ、町ごとなくなるほどの壊滅的な打撃を受けてしまいました。
福島県の浪江町というところに私が訪問したのは、震災から何年も経ってからですが、それほどの時間が経ってもなお、津波のときに打ち上げられた自動車や、倒壊した家屋がそのままでした。東北地方の太平洋岸は、大勢の死者を出しており、自治体の人口の半数を失うほどの規模の被害に至ったところもあったほどです。津波被害を受けた沿岸部と、それがなかった内陸部とでは、きわめて大きな差があります。
津波については無力感を感じます。これは将来への教訓ということにもなります。どんな技術を駆使したとしても、どんな対策を講じたとしても、現実問題として、沿岸部は津波が来たら助かるのは難しいと思われます。よく肝に銘じ、何かあった時に損失を最小にすませられるような対策が必要です。
帰国、点検、復旧
私が上海から帰国したのは3月15日のことです。帰ってきたその日、さっそく実験室の被害状況の点検を開始しました。計画停電が行われており、また研究所内での電力使用も限られていました。実験室の照明器具が使える時間帯に、建物の壁や天井や床や、持っているもの全部を丹念に調べていきました。
すると、実は、これは奇跡かと思うほど、損害が小さいことがわかりました。ほとんど無傷に近い状況でした。心配していたクレーンや、クレーンを支えている支柱とか、それを固定している壁との関係など、まったく問題はありませんでした。ひび割れとか、なにがしかの損傷を覚悟していたのですが、何も見つかりませんでした。さらに、研究機器・装置も、ほとんど何も壊れていませんでした。ごく一部、置き方が悪くて、地震の時に床に落ちて傷がついたとか、割れたというものが少しはありましたが、とにかく、あれほどの大きな地震が来たのに、研究室の損害は実は小さかったのです。
損害は少なく済みましたが、研究活動再開はなかなか大変です。何より、しばらく電気も水も思うように使えませんでした。真っ暗なのは、不思議なことに、人は、結構環境に適応する能力があります。暗いところでも、ちょうどネコみたいに、活動するのがだんだんできるようになりました。その後、計画停電があったり、研究所としての節電で、暗い室内で活動する日々が続きますが、それは慣れて、平気になりました。
しばらくの間、研究所でも自分の家でも、電気も水も使えず、さらに移動に使う車のガソリンもないという状況が続きました。そこで、腹を決めて、研究室に泊まり込んでいました。
そんななかで、暗がりの研究室のソファの上で、小松左京さんの書かれた「日本沈没」という古いSF小説を最初から読み直しました。「日本沈没」では、日本列島が最後には海中に沈んでなくなってしまうのですが、その前に大きな地震や火山噴火があります。大きな地震で、どこがどのように損害を受け、経済的な損失はどうなのか、復興資金がどれくらい必要かなど、非常に詳細に描写されていて、感心しました。現に起きていることとかなり近いことをここまで想像されているのだと思うと本当に驚きです。
「日本沈没」の登場人物が議論する損害の掲載規模や復興プログラムに刺激され、私も、この後の活動の計画をたてたりしました。
結果的に、私は、このあと福島第一原発事故や放射能の除染に関係する研究プログラムに参加し、復興関係で、自分も新しい研究提案を出すとかしました。
3月、4月はずっと余震が続きました。いつもゆらゆら揺れるので、乗り物酔いをしてるような感覚でした。だんだんそれにも慣れてきました。
計画停電や節電はずっと続きました。節電のために、大きな電力を消費するような実験は中止になりました。エレベーターとかも使えませんでした。たくさんあるなかで荷物用に1つだけみたいな使い方をしていました。
そういうなかで、一旦は逃げ出すように帰国していた若者が帰ってきました。震災で大混乱の日本の状況は、海外でも報道されていたので、周囲にも反対されたそうですが、本人は吹っ切れたようで、決意は固かったようです。ちょうど博士課程の最終学年3年生でした。1年間、迷いなく、研究に打ち込み、みごとに博士の学位を取りました。こんな時に、ひときわ輝いたそんな若者もいたわけです。
学会は3月開催のものが全部中止になっていました。地震から日が経ち、その時に予定していたプログラムの内容で、あらためて研究会を開催する人たちも現れました。私も自分の研究所の講堂を使って、そんな研究会を開催したりしました。
また加速器の研究施設の復旧の活動が始まり、そのお手伝いをしたりとかもしました。
人生のリセット
震災の当日前後は、海外出張に出ている間に、研究室の若者がみんないなくなるようなパニックがあり、帰国してからも、建物の損害確認、電気がないなかでの細々とした活動など、異例づくめでしたが、半年後、1年後になって、全体をみれば、そこから、また立ち上がっていくという時期でした。
損害を受けてまた復興させて立ち上がるというだけではなく、自分たちは何をどんな風にやっていくのかという新しい計画をしっかり考える機会にもなりました。一種のリセットをかけるようなことでもあります。
この研究室は何をやっているのか、という理念とか、コンセプトを考え直すことになります。そもそも、自分は、何のために、こんなことをやっているのかという、自分の生きがい、やりがいを再確認したり、考え直すことにもなります。
自分がやりがいを感じ、これをしっかりやってゆこうという計画の全体像を
明確にするとき、それを誰と一緒に手を携えてやっていこうとするのかということにも考えが及びます。
実際にこういう大きな震災のようなことがきっかけで、ある方がおっしゃっていた言い方は「友達の総入れ替え」が起きるみたいなことでした。本当に総入れ替えまでいくかどうかはわかりませんけれども、人と人の関係はいろんな基盤の上に成り立っているので、リセットがかかるような状況になったときに、自分たちが本当に必要としている人と人の関係はどんなものであるのかを考え直す機会になるでしょう。ある意味、とてもわかりやすくなるのでしょう。
今まで一緒だった関係が切れる場合もあるでしょう。それが悪いわけではなく、お互いに新しいスタートを切ることができる転換点になるのだと思います。既に12年も経っており、正しい選択であったかどうかも、十分に検証できているのではないでしょうか。
そのようにして、人も、人の集まりである組織もあるべき姿に向かってゆくのだと思います。
居安思危
中国の春秋時代の古典、「春秋左氏傳」の襄公十一年十二月に次の記載があります。襄公十一年は西暦では紀元前562年です。
太字にした部分、居安思危 思則有備 有備無患(安きに居りて危きを思う、思えばすなわち備えあり、備えあれば患い無し)は、2000年以上の年月を超えて、現代日本にも伝わり、残っています。リスク管理、とりわけ防災の基本のようなものです。何も起きていない時、いろいろな手を打つことがまだ可能な時に、用心深くしっかり対策を取っておけば、いざという時にパニックにならずに済みます。
大地震については、仮にまた同じものが来ても、今度はもっと小さな損失できっと生き延びてみせるための具体的な手立て、新しい技術の開発と応用が必要です。また、そのような自然災害のある国、時代のなかで生きて、研究しているということをよく頭に入れて、もっとも賢い計画に基づいて日々を送ることが必要です。
自然の力は、どんなに科学技術が進んだとしても、人がどうにもできないほど大きなもので、決して甘く見ることはできません。
大地震はいつかまたきっとやってくるでしょう。
その時、今回よりもさらに上手に切り抜け、最小の損害で乗り切るようでありたいです。災害のもたらす直接的な被害だけでなく、人がパニックになったら、どんなことが起きるのか、そんな時、何が弱点になるのか、もうよくわかったはずと思います。
それを知って、普段からよく備える必要があると思っています。何があっても、必ず、賢く生きのびていく日本と日本人でありたいものです。
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