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#日誌 ~雨降る日の心情

 日誌というものは通常公に公開するものではない。日常の中で感じ取る人々の喜怒哀楽、それに付随する様々な関係性、また自然や街中の至る所にある人工物、野生の動植物や其の場所の空気感や匂い、居心地など様々なものに対して、自身が想うことを綴っていき、1つの記憶として保管する。
 
 人に見せようとして書くものではないが、こうして自身の日誌を公開する事になんら否定的な感情はない。むしろ第三者の視点から見て、私の脳内思考がどのように映るのか気になって仕方がない部分もある。
 
 私は常日頃から、疑問に思ったこと・人との会話の中で気づいたこと・街中を観察しながら感じたことなどなど、気になったことは文字で記憶するようにしている。日によって勿論文字数は異なるが、変動性の原則で云えば致し方ない。その日の天候・気分によって人々は、無意識的に人との接し方がミリ単位で変化しているからだ。感情の生産と消費が同時に行われる対人での関係性はお互いの相互作用に強く依存している為、毎回異なった結果を生み出している。
 
 旱天(かんてん)の慈雨という言葉がある通り、雨とは恵みと癒しの根源であると私は感じている。雨に対してネガティブなイメージを持つ人は多い。勿論、傘を差さなければならなかったり、お気に入りの服や靴、鞄が濡れてしまうのは少々悲哀ではある。

 だが、それは自然の摂理であり、天候というものは人々の手でコントロールする事はできない。ある種の理不尽な感情と類するように、自分達の手でコントロール・抑制出来ないものは受け入れる他、術はない。雨が降れば傘を差すし、曇天であれば少々厚着をし折り畳み傘を常備する。晴天であれば少々薄着をし、お洒落を楽しむであろう。人から理不尽な感情を向けられたのなら逆情することなく、それを受け入れなければならない。

 雨が降らなければ大地は枯れ、生物の痕跡や音の流れはなくなり、ただひたすらに干からびた荒野が広がるのみ。地球という生命体が永い年月を生きる上で必要不可欠な現象である。それは地球の中で生きる私たちにとっても同じことであり、地位や名誉などの欲求に溺れた現代社会において、最大の恩恵は金ではなく雨なのである。

 哈哈镜(わらい鏡)にも似た水溜りで燥(はしゃ)ぐ子供たちの活気盛んな歓笑、地面に落ちた雨雫が蒸発し生み出される湿湿(じめじめ)とした空気感。瑟瑟(しつしつ)と響く風の音と屋根から滴り落ちる水滴の音に耳を立てながら、自分自身と向き合う時間は私にとってこの上なく幸せな一時である。


雨の日に聴くプレイリスト

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