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朝鮮半島式焼肉の「日本化」について(東洋経済オンライン記事補足)

東洋経済オンライン記事、公開しました。

大阪の猪飼野に朝鮮式焼肉(カルビチプ)が持ち込まれた昭和初期に、大阪のすき焼き店(当時は「牛肉店」といった)では鍋を使った焼肉(ヘット焼、オイル焼、バター焼)が行われていました。

「ロース」という朝鮮半島にはない曖昧な定義の肉と、客が自分で肉を焼く習慣は、このすき焼き店の鍋焼肉から朝鮮焼肉店に持ち込まれたのではないか、というのが記事の趣旨です。

記事にも引用している佐々木道雄『焼肉の誕生』では、客が自分で肉を焼くという朝鮮半島にはない習慣は、ジンギスカンの影響を受けたものだと推論しています。

佐々木道雄『焼肉の誕生』

私はこの佐々木氏の推論には無理があると考えます。というのも、戦前の大阪において、ジンギスカンはほとんど普及していなかったからです。

戦前のジンギスカンの本場は、東京でした。

1932(昭和7)年に濱のや店主が北京の「正陽楼」という店から「ジンギスカン」を東京に持ち帰り、ブームに火がつきました。

ジンギスカン「戦前は東京名物だった」意外な事実

『焼肉の誕生』に引用されている店舗「與太呂」は、当時の大阪では珍しい東京式の天ぷらを出す店。

つまり、東京式の天ぷら店が、当時東京で流行していたジンギスカンを大阪に移入したのです。

『焼肉の誕生』に引用されている『食道楽』昭和九年十一月号記事から半年後の昭和十年四月号の記事「大阪食味街漫策」(阪本陽)にも、與太呂のジンギスカンが取り上げられています。


「大阪食味街漫策」(阪本陽)

半年後でも“たった一軒”つまり他の店舗のジンギスカン参入はなかったのです。

與太呂はこれ以降も雑誌『食道楽』『食通』に取り上げられますが、ジンギスカンの存在は昭和十年四月号以降の與太呂記事、與太呂の広告から消え失せてしまいます。

私は『食道楽』『食通』の全記事に目を通し記録していますが、與太呂以外の大阪の店でジンギスカンが出されていたという記事は見当たりません。

つまり、戦前の大阪におけるジンギスカンは、一店舗(與太呂)で短期間出されていただけでその後衰退。東京のように定着することはなかったと考えられるのです。

一方、すき焼き店の鍋焼肉(ヘット焼等)は、当時隆盛していた20数店舗のチェーン店「いろは総本店・本みやけ」において出されていました。

『食通』昭和十一年八月号

しかもそこでは後に朝鮮式焼肉に導入される「ロース」肉も出していたのです(上記記事参照)。

大阪での「焼肉の誕生」に影響を与えたのは、短期間に衰退したジンギスカンではなく、有名すき焼き店チェーンの鍋焼肉における「自分で焼く方式」と「ロース」肉であったと考えます。

追記:明治時代の東京にも鍋焼肉がありました。名前を「すき焼き」といいます。