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リストラーズが歌うオープンセサミ

字を読むのが好きな子どもだった。
三歳の頃には絵本を逆さに持って、回らぬ舌で大人に読み聞かせをしていたという。
幼稚園でひと月に2冊もらえる絵本を楽しみにしていた。

いつから字が読めたのかはわからない。
うちのトイレは当時まだそんなに普及していない洋式で、ペーパーホルダーには使い方の説明書が貼ってあった。
幼い私はひとりで用をたしながら毎日読めない漢字をとばしとばしにして、それをぼんやりと眺める。
そのうち何故か全部読めるようになっていた。
親に読み方を聞いたのかもしれない。

親は教育熱心ではなかった。病弱な弟にかかり切りで、私に構う暇はなかったからだ。だからお話の世界にいるのが楽しかったのか。
リカちゃん人形と一緒にいろいろなお話の主人公になって一人でお喋りをしたり、たまにお友達と空想の世界のお姫様になってみたりして現実の寂しさから目を逸らしていたのだと今では分析できるのだが、その時はそれなりに楽しかったのだ。

何か読んでいれば静かにしている。だから親は本をよく買ってくれた。
でも、親には文学的な素養がない。主には世界の偉人伝、学研のひみつシリーズや図鑑、百科事典などが与えられた。
字さえ書いてあれば何でも喜んで読む子どもはそれらを何度も何度も飽きることなく読んだ。
小学生になれば、教科書が配られる。国語や社会の教科書は配られたその日に喜んで全部読んでしまうような子どもだった。

外遊びは好きではなく、ひとりで下手な絵を描いたり空想にふけったりしていたが、お話を書くこともあった。
他愛のない小人さんの冒険譚や教科書に載っていた宝の地図をもとに月の世界に宝探しに行く物語を書いたこともある。原稿用紙10枚ほどだったか、夏休みの自由課題として提出して先生に二重マルをもらったりした。

そんな子どもが意識をもって文学を読みだしたのは遅く、高校を卒業してからだ。弟の出来が芳しくなく、弟を大学にやる資金を残すために女の子どもに割く学費はないという理由で私は2年間で学費が36万しかかからない短期大学に進学した。通学に往復4時間かかるので本を読む時間がたくさんあったのだ。

その時出会ったのが澁澤龍彦だった。最初は大学生協の書店で何となく手に取った黒魔術の手帖という文庫本だった。知的で流麗な文章と西洋の文化についての深い教養にはまり込んでしまった。ひたすら彼の著書に次から次へと手を伸ばし実生活には全く何の役にもたたない知識ばかりが増えていく。
そして彼の影響を受けて「耽美」や「幻想」に偏った嗜好に走り、それからは谷崎潤一郎や泉鏡花、中井英夫、三島由紀夫、江戸川乱歩、稲垣足穂、森茉莉、栗本薫などをむさぼり読んだ。海外ものだとタニス・リー。
眼が眩むほど煌びやかで絢爛豪華な言葉の泉に身を浸していたのだ。これが10代後半から20代。私の人格の核の部分にたっぷりと与えられた養分である。
結婚してからは夫の影響も受けてミステリを多く読むようになった。中でも東野圭吾は割とたくさん読んだ。彼は多作でとても追いきれない。作品によってテイストが違い、私の好みに合うものとそうでないものの落差が大きいと思った。彼は実は何人かのユニットなのではないかと疑っている(笑)
柚月裕子の佐方検事のシリーズも大好きで何度も繰り返し読んでいる。
軽いものだと大山淳子の猫弁シリーズ。
海外ものだとパトリシア・コーンウェルの検視官シリーズ。

そして、私が最も好きなのが小野不由美の十二国記。未読なら是非ともお読み頂きたい。シリーズの第1巻目は読むのが苦しくなり途中で投げ出したくなると思うが何とか耐えていただきたい。以後の展開、ハマること請け合いである。

また、時代小説も好きでいろいろ読んだが高田郁のみをつくし料理帖やあきない世傳 金と銀シリーズは頑張る女性にエールを送りたくなる佳作。
私はどうやら女性が成長していく物語が好きなようだ。なかなか自己実現できない自分の代わりに主人公に感情移入して、その生き方を疑似体験する。それはとても胸がすく思いがするものだ。

あと、エッセイでは椎名誠や中島らも。
SFでは筒井康隆なども。

まだまだ好きな作家、作品など書ききれないが、ざっくりいうと私の成育歴はこんなものだ。
私の文章の三歳児時代は澁澤龍彦に染められており、その頃の魂が今の私の核になっている。
それが私の文章の血液となり、おそらく一生流れ続けるのではないかと思う。三つ子の魂百まで、である。

なぜ今になってこんな文章を書いたかというと、実はある方からの求めがあったからだ。
仕事や生活に追われて忘れ果てていた本を読むのが大好きで、文章を書くのも好きな小さな女の子。
自分の中の開かずの間のような場所に閉じ込められ、打ち捨てられていた。
求められるままに書簡のように書き綴るうちにその小さな女の子の存在を思い出した。

そして、そのことについて心許せる友と語るうちにその子はこわごわ部屋を出て私のそばにやってきた。友はその子の拙い話を辛抱づよく聞いてくれ、無意識の底から朧げな記憶ごと救い上げてくれた。まるで優しい女神のように。
どうして忘れていられたのだろう。
忘れていてごめんね。
それでも、たまらずに書きはじめていたのは、内側からあなたが「ここから出して」と呼んでいたからなのかもしれない。

出会い頭のようにリストラーズの存在に触れた衝撃が眠り込んでいたあなたを揺り起こし、私は書かずにいられなくなったということなのだろうか。

小さな女の子を眠りから覚ましたリストラーズとの出会いは多くの実りをもたらしてくれ、彼らを愛するというその一点だけで多くの友と繋がることもできた。
この文章を書いてほしいと、書くきっかけをくれた友も。
小さな女の子を救出してくれた友も。
このふたりにもリストラーズの存在なしには巡り逢えるはずがなかった。

こうしてもうそろそろ行き先も見えつつあった私の人生をもう一度開いてくれたのはリストラーズだったのだ。

オープンセサミ
オープンセサミ

彼らの歌声に触れると
目の前でどんどん扉が開いていく。
いっぱいに開いたその扉から入ってくる新鮮な風が小さな女の子の頬をなでていく。

さあ行くんだその顔をあげて
新しい風に心を洗おう。

彼らの歌うオープンセサミ。
あなたにも聞こえるだろうか。

追記
私がこの記事を書くずっと前、湯川さんが
このことについて既に深く考察されていました。
お読みいただくと私の感動がより伝わるかと思います。


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