見出し画像

りんごではないかもしれない

カウンセラーは相手の認識を肯定するでも否定するでもなく、「そういうものもあるんだな」「そういう考えもあるんだな」って程度に、判断を保留するのがうまい。日常会話についても、わたしがここから学ぶことは多い。


河合隼雄さんが、「括弧にいれること」の重要性を語っている。

「括弧に入れるというのはよく言われることですが、よい言い方です。忘れてしまうわけでもないし、否定するわけでもない。自分の倫理観というものを括弧に入れてクライエントとどのぐらい会えるかということは、非常に大事なことです」(河合, 2009: 104)

「別に仲よくなる必要もないし、同調する必要もありません。自分の考えはきっちり(・・・・)もって(・・・)いる(・・)けれど、括弧の中に納まっている。こういうことがどのぐらいできるか。これをカウンセラーは少しずつ修練していかねばならないと思います。」(河合, 2009: 105)

わたしがカウンセリングに興味を持っているのは、人を治したいから、というよりも、むしろ自分の知らない世界の人びととの出会いへの期待と、その出会いにどこまでわたしの常識が耐えられるのかという恐怖心とが入り混じっているからだと思う。「治す」というほど、わたしは自分が常識的な人間だと思わないし、何をもって「治す」というのかが、わたしにはよく分からないからだ。それよりも、わたしもまちがっているかもしれないというぎりぎりのところで自分を維持している、カウンセラーの存在のありようのほうが、むしろ面白いと思った。自分の考えを一応持ってはいるが、少しのあいだだけ保留しておこうという態度(妄想に過ぎないかもしれない)。

別役実さんの『別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』にある「りんごのエチュード」と、河合さんが「括弧にいれる」の事例で挙げている高校生とのやりとりが、よく似ている。ちょっと簡単に要約してみる。

まずは別役本から。舞台にはひとつのテーブルがあり、その上にはりんごが置かれている。役者が舞台に登場すると、そのりんごに気付く。そして彼はそのりんごを指して、次の3通りの言い方をする。

1. これはりんごではありません
2. これはりんごではないかもしれません
3. これはりんごです

舞台に現れた役者が、それぞれこんなふうに言ったら見ているわたしたちはどう感じるか。

次は河合本から。カウンセリングを受けにやって来た高校生が「たばこを喫っているんです」と告白する。そのとき、カウンセラーはどう答えるか。

1. 「そんなの、やめなさい!」
2. 「ああ、吸っているんですか」
3. 「まあ、たばこぐらい吸うてもええやろ」「ああ、そう。おれも若いとき 

  は吸ってたんだよ」

これも、あなたが高校生だったらどう思うだろうか。

さて、りんごの例では状況判断が、たばこの例ではみずからの倫理観が語り出される。でも共通しているのは、2の段階ではそうした状況判断や倫理観が宙づりにされているという点。「宙づりにする」ことが、必ずしも自分には状況判断ができないことや、倫理観がないことを意味しない。ただ、自分の考えや判断を「とりあえず」披露しないことにする、ということもある。河合さんが「これは修練が必要だ」と言っているように、単なる判断の中止ではないので、とても認知的に、また心理的に負荷がかかる。


何のために、このようなことをするのだろうか。「りんごのエチュード」では、机のうえにぽつんと置かれたその赤い物体は、じゃありんごではなくなんなのだ、と観客の目をくぎ付けにさせる。一瞬、何を見ているのか分からなくなる。

他方でカウンセリングの話では、河合さんの説明によると、括弧にいれたまま聞いていると、だんだんと話が変わってきて、「もうたばこなんかやめました」とか「吸いません」とみずから終わらせるようになるのだという。つまり、クライエントがみずからの力で考えて状況を打開することを、寄り添いながら待つのである。絶対的にわたしの倫理観が正しいとか、知識にまちがいはないとか、技術がすぐれている、などといった前提をひとまず括弧にいれておく。不確実性の時代がどうかと大上段に構えなくても、日常的に、ふと、常識ってなんだ、と不安に襲われることがある。もしかすると、わたしのそれってまちがっているのかな、こういうこともあるのかな、とちょっと考えてみる。そのジョーシキから意味をはがし切らないし、かといってはがさないわけではない。少しだけ「はがしとろうとしてみる」という手つきで充分なのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?