園田浩司

大学講師。世界の文化を体験的に学ぶワークショップ「マナラボ 環境と平和の学びデザイン」…

園田浩司

大学講師。世界の文化を体験的に学ぶワークショップ「マナラボ 環境と平和の学びデザイン」のサイエンス・コミュニケーター。カメルーンの狩猟採集民バカの子ども達の学びについて研究しています。主な著書に『教示の不在』(2021年、明石書店)。

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『教示の不在』――「教え-教えられる関係」を問い直す

 「教示の不在」とは、学習者が自分で学びを達成するために、教示者が意図的に教えない態度や振舞いのことです。アフリカ中部の熱帯雨林に暮らすカメルーン狩猟採集社会バカBakaの大人たちは、子どもを「教えない」と言われます。ただ、教えているかいないかというのは、じつは簡単に決められることではありません。 むしろわたしたちが考えないといけないのは、「狩猟採集社会の大人たちが子どもに教えているかどうか」ではなく、「『教示者である大人』と『学習者である子ども』がどういう関係にあるのか」

    • 安心して考える時間

      授業では、教師や生徒といった、社会的属性ではなく、一人の人として見ることができるかどうかの人的属性(つまり、その人らしさ)にこだわりたいものだ。その人とわたしとの位置づけは、何も互いの社会的属性をここではっきりさせたいわけではないからだ。(たとえば、「きみは生徒で、わたしは先生だ」といったこだわり)。 ゼミは「知識伝達型の授業」ではない。知識伝達型の授業は、スター型のネットワークを前提とする。しかし、全方位対話型のゼミは、メッシュ型を理想とする。理想とする、とわたしは思う。

      • 卒論も、だれかのために書いてください

        いま、卒業論文の書き方についての指導内容をまとめている。哲学者で小説家のウンベルト・エコが『論文作法』の中でこんなことを言っているのを見つけた。 「ある術語(筆者注:専門的な学術用語)を初めて導入するときには、いつもそれを定義したまえ。その術語の定義ができない場合には、その術語の使用を避けたまえ。もしそれが君の論文の主要術語の一つであって、しかも君がそれをうまく定義できないのであれば、すべて破棄したまえ。君は論文(または仕事)を間違えたのだ」(エコ, 2006: 184)。

        • 質的調査とは、その人を生きてみるための道具である

          「自己変容」は人類学でよく用いられる言葉で、フィールドワークをする目的や、そもそも人類学の存在意義として理解されている。自然科学は客体と主体とを切り離し、「他者を対象化する」。人類学は、そうしたまなざしをもちろん保ちつつも、客体と主体とをそこまで切り離さず「他者と一体化する(してみる)」。現場の人びとがやっていることを自分もやってみたり、その人たちとともにいち生活者となってみる。だからこそ、「研究者」としてだけでなく、ある「村の一員」として、またある「家族の一員」として他者と

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        『教示の不在』――「教え-教えられる関係」を問い直す

          認知的な側面から見た人と自然の相互作用ーー狩猟採集社会の子どもたち

          人と人との関係(社会関係)が、自然環境によって影響を受けるとすれば、どのようにして受けるのか。『教示の不在』本では、アフリカの熱帯雨林で狩猟採集をする人びとはどうかを考えた。一人の人間ではなく、その人とその人の周りにいる人、そしてさらに彼らを取り巻く外界環境へと、カメラのレンズをグーっと俯瞰させる。この俯瞰した位置から、外界環境を含めて相互行為を捉え直す。 相互行為というのは、ある行為とある行為の連なりのことだ。ある行為に対してだれかが応答(または反応)する。またその応答に

          認知的な側面から見た人と自然の相互作用ーー狩猟採集社会の子どもたち

          身体感覚から出発するグローバリゼーション

          歴史学者リン・ハント(2016)は、従来グローバリズムはとりわけこの30年間に起こるモノ、ヒト、サーヴィス、価値観の、西欧から非西欧社会への流入だと捉えられてきたという。つまり、言い換えれば「西欧的価値の流通や強制(近代化といってもいい)を通じて世界が同質化していくこと」(マクドナルドやグーグルを思い浮かべると分かりやすい。これらはどこでもある!)とよく考えられている。だが実際のところ、さまざまな文化的所産には「(西欧独自の創作物ではなく)多元的な起源やプロセスがある」と指摘

          身体感覚から出発するグローバリゼーション

          人類学へのはがゆさ

          大人とは教えるもの、子どもとは教えられるものという思い込み。アフリカ狩猟採集民バカBakaの大人―子ども間相互行為を見直すことで、そのわたしの文化的偏見を問い直す作業をおこなったのが『教示の不在』本である。 「これこれこういう象徴、観念があるからこの社会はこうである」、と既存の観念についての考えを見直す、というのが人類学の思考パターンのひとつである。このパターンにあてはめるとすれば、わたしが取るべき論理の流れは以下の通りである。 「教えるというのは、西洋的な考えである。な

          人類学へのはがゆさ

          学習者を評価しない教育をめざして

          その人がもっている能力など、本来は「度量衡」(内田樹さんの言葉を借りれば)によって量れる/測れるものではない。しかし、日本の教育はいつも、「いかに学習者のパフォーマンスを評価するか」を前提としているように見受けられ、教育学に足を踏みいれながらも、わたしは戸惑っている。 「それが学校の制度だからだ」といわれるかもしれないが、「ルール」だからというのは理由になっていない。そうした制度をなぜ無批判に内面化できるのだろうか。一人ひとりの学習者よりも、学校システムが上位にあり、そのシ

          学習者を評価しない教育をめざして

          「文化がちがう」と言っても仕方がない

          わたしがワークショップ(マナラボ 環境と平和の学びデザインによる『世界を旅しよう!』)をする理由は、ごく簡単なことだ。「開放性」を身に付けること。自分の生活や人生が安定していればいるほど(あるいはまったく逆に不安定であると)、人は変化を嫌う。変化を嫌うと、他者が邪魔で面倒なものになる。少なくともわたしにはそのように見えることがある。でも、まったくちがう価値観を持ち、まったくちがう生活をしている人たちが、同時代にいる。こんな面白いことはないではないか。 社会人は開放性を学ばな

          「文化がちがう」と言っても仕方がない

          会話の笑いと文脈の脱臼

          あるバラエティ番組で。明石家さんまさんとディーン・フジオカさんとのやりとり(以下、敬称は割愛させてもらう)。 さんま「自分が変わっていくのって、いやじゃない?」 フジオカ「自分が変わっていくのって、楽しいじゃないですか?」 さんま「かっこいい~!」 フジオカ (笑) 司会のさんまが、ゲスト席にいるフジオカに質問する。どういう文脈だったか、職業や自分の趣味嗜好がどんどんと変わっていくというトピックだったかもしれない。さんまは、「自分が変わっていくのって、いやじゃない?」と【

          会話の笑いと文脈の脱臼

          自由に学ぶ/自由を学ぶ

          学校だけが教育や学びの場所ではない。よく授業をしていると、「学ぶというのは学校でしかできないことだと思っていた」、という学生と出会う。学習とは「学校での学習内容を学ぶこと」、という意識があまりに強すぎるように感じる。 もしそうだとしたら、大学に来ても自由を謳歌して、自分が勉強したいことができて毎日が楽しくて仕方ない、というふうにはならないことはよく分かる。 実際、大学がなにをするところかよく分からないという学生は少なくないのではないか。わたしもそうだった。楽しくもなかった受

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          経験を問わせない―相手のことばを封じ込めるやり方

          相手との知識や経験差を感じて、しり込みすることなく自分の考えを自由に述べる。聞き手の無言の評価に臆病にならずに話し手が意見が言えるよう、聞き手ができることのひとつは、「相手の体験や経験を問う」ことだ。ファシリテーションやカウンセリング、学校の授業から親子の会話。いろんな場面でこのことが求められている。  国際協力の現場で活動するファシリテーターの中田豊一さんは、現場で効果的な聞き取り結果を得るための実践的な質問について紹介している。たとえば、次の2つの質問について考えてみてほ

          経験を問わせない―相手のことばを封じ込めるやり方

          りんごではないかもしれない

          カウンセラーは相手の認識を肯定するでも否定するでもなく、「そういうものもあるんだな」「そういう考えもあるんだな」って程度に、判断を保留するのがうまい。日常会話についても、わたしがここから学ぶことは多い。 河合隼雄さんが、「括弧にいれること」の重要性を語っている。 「括弧に入れるというのはよく言われることですが、よい言い方です。忘れてしまうわけでもないし、否定するわけでもない。自分の倫理観というものを括弧に入れてクライエントとどのぐらい会えるかということは、非常に大事なこと

          りんごではないかもしれない

          狩猟採集の学びと徒弟制の学びのちがい

          徒弟制の学びとアフリカ狩猟採集社会の学びはどうちがうのでしょうか。ここでは学習環境の側面から考えてみます(『教示の不在』本より)。アフリカ狩猟採集社会といっても、社会によってその環境はさまざまですが、ここではカメルーンの熱帯雨林(以下、森)に暮らす狩猟採集民バカBaka(バカ・ピグミーとも呼ばれる人びとです)に焦点を当てます。 まず、わたしたちの暮らしのなかにある徒弟制の現場を考えてみましょう(といっても、高度な産業化によってそうした徒弟現場はほとんど見られなくなったかもし

          狩猟採集の学びと徒弟制の学びのちがい

          なぜ会話なのか

          素朴に言って人類学や民族誌を書く目的は、異なる文化・社会・環境に暮らす人びとが、世界をどのように感じているのかを理解するための学問だ。そのために人類学者や民族誌家は、みずからの直接的な経験を通して重要と思われるトピックを取り上げ、現地調査での聞き取りやインタビューを欠かさない。 ところが、調査者であるわたしは、いったいどこまで彼らが語る内容を本当に理解しているといえるのだろうか。何を根拠にことばの意味を選んだり、定めたりしているのだろうか。人びとが暮らしている日々のリアリテ

          なぜ会話なのか

          言わんでいいこと

           大阪の立ち食いそば屋にて。駅のホームにある店でカウンターしかなく、横長のしつらえになっている。次々と客が入ってきて、やがてカウンターが混み始めた。おばちゃんが店にいる客に、詰めるようにうながす。 「いらっしゃい。すんまへんな、ちょっとあけてもろて、うん。」 「はい。民族大移動ありがとうございます。」 これ面白いのが、「民族大移動」という無駄なフレーズは、あくまで実際に客が移動する活動が終わった後に放たれている点である。もし、「いらっしゃい。すんまへんな。民族大移動お願い

          言わんでいいこと