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心の筋肉とひとの暮らし

朝、日の差さない湿り気の多いベッドで目を覚す。

平日の11時だというのに、二段ベットの階下に横たわる同居人の一人は未だまどろみの中にいるようだ。

誰もいないリビングに降り立つ。
それについて取り立てて驚くこともなく、そういえば昨日はシャワーを浴びずにベッドに入ったことを思い出し、おもむろに浴室へ立ち入る。相も変わらずかびに塗れた壁の先から、西武線のけたたましい轟音と踏切のサイレンが響く。

『2024年4月この場所を離れた私へ』

誰かがいれば、きっと何かが起こる。
夜に目を閉じた場所と、翌朝に目を覚す場所が同じであることくらいに当然なことのように。

バンドマンの一人が、のそり、とリビングに降りてソファーに腰を下ろし、Macと睨めっこを始める。誰かがどこかから持ち帰ったサンプル化粧液を果たして使っていいものかと考えあぐねていた私には、目もくれない。
そうかと思うと一気になにか吹っ切れたようにして『散歩に行こうか』と言い出す。肯定のほか何もいらないような顔をして、平然と有無を言わさず私を外へと駆り出してくれた。

中野にはじまり、高田馬場、新宿、目黒とJR線上を地元都民さながらにうろつき回っては、一体どれほどの大用を果たしたのか分からないくらいに満足をして、夜、またこの家へ戻ってくる。

目的のない人などいないのだろうけど、目的をつくることに長けた人が、どうもこの家には多い。
それがために、新しいことに触れる機会がいつもどこかで巡ってくる。飲んだことのないコーヒーや、お鍋に入れるヘンな具材も、思いもよらないひとの生活習慣、音楽産業の痴話話、生成AIの最新問題、移りゆくひとの生き方。

『2024年4月この場所を離れた私へ』

お金や職業、社会的な立場がどうとか、そんなことをここで考えることはそうない気がする。

それはもちろん、ベクトルを自己に向け続ける以上常に考えはする。けれどここでふれているのは、感性とか感情とか、そういう心の筋肉みたいなものだと思う。
こればっかりは、いくら1人で生きていっても簡単に鍛えられるものではないと思う。仮にできたとしても、それはボディビルダーの筋肉みたいに場面依存的なものだと思う。

何気なく生きたって構やしない。でも、そういう日々何かイベントが舞い込んできて心の筋肉を刺激してくれるような暮らしなら、きっとそれが特別なわたしを形づくってくれるような気がする。

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