寂しいから、たばこを吸う人を嫌いでいたい

吸うなら、堂々と吸っていてよ。

私は、喘息持ちだ。物心ついた時にはもう喘息を患っていて、喘息の発作が治らなくて急患に駆け込んだことも何度もあったけれど、今はだいぶ落ち着いた。発作が起きることも少なくなってきて、急に走らない、よく寝る、冷たい空気を一気に吸わない、とか、少し気をつければ日常生活に支障はでなくなってきた。

でも、どんだけ普段気をつけてても、たばこの煙を吸ってしまったら全部意味がない。

私の体感的に、喘息の発作にはマシなタイプと嫌なタイプの二つがある。苦しいけど、少しすれば治りそうだなとわかるのがマシな発作で、薬を吸入しないと治りそうにないのが嫌な発作。たばこの煙を吸うと、ほぼ100%嫌なタイプの発作が起きる。

急激に気管がヒュウッと狭くなって、静かに首を絞められている感覚。緊急用の吸入するタイプの薬は、命の次に大事なもの。

吸入するタイプの薬はかなり強い。すぐ発作が治まる。そのかわり、心臓に負担がかかるらしい。確かに、吸入後は手に力が入らなくなって、指が震える。呼吸するのは楽になるけど、気管に変な感覚は残る。

だから、たばこは小さいころから大嫌いだった。父がたまに吸っていたけれど、父は家の外か、換気扇の下か、私から離れたところでしか吸わなかった。私が発作を起こすのを知っているし、母も嫌がっていたから。たぶん、父は喫煙者として、家でかなり肩身の狭い思いをしていたと思う。

大学生になって、喫煙者の多さに驚いた。喫煙所で吸っているだけならまだしも、飲み会で平気でたばこを吸う。

「あ、たばこ吸っても大丈夫?」って、いやいやあなたもうたばこに火ついてるじゃないですか。ここで私が喘息持ちなんでって言っても、白けた顔して少し離れるだけでしょう?そして、悪者は私になるんでしょう?

もう何度もこのやりとりをした。別に、私が移動することに文句を言いたいわけじゃない。飲み会でたばこを吸うなと言いたいわけじゃない。

私は、たばこを吸うならいい人ぶらないで、と言いたいのだ。

ここでいういい人っていうのは、普段の性格とかは一切抜きにして、たばこを吸う瞬間だけ。たばこを吸うことが悪なんじゃなくて、たばこを吸うなら、見せかけの配慮をするな、と、それだけ言いたい。

吸うのをやめる気がないくせに、見せかけの配慮なんて、いらないのだ。

まぁ、正直、たばこを吸う意味はわからない。美味しいかどうかなんて私には一生わからないだろうし(吸ったら、間違いなく急患にかからなければならないだろう)、煙は臭いし、体に悪いことはわかりきっているのだから。私にはたばこを吸う意味はわからないけれど、それでも吸いたいと思うなら、もういっそ堂々と吸ってくれ。そっちのほうがむしろ清々しい。見せかけの、「煙大丈夫?ごめんね?」はいらないのだ。

たばこを吸うなら、もういっそ堂々と吸っていて。

高校時代の友人と、2年ぶりに会ってサシ飲みをした時、彼が喫煙者だということを知った。ふたりだけしかいない居酒屋のテーブルで、喫煙者と非喫煙者を分けることなんてできない。彼は私が喘息ってことを知らなかったと思うけれど、彼は吸う前に言った。

「本当にごめん、たばこ吸わせて。煙とか嫌だと思うんだけど…。嫌だったら外でて吸うから遠慮なく言って。」

その清々しさに、私は初めて目の前でたばこを吸われてもいいかなと思えた。いつもは嫌いなたばこの煙の匂いさえ、そんなに嫌じゃないなとも思ってしまった。

喫煙者たちは、喫煙者たちの見えない絆のようなものがあると思う。喫煙所で仲良くなることもよくあると聞く。本当は、それも少し羨ましい。私には一生出会えない絆だと思うから。見えないところでの絆って、秘密みたいで羨ましい。

だからこそ、もう普通に堂々と吸っていてほしい。こそこそ隠れて吸うのも、心配するふりして吸うのをやめるつもりがないのも、ダサい。ううん、それだけじゃない。なんだか自分が惨めに思えてきてしまう。たぶん、子供じみた劣等感。本当は、私もその仲間に入りたいのに、たばこという自分が絶対に使えないツールでしか仲間に入れない。それが、ひどく寂しい。

だから、誰にも悪びれもなく吸っていてほしい。そうすれば、悪者にできるんだもの。自分勝手だと怒ってもいい。自分でもそう思う。

ああ、自分のことしか考えてないって、私も人のこと言えないなぁ。




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