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社会に開かれた教育課程という言葉の脆弱性


こんにちは、お久しぶりです。
また長期休暇になったのでアウトプットするためにnoteを立ち上げてみました。

もう宣言します。
私は長期休暇にしかアウトプットしません。
#開き直るな

冗談はさておき。
今日は社会に開かれた教育課程という言葉の脆弱性というテーマで書きます。
かなり切り込んだテーマですので様々意見があるかと思います。しかし、ここをしっかり分解していかなければ、日本の教育の足踏みは止まらないと思うので、ここは現段階における自分の考えをはっきりと書きます。

なお、今回の記事は教育にがっちり振った内容となっています。教育に携わる人でなくても伝わるように頑張ります。

そもそも、社会に開かれた教育課程って何?

そもそも社会に開かれた教育課程というのは何か。
これは現行指導要領に記述されている言葉で、指導要領改訂時にカリキュラムマネジメントなどと併せて大きく話題になりました。
中教審答申では以下のように述べられています。


...これからの教育課程には、社会の変化に目を向け、教育が普遍的に目指す根幹を堅持しつつ、社会の変化を柔軟に受け止めていく「社会に開かれた教育課程」としての役割が期待されている。
このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要となる。

(1)社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
(2)これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓いていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
(3)教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。

つまり、これからの教育は、学校の中での学びに留まることなく、変化する社会に目を向け、よりよい社会を創る資質能力を育てましょう。そのために、地域や社会と連携しながら学びをつくりましょうなんてことが書かれているわけです

この考え方には大賛成です。
学校での学びは社会生活に関連する学びでなければいけないと思うし、人生を豊かにするものであるべきだと考えます。

ちなみに、このような考え方は今始まったわけではありません。
これよりも前に、総合的な学習や生活科が教科として取り入れられた頃から盛んに言われています。
(指導要領の意図を読み取る上でこれまでの改訂の流れを掴むのは非常に大切ですが、ぐだぐだ長くなるので割愛)


しかし、私はこの社会に開かれた教育課程という言葉には問題があると感じるのです。

今の社会の課題って・・・

これからの変化の大きい社会に対して、自分の人生を切り拓いていく力をつけようというのは分かるのですが、どこを見てもこの「変化の大きい社会」について具体が書かれていないのです。

せいぜいAIの発達について述べられているくらいでそれについての記述も具体的でありません。

また大きな社会の変化や課題について具体を話す時には度々、東日本大地震の話やコロナの話が例として挙げられます。

震災やコロナについてはかなり特殊な事例であり、たしかに社会に大きな変化をもたらしたのは事実ですが、社会の変化というのは本来もっともっと細やかに、日常的に起こっていることではないかと考えます。

一年前と今を比べても、コロナの事情を抜きにしたって社会は大きく変化しています。

つまり言いたいことは、「社会に開かれた教育課程」を大切にしていこうと指針が出ているにもかかわらず、現在の社会について見つめていない(見つめようとしていない)と思うのです。

社会で生き抜く力を育む場所である学校。そこで指導にあたる教員が今の社会ではどんなことが起きているのかを知らない。いや、知ろうとしていない。
ここに大きな問題があるのではないかと思います。

(ちなみに、SNSでよく「先生は社会に出たことがない。社会を知らない」などという投稿を見かけますが、これは私は誤っていると思います。なぜなら「教育職員としての社会」で生きているからです。子供と教員とでは同じ学校で生活していますが、教員は学校現場で労働している場としての社会で生きています。しかし、教育という業種の社会しか知らないという点が問題だということです。)

今の社会を眺めて思うコト

こんな偉そうなことを言っていますが、かくいう私も教育の社会の外へは出たことがない人間です。私自身、学校のための学校教育にならないように、気になるオンラインサロンで情報を共有したり、さまざまな業種の書籍にあたってビジネスについてインプットを図っています。
そんな私なりに今の社会について解釈していることを最後にお伝えします。


みなさんは、最近外食ってされましたか?
どこで何を食べましたでしょうか?

焼肉、お寿司、ラーメン、ファストフード・・・今ではさまざまな選択肢があり、どれも気軽に選ぶことができますよね。

焼肉とかお寿司とかっていうのも私が子供の頃は、何かおめでたいことやお祝い事でもなければ食べに行くようなことはなかったのですが、今ではかなり手頃な価格で食べることができます。
しかも、品質もとてもよいお店が多いですよね。好き嫌いの好みはありますが、基本的に美味しくないラーメン屋さんなんて今ではほとんどない。

つまり、現代の社会のモノやサービスの品質の平均値が非常に高く格差が生まれにくいということがいえます。品質が高いなんて今の世の中当たり前で、その上で戦っていかなければなりません・・・。

ではそんな社会に出ていく子供たちにはどんな資質能力が必要か。

私は価値を創造する力が必要不可欠だと考えます。

モノやサービスの品質を高めるだけでなく、そこにプラスαの付加価値を創造する。

美味しいだけでなく、SNSで発信したくなるラーメン。
家に飾りたくなってしまうオシャレなパッケージのブルーレイディスク。
ついつい雑談したくなってしまって立ち寄ってしまうレジ担当の店員。

それぞれ食べる、見る、こなすだけではない存在です。
クオリティが高いポジションで拮抗する社会では、その上に積み上がる部分で勝負していくことが他との格差につながっていくと感じます。

だから学校では・・・

今の例はほんの一例ですが、そこから見えることもあります。

このような資質能力を育成するために、学校教育では物事を多面的、多角的に見る力を育てることが必須になってきます。
ラーメン=食べるモノ では付加価値には辿り着けません。

だから、算数の学習では正解だけを見つめる授業ではいけないと思うのです。あらゆる考え、時には誤答に着目してそれぞれの考えの良さ(価値)を発見していく。
算数だけではありません。他教科はもちろんのこと、日々の生活の中のあらゆる場面で学ぶことができると感じます。

こういった学習活動の積み上げが、思考のクセとなり全身に溶け込んでいく。こういったことを資質能力の醸成と考えます。

社会を軸に教育の在り方を考える

このように、今の社会を見つめ、そこから課題を捉えて教育活動に転用していくというプロセスが非常に大切だと思うのです。

コンテンツベース(知識型)からコンピテンシーベース(資質能力型)へ。

子供を変えると言う前に、私たち教員の考え方が変わらなければならない、そう思うのです。

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