本当の意味でゲームに没入する瞬間

ゲームならではの魅力とは何か?と考える時、能動的な没入感を挙げる人は多いのではないかと思う。自分で操作するからこそ得られる、ゲームの中にのめり込むような感覚は独自性の高い体験だ。
 ゲーム機などのスペック上昇に伴い、映画のようにリアルな世界を擬似体験できる作品も増えた。昔ながらの黙々と攻略法を探るゲームと比べると、現代のゲームはしばしば目指す方向性が異なるようにも思える。
 僕個人はどちらかと言うと古いゲーマーで、ゲームに没入感をさほど求めない方だったのだが、以前ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを遊んでいた時に思わぬ驚きを経験したことがあった。きっかけは「温度の低いフィールドに行くとダメージを受け続ける仕様」だ。

ゼルダシリーズはある意味で非常にリアリティを重視している。草を刈ったり看板を切ったり崖をよじ登ったり...プレイヤーはリンクという「手」を通してゲームの中に触れることができ、単なるデータの塊でしかない画面の中に質量や手触りを見出す。
 こういった質感はただグラフィックがリアルになるだけでは決して生み出せないもので、任天堂が伝統的に強みとする領域でもある。ブレスオブザワイルドも時代相応の映像美を追求しつつ、単に映像だけでは語れない独自のリアリティを実現した。

その最たる例が「空気感」だろう。僕の場合は雪山の寒さという形でそれを強く実感した訳だが、他にも美しい野山に流れるゆったりとした時間なども味わいのあるものではないかと思う。
 切れるような空気の冷たさ、柔らかなそよ風が肌を撫でる感触など、映像と音しかないビデオゲームには決して表現できないものがある。それをプレイヤーに伝えるには、映像美や音響の追求とは異なる柔軟な工夫が必要だ。

ブレスオブザワイルドのフィールドで流れる静かなピアノ音楽などはその一例だろう。激しく主張しないBGMがその時々の空気を抽象的に表現し、直接的な効果音とは異なる角度からプレイヤーを豊かな自然の世界に引き込む。
 温度変化によって体力が吸い取られる仕様も、それを防ぐ様々な装備や料理などと掛け合わさることで没入感の土台となる。過酷な自然を生き延びるサバイバルのようなゲームシステムが、時に予想外のドラマを生む。
 ゲームならではのリアリティはまだまだ研究しがいのある分野だ。マシンパワーやVRといった技術の力に頼るだけでなく、クリエイターの工夫とセンスが今も重要な役割を担っていることを改めて強調したい。

プレイヤー自ら感動を引き当てる

前述したゼルダの雪山の例についてもう1つ語るべきポイントがある。それは、こういった没入感は狙って起こせるものではなく、偶然が積み重なったからこそ強い体験になる...という点だ。
 もし僕が十分な防寒具を揃えていたら寒さによるダメージは脅威ではなかったし、突然イベント戦が始まらなければ回復アイテムを補充する機会があったかもしれない。探索ルートの選択を含め、様々な条件が揃った結果ギリギリの緊張感を味わうことができた。
 何一つ予定調和ではないからこそ、その体験は自分だけのものになるし、何か奇跡的なイベントが起きたように感じられる。こういった偶然の連鎖はゲーム以外のコンテンツ(小説や映画など)ではまず起きないものと言っていいだろう。

高い没入感を生み出そうと、まるで一冊の本を書くようにゲームの流れを緻密に制御する開発者もいる。地形やギミック・敵の配置を工夫してさりげなくプレイヤーを見えないレールに乗せるなど、作り手の考える理想的な展開に持ち込むことも実は可能だ。
 ただあまり厳密にプレイヤーを誘導すると、自分が操作されていると気づいた瞬間に気分が冷めてしまう。開発者のこだわりが逆に没入感を損ねる結果にならないよう、柔らかくゲームを設計したい。

没入感を高めるためにストーリーを磨く手もある。単純に物語が面白ければその世界に浸りやすく、それが程々にゲーム性と結び付いていれば、何となくゲームならではの体験をしたように感じることも。
 しかし、一本の固定的なストーリーは本質的に小説や映画と変わらない。いくら完成度が高くても、書き手が考えるストーリー展開は多かれ少なかれ読み手の感情と噛み合わない部分が残るものだ。それをプログラムの力でどうにかしたいとゲーム開発者は考える。
 だから会話に選択肢を設けたり、マルチエンディングにしてプレイヤーに自由度を提供する作品が多い訳だが、これも根本的な解決とは言い難い。いくら分岐を作ってもプレイヤーが取りたい行動を完全に読める訳はないし、結局は作り手の用意したシーンを1つずつ消化するだけのゲームになりがちだ。

プレイヤーが最もゲームに没入するのは、開発者の計算通りの展開になった時ではない...と僕は考えている。プレイヤーはゲームという自由な箱庭の中で、自分が最も感動する瞬間を自ら引き当てにいくのではないだろうか。
 作り手が提供したい価値と、遊び手が欲する価値は必ずしも一致しなくていい。ゲームならではの感動とは、何度も遊びながら試行錯誤を繰り返す内に、両者のこだわりが偶然重なる瞬間のことなのではと。
 前述したゼルダの例のように、そういった偶然を起きやすくするゲームデザインを考えるのも一つの手だ。開発者は様々な展開を先読みしつつも、プレイヤーがその想像を超えていく前提でゲームを設計しておきたい。

没入感はどこまで進化するか

近年のゲームは古い作品と比べ、より強く感情を揺さぶるようになったと感じる。映像技術の進化によりリアルな映画のように楽しめたり、ストーリーとゲーム展開の一体化にこだわった作品が増えたり、ゲームならではの没入感が増してきた。
 それとは別に、昔ながらのシンプルなゲームだからこそ生じた没入感もあったように思う。プレイヤーは最低限の抽象的なグラフィックから想像を広げつつ、単純な遊びの繰り返しに没頭してその世界を堪能していた。

今のゲーム開発は自由自在に様々な素材(映像、音声など)を取り込みやすく、良くも悪くも表現力が豊かになっている。純粋にただゲーム的な表現を追求していた過去のセンスが参考になる時もあるのではと。
 ゲームそのものを深く研究しない限り、ゲームならではの没入感は磨かれない。古い勘と新しい技術が上手に融合した時、ゲーム文化はまた一段階進化していくのではないだろうか。


※本文は以上となりますが、有料部分にちょっとしたオマケを付けています。ゲームに没入感を作るにはプレイヤーを追い詰めるべき?という話を少し語ってみました。
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