『孔乙己』の茴香豆を再現する

この春はそら豆を買って茴香豆(ういきょうとう)を再現しようと思った。

先日、天満天神繁昌亭の『桂米輝ウィーク』に色物(漫才)として呼んでいただいた。以前から桂米輝さんに似ているとよく指を指されていたので、そのご縁で香盤に組んでいただいた。人生なんの縁がつながるか分からない。

左から、私、桂米輝さん、笑福亭生喬師匠

出番のあと、桂米團治師匠に近くの中華料理屋をごちそうになった。

前菜として出てきた落花生は、八角と動物性の旨味のある薄い煮汁(シンプルにMSGかもしれない。MSGはもう立派な中華食材だ)で煮たものだった。それを紹興酒で飲んでいると、ある風景を思い出した。魯迅の『孔乙己』に出てきた「茴香豆」だ。

孔乙己(クンイーチー)はある男のあだ名である。彼は科挙の秀才に合格できず、そのまま定職に就くことも社会になじむこともできなかった人間だ。官吏を目指していたのだから、古典や漢字には精通している。しかしもはやそういった知識は移りかわる中国社会においては博物趣味と同じで、なんの役にも立たないうんちくとなっていた。

孔乙己はいつもボロを着て居酒屋に現れ、紹興酒の燗と茴香豆を二束三文で買ってつまむ。周りの客からいじられると小難しい言葉遣いで反論し、それをまた笑いものにされる。語り手である店員に「茴香豆の「茴」の書き方は何種類かあるのを知っているか?帳簿につけるときに書くのだから覚えておけ」と説教する姿は、役に立たない知識をひけらかす象徴的なシーンとなっている。

そんな茴香豆をふと思い出した。茴香豆の材料はそら豆なので、旬の時期になったら作ろうと思ったのだ。

ウイキョウというとフェンネルを指す言葉だが、中国語においてはフェンネルを小茴香、八角を大茴香というそうで、レシピを見てもどちらを使うかは定まっていないようだ。なら、両方入っている五香粉を使っても問題あるまい。そら豆に切り込みを入れ、鶏ガラだしと五香粉、醤油、紹興酒を入れて煮る。

『孔乙己』はこの『阿Q正伝』にも収録されている

辣子鶏や醉蝦(酔っ払いエビ)もそうだが、中華はしゃぶったりほじくりだして食べるものが多い気がする。中国人がヒマワリやカボチャの種をポケットから取り出して器用に食べるのもよく見る光景だ。

そら豆もそのまま食べられるが、茴香豆を食べる動画を見ているとみんな薄皮からほじくりだして食べている。味はというと、シンプルでおいしい。青菜には寂しく、肉にはもっとパンチがほしいというあんばいの味付けに、そら豆の旨味とホクホク感がほどよく合っている。油分はないが、これでいい。いくらでもつまめる味だ。紹興酒を温めると、カラメルの少し煙たい甘みと、焦がした焼き芋に感じるような酸味が口の中を引き締める。これがスパイスの甘い香りとよく合う。

茴香豆は作中で安い酒肴として描かれる。紹興酒も現地では安い酒だ。こういう何でもない食べ物を再現すると、自分も何でもない人の仲間になったようで安らぐ。安い酒と安いつまみは、いまでもここでもないどこかで、誰かが食べている。それは愛おしいことだ。

「何者でもない」「何者にもなれなかった」という呪いの言葉は、たぶん東京で生まれた言葉だと思う。じつは田舎では誰もが「何者か」であるから。外を歩けば、自分が何者かを全員が知っている。田舎出身の私は東京なんかに行くと、町を歩く人全員が私のことを知らないことに、むしろウキウキする。何者でもない者の酒、何者にもなれなかった者の食事。上等じゃないか。港区で不当な値段の寿司を食っているよりよっぽど文化的だ。

孔乙己はその後店に現れなくなり、「多分、孔乙己はきっと死んだのだろう」という結びの文で小説は終わる。教訓もなにもない、人と社会の変容が一人の男を置き去りにしたというだけの、ただ物悲しい小説だ。豆を煮たというだけの話を、仰々しく魯迅をもちだして書いている私もまた、現代の孔乙己なのかもしれない。

芸人をやっているくせに矛盾した願望かもしれないが、最後には誰の記憶からも忘れ去られたい節がある。多分、草山はきっと死んだのだろう。人生の終わりはそんな風に迎えたい。

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